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Cover Illustration: ©Shishi YamazakiCharacter Illustration: ©DAISUKE KONDO

第一夜
#フェミニズム#人間関係#シスターフッド#大量消費社会#拝金主義
小説2026/08/31

マリカとカリナと足りない在処

第一夜

児玉雨子

1

今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて、尿として便器の底に放り落とされてしまう。ごめん、わたしがうっかり酒に強いばかりに。マリカは尿になったすべての光に、謝罪にも祈りにもなりきれない感傷を抱く。八時に出勤して二時間足らずですでにシャンパン五本を開け、アルコール中毒を起こすことなく、上から下へ次々と価値を変換してゆく。そんな強靭な肝臓をもち、ちょっとした風邪すらもオリンピック的周期でしか引かない丈夫な体に生まれたことが、マリカのキャバ嬢としての誇りであり、最大の能力だった。

ぼうっと引き出していたらささやかな花束ほど膨らんでしまったトイレットペーパーの束を固く丸めて股間を簡単に拭き、大モードで流してから個室を出ると、さきほどの声の主であるKyrieと手洗い場の鏡越しに目があった。Kyrieはティッシュで鼻を軽く抑え、皮脂を吸い取っている。

「なかなか出てこないから、どうしたのかなって」

「潰れるわけないじゃないすか」

洗った手を愛用のアンパンマンのハンドタオルで拭いてから、肌荒れ予防に常飲している硬水のペットボトルに口をつけるマリカに、Kyrieが「でも、心配すんの」と言って五苓散ごれいさんの小袋を差し出してきた。こちらが受け取るまでKyrieはそれを掲げて引っ込める気配がなかったので、マリカはおとなしく礼を言い、小袋を受け取って目の前で飲んだ。喉にじんわりと漢方独特の苦味が引っかかるので、さらに苦い硬水で押し流した。

「それかわいい〜。誰に買ってもらったの?」

手洗い場の鏡の中で、ヴァンクリの二連アルハンブラピアスが約一五〇万円分の重さでもって、マリカの耳たぶを引っ張りながら揺れた。縁ふちにあしらわれた地金が光る。昨年のバースデーの時に、太客からプレゼントされたものだった。大ぶりなクローバー型にカットされたマザーオブパールは、はっきりと存在感を放つサイズにしてどのドレスやワンピースも邪魔せず、リカちゃん人形系のマリカのビジュアルにもよく馴染んでいた。エゴの出やすいプレゼントにどんな服にも合わせやすいパールのジュエリーを選ぶなんてこいつけっこうセンスあるんだな、と感心したわりに、贈り主である太客の顔をすぐには思い出せない。客の体型や雰囲気、口調や持ち物ならつぶさに覚えているのに、いざ思い出そうとすると、歯並びが悪いとか、鼻がでかいとか、表情ではなくパーツごとの特徴——それも美しくないとされる条件ばかりが次々浮かんで、やがて福笑いみたいに、見たことのない顔のイメージを結ぶ。

「買ってもらったもののリストはメモってるんで」

桜貝みたいに短く切り揃えた爪でぽたぽたとまぬけな音を立ててスマホのメモアプリを開いた。ヴァンクリのピアスをくれたのは、タカナシだった。ちょうどこのあと卓につく。

「かわいそお、同伴くらいしてやんなよ」

「でも、そうすると店でのパフォーマンスが下がるじゃないすか。胃に飯入れちゃうと酒入れるスペースなくなる」

マリカはポーチからビタミン剤の小袋を取り出して、その飲み口を破って、一気に啜すすった。しょっぱくて、そのあとにやってくる苦味が喉にいつまでも残る。こうして仕事の合間にいくつもサプリメントや漢方を飲んでいると、それだけでもうお腹がいっぱいになる。十代や二十代前半の頃は、どんなに死にたい夜でもつるっと牛丼を平らげていたけれど、二六になってからは出勤前にヨーグルトと旬のフルーツ、塩分が欲しいときはゆで卵と味噌汁、夏はさらに食欲が落ちるので、プロテインを一杯分だけ腹に収める程度で出勤するようになった。胃の中にあまり物が入っていないほうが、よりすばやくアルコール代謝をこなせる感覚がする。ファタールでは店が課す同伴ノルマを達成しないと、報酬から毎月罰金一万円を天引きされるシステムだったけれど、マリカはそれを「肝臓税」と呼び、店のルールに甘んじて納めていた。罰金を取られてでも、天から賜ったすぐれた臓器のかたまりとして存在していたかった。

Kyrieとお互いに夜風に乱された前髪や後れ毛をキープ剤で固め直し合ってから、ひと呼吸おいて、トイレの重いドアを開ける。ドアの隙間からBGMがふたりの足元になだれてくる。バックヤードから客席フロアへつづく一本道の廊下では、まだ指名の声がかかっていない嬢たちが廊下に並んでそれぞれが客を呼び込もうと、集中してスマホで連絡をとっていた。ふたりに気づくと、彼女たちは、おつかれさまです、と小さく頭を下げてゆく。駆け寄ってきた黒服の指示通りにマリカとKyrieは光に包まれて影のない場内に戻り、最奥にタカナシひとりが座っている卓に通された。この店では客ひとりにつきキャストはひとりという相場のはずだった。なぜ、Kyrieまで。マリカは背後の黒服を睨む。筋肉の上に脂肪をたっぷりと乗せ、やたらと顔がてかてかと光っている、服を着た豚の角煮みたいな黒服が、思い出したように口を開いた。

「あの、お連れ様、いるんですけど、今、電話しに、外行ってて」

角煮の黒服はタカナシの前でマリカにうんと顔を近づけてくるので、聞こえてんだようるさいな、と投げ捨てるように言って彼を遠ざけ、タカナシの隣に逃げるようにソファに座った。

「久しぶりじゃないすか? 先月一回しか来てくれなかったっすよね」

脚を組んでその上に頰杖をつき、不貞腐れるような振る舞いをしてみせる。タカナシは白いTシャツにジャケットを羽織り、やけに肌理は細かいくせに頰や首の皮がたるみきった腐った大福みたいな顔で「おれこう見えて忙しいんだよ」と、マリカの態度に満更でもなさそうにはにかむ。

「知らないっすよ」

じっさい、マリカはタカナシの仕事をほとんど知らない。タカナシという名前も、どう表記するのか今まで訊いたこともない。エネルギー系企業の重役らしいが、それ以上のことはマリカから質問しないし、タカナシも打ち明けない。シャンパンなんてレストランでもっと安く美味しく飲めるのに、わざわざキャバクラまで来て高い金を払って飲みに来る客たちの、その多くはきっと生活から隔絶された虚構に浸りに来ているのだ。だから現実を想起させる言葉は使わない。知ったところで、お互いに資することもない。何者であろうとなかろうと、ただマリカの目の前で、一本でも多く、一円でも高いシャンパンを注文してくれれば、それでいい。

向かいのソファに座ったKyrieが「マリカ、さすがに態度悪いんだけど」とマリカを諫めるようにしながら、電話で連れの客が抜けた席に置かれた飲み差しのグラスの結露を、おしぼりで丹念に拭き始めた。

「いいよいいよKyrieちゃん。おれ今日はちゃんと一本入れるつもりで来てっから」

「ほんと?」マリカは顔を上げ、大きな目をしばたたかせた。組んでいた脚も解いて、上体をタカナシに向ける。「タカナシさんのそういう、律儀? っていうのかな、筋通すところ、だいすき。人として尊敬してる。あたしもそうしなきゃなって毎回思う、ほんとに、ほんとにっすよ」

マリカはタカナシの顔を覗き込んで、アルハンブラのピアスを揺らして見せながら、頰にかかった髪を指で触る。顔周りの髪の毛はあらかじめCの形にカーブを描くように巻いてスプレーで固めてきた。指で軽くその固い毛先を揉むと、霜柱が潰れるような音がした。

足を小突かれた。またタカナシが気持ちの悪いことをしていると思い相手にしないでいると、Kyrieが切長な目でじっとマリカに目配せをしてくるので、分厚いクリアソールでそっと足を突き返すと、Kyrieが小さく頷いた。酔っていないだろうな、という確認だろう。ふたりが来る前にタカナシが頼んで残していたハイボールのグラスをおもむろに摑み、マリカはそれを一気に飲み干した。

「さ、何か頼みますか」

iPadの画面をタカナシに向けてマリカがそう言うと、Kyrieも立ち上がってiPadを奪い取り「あんたさあ」とマリカに声を上げた。怒られるかと思ったら、Kyrieはパーマさせたまつげを力無く伏せていた。

「タカナシさん、今日あたしが飲む。マリカね、今日もう五本空けていて、ほとんどこの子が飲んじゃってんの。今日は本当に、無理しないでね。バースデーのときまで温存して、マリカを一撃で億女おくじょにしてあげて」

「何それ、え、Kyrieさん、やめて、まじで酔ってないすから。営業妨害なんすけど」

じっさいマリカはまだ酔っていなくて、二週間後のバースデーに焦っているだけだった。ほんとうのことをそのまま伝えているだけなのに、酔っていないと言えば言うほど、酔っているとみなされる。次の店長候補であるKyrieに気に入られるのはいろいろ都合がよかったが、まだまだ飲めるのに勝手に普通体質の人間と同じ、低い水準に均されるのは苦痛だった。

ひと月に億単位の売上を上げたキャバ嬢は、億女という称号を得る。風営法改正以前は売り上げや場内でのランキングが評価の中心だったが、以降は順位のような相対的な数字ではなく、とにかく一億売ったことがあるかないかの絶対評価がまかり通るようになった。数字を求めることは変わらなくても、それは追ったり追われたりするスピードスケートから、個々が自分で選んだ曲と振り付けで点を稼ぐフィギュアスケートに変更されたような、大きな転換だった。

マリカはキャバクラ「ファタール」の人気キャバ嬢として歌舞伎町で多少は名が知れている存在ではあった。今までの最高成績はひと月に八〇〇〇万、月平均売上は三〇〇〇万から四〇〇〇万の間——もちろん大層な金額だったけれど、歌舞伎町をはじめとしたキャバクラ激戦区では、この程度ではまずまずという評価に押し込められてしまう。多くは何かしらの記念日——もっともわかりやすい例が、誕生日と設定した月日の前一週間をバースデーイベントウィークに設定し、キャバ嬢たちはその一週間に客を呼び込み、億女を目指す。二週間後のバースデーイベントのためにマリカは連日、出勤前にエステにジムに足繁く通い、さらに花屋や写真スタジオに店内用装飾や客にプレゼントするための生写真の手配に奔走していた。

「営業妨害なんかしてねえよ」ソファにたっぷりもたれかかって、タカナシは微笑む。「だってKyrieちゃん、協賛やるじゃんね」

「ねえ! それー、タカナシさんさあ、マリカの前で言わないって約束だったじゃん!」

「何、何。なんの話してんすかふたりして」

「Kyrieちゃんがさあ、マリカのバースデーで一緒に協賛タワーか黒アタッシュ卸さないかって連絡してきたんだよ」

「言わないでって!」

いよいよKyrieは身を乗り出して向かいのタカナシの口を塞ごうとし、その膝で卓を揺らした。おのおののグラスやピッチャーを抑えて大惨事を免れる。それでもタカナシのピッチャーから水が少し漏れてしまったので、マリカはブルーグラシエのピコタンから、アンパンマン総柄のミニタオルを取り出すと、タカナシがうれしそうに指差して、BGMに紛れない、張りのある声で、まだそんなの持ってんのかよ、と笑い出した。

「ちなみにこれは先月の新作タオルで、実はここにドキンちゃんもいまーす」

マリカは水を吸い取った小さなタオルを広げて、いくつも並べられたアンパンマンの顔の中に、バイキンマンとドキンちゃんの顔をひとつずつ薄い爪で指差した。

べつに、アンパンマンに好きとか嫌いとか、特別な感情を抱いたことなんてない。昼職時代の知り合いからの貰い物をそのまま使っているだけだったけれど、いつしか指名客しか知らないマリカの一部分のように扱われるようになったので、出勤するときはアンパンマンのハンドタオルを持参するようにした。そうしたら、ほんとうにアンパンマンを子供のころから今まで絶えず愛していたような気がしてきて、何気なく口ずさんでいた主題歌の歌詞が、だんだんと意味を帯びてくる。次第にほんとうに帯びた意味が質量を持って、心を動かしてくるようになる。

それだけじゃない。肝臓以外のことはすべていつも周りが決める。目は大きく見えるほうが美しいらしい。瘦せているほうがすごいらしい。髪はブラウンに染めたほうが似合うらしい。もらったジュエリーやバッグを身につけていると、客はうれしいらしい。エルメスのバッグから子供じみたものを出すとおもしろいらしい。キラキラしたお人形系の子が体育会系みたいな話し方をしたら、もっとおもしろいらしい。ただ自分の素のままの振る舞いに価値が生まれて、その価値を練り上げていたら、次第にマリカが仕上がっていた。

しらねーよバカ、とKyrieが緊急地震アラートみたいな引き笑いで盛り上げている中、マリカはタカナシの注文をすぐに入力できるようiPadでシャンパンのページを開いて待っていると、斜め上から「遅なりましたあ」と聞き馴染みのない男性の声が降ってきた。

おまえもなんかシャンパン頼めよ、とタカナシが顔を上げて、クロムハーツやブシュロンに拘束されてギチギチにはち切れそうになっている太い指で、声の主を指差した。タカナシより一回り若く見える男性は、パキッと硬い形のスリーピースを着込んでおり、ネクタイはハリの豊かなエルメス。マリカがすばやくシンプルな手書きの名刺を取り出して「はじめまして、美波みなみマリカです」と男に差し出すと、男は目を何度かしばたたき「マ、リカさん?」とつぶやいた。マリカの「リ」に重心の乗った抑揚は、このあたりではなかなか聞かないものだった。

「え、関西弁!? エモすぎ・・・・・・」

はじめにKyrieが立ち上がって、スマホをスラックスのポケットの底に落とした男にそう言った。Kyrieは隣に関西弁男を座らせ、彼女の写真入り名刺を出しながら、どちらから来てくれたんですか、と男に向かって訊く。

「今は大阪やねんけど、出身は京都なんよ。東京のお店来るのはじめてで」

関西弁男はちらちらマリカのほうを見ていたのだが、それに気づいたタカナシがアイコスを咥え、関西弁の男に見せつけるように隣のマリカに「おれソウメイ、プラチナある?」と小声で囁く。ファタールでは一本一〇万、ソウメイシリーズでは上位のシャンパンだ。マリカは各卓の下に備え付けられているiPad miniを取り出しタッチパネルで入力する。

「なんか、おすすめある? むっちゃ高いのは勘弁してな 」

長方形のレンズの眼鏡をかけ直す関西弁男に対し、Kyrieが「いいんですか? じゃあ同じとこの、ロゼがいいかも」と彼に微笑みかけたあと、切れ長の目の端からマリカに目配せする。ほなそれで、と男が言うやいなや、マリカはiPad miniでソウメイロゼの商品ボタンをタップする。ロゼは一本一五万。合計二五万。億女を目指すような派手なイベント月としては少ないけれど、通常であれば悪くない売上だった。関西弁の男に五万負けたタカナシは慌てたように「ちょっと。やっぱ、おれブラックで」と、マリカの持つiPad miniを取り上げてタップした。

「いいの?」とマリカは心配そうな表情を浮かべつつiPad miniのカート画面に入っているプラチナの注文をたしかに取り消し、ロゼとブラックで注文ボタンを押す。ブラックは一本三〇万、合計で四五万。iPad miniを卓の下の引き出しにしまい、それからおしぼりでピッチャーグラスの結露した水滴を手際よく人数分拭う。

「わたしタカナシさんとは人と人としてやってるから、今無理されてバースデー来られなくなるほうがつらいんすよ?」

「シャンパン入れろって言ったり無理すんなって言ったり、どっちだよお前」

タカナシがソファにたっぷりもたれてマリカのことを笑っていると、ちょうど豚角煮黒服がもうひとり新人黒服を連れて「お話し中よろしいでしょうか」とあらわれ、黒とロゼ色のボトルをそれぞれ一本ずつ掲げながら跪ひざまずいた。タカナシが入れた高額のほうを、豚角煮黒服が高々と掲げて音頭を取る。

「イケメンのお二人からぁ、ソウメイロゼとおおおおおっ」

「ソウメイブラックゥゥーーーェ! いただきましたあああああっ!」

共振するように「ありがとうございまあああああすっ」とバックヤードに控えていた黒服たちの声が上がり、周囲の客やキャバ嬢たちからマリカの卓に視線が集まる。羨望に嫉妬に好奇に監視にさまざまな視線が絡みつくなか、ロゼのほうが勢いよく音を鳴らして栓が開いた。一方、よりにもよって高額なブラックのほうがなかなかスムーズに栓を開けられず、あれっすいませ、いつもより硬いみたいで、と顔を次第に赤らめながら栓を捻り続ける。

「この子ほんとポンコツなんだよねー、前の仕事なんだっけ?」「自動車整備士っす」「整備士って手先器用なんじゃないの」Kyrieが客のピッチャーの結露を拭いて場を繫ぐも、元整備士の豚角煮黒服はいつまでもシャンパンを開けられないでいる。

モタモタしてんじゃねえよ脳みそついてんのかアホ、と彼の後頭部を叩き、流れるように豚角煮からボトルを奪い取ったのは、スーツの前が閉まらず開けっぱなしで腹を突き出しているグループの会長、ファタールの前社長だった。跪いたままの元整備士の黒服の背中を蹴り飛ばし、一緒にいたロゼの栓を開けた黒服のこともついでに軽く蹴って地面に這わせながら、そのボトルをこちらに改めて差し出し、会長は嗄しゃがれながらも芯のある声で「あらためまして、不肖このわたくしが開けさせてもらいます」と恭しく首を垂れた。タカナシは「いいよ、そんな大袈裟にさあ」と言いながらも、唇をうにゃうにゃさせて笑う。

「大袈裟じゃないんです。足りない足りない、ぜんぜん、足りない。あの、もうねえ、ぼくらって、タカナシさん無しでは今ここに存在しませんから、ねえ、マリカ」

うっす、とマリカが野球部部員みたいに頭を下げて敬礼をすると、会長がもう一度膝をついて、

「改めまして、ソウメイロゼとソウメイブラック、一撃四五万いただきましたあああああっ」

と声を響かせた。フロアじゅうの黒服が「いただきましたあああああっ」と叫ぶ。会長の足元で転がっている新人黒服ふたりも、当然力のかぎり、叫ぶ。

こうして会長が傅かしずく瞬間は、どれだけキャバ嬢が色目をつかうよりも鮮烈に客を満足させる。男性客にとっての愉悦はきっと、気に入った女を侍はべらせることでも抱くことでもなくて、そんな女たちを統すべる権力を持った男の頭を下げさせることなのだ。こんなふうに、潑剌とした若い男が無用の存在として足蹴にされていると尚良い。てんでばらばらに光る夜の欠片の中で、この一瞬、マリカは自分の不在に世界の素顔をみたような感覚を覚える。

ポン、と会長がボトルの栓を抜く音が響く。ファタールではここまでが黒服の仕事で、お酒を注ぐのはキャバ嬢の仕事だった。冷気をゆったりと吐き出す黒いボトルから、四本のグラスにシャンパンを注いで、全員に配る。

タカナシがグラスを掲げ、三人がそれにつづいて乾杯する。そっとグラスをぶつけ合う瞬間、いっそう強く周囲の卓から注目が集まる。シャンパングラスは夜の世界に鳴り響く祝福の鐘だ。美しい気泡がグラスの中で下から上へ登っては弾け、登っては弾ける。味や値段はもちろん、その光景が夜職人生そのもののように見えてきてマリカは好きだった。光景——光景と呼ぶにふさわしい、かがやき。いつまでも見つめていたいような気分だけど、さっさと億女になるためにきらめく泡ごとどんどん飲み干してゆく。

それぞれがグラスに口をつけて潮が引くように無言になり、また波が寄せるように一斉にそれぞれが話し出す。関西弁男はマリカのほうに身を乗り出し「ごめん、きみさ、まえ会ったことあらへん?」とマリカの顔を覗き込んできた。

「ここナンパ禁止なんすけどー」

太客であるタカナシの機嫌を損ねないよう、布巾でピッチャーの水滴を拭きながらあしらうと、男は慌てたようすで「ちゃう、ちゃう。そういうのやなくて。あのさ、きみ先月まで北新地で働いてへんかった?」と真剣そのものの眼差しで上体を乗り出して言った。

「北新地?」

Kyrieはシャンパングラスから口を離し、目をすがめた。「マリカ、そんなとこで働いてたっけ?」

「ないっすないっす。わたし東京から出たことないんで」

マリカは両手を大きく振る。じっさいマリカは登戸生まれで、大学も都内の私立、今は四谷三丁目のマンションに住み、関東以外で生活なんてしたことがない。北新地が大阪にあるのは知っているが、大阪のどのエリアで、どういうランクの場所なのかも、マリカにはよくわからない。

いやおれもそこ付き合いで一回しか行ったことないねんけど、と客は便箋の形をしたエルメスの名刺ケースから中身をすべて抜いて、テーブルに取り出す。名だたる企業のロゴが印刷された名刺の中には、マリカもニュースで目に耳にしたことのある政治家の名前が中央に印刷された、やけにシンプルな名刺まで紛れていた。

「わ。ちょっと、どんだけ権力者と繫がってるんですか〜!」

さっきまでマリカを睨んでいたKyrieがその名刺の山に目を瞠る。まれに自身や有名人の名刺を偽装して見せびらかす客もいて、きっとこうしてキャバ嬢に驚かれるのを待っているのだろう。とくに仕事の話を嫌うタカナシの前なので、Kyrieはさっさとはしゃいでやってその場を切り上げさせようとしたものの、関西弁男はKyrieのリアクションにさしてよろこばず、トランプの手品のように次々と山札をめくりつづける。それからしばらくしてぴたりと手を止め、一枚の名刺を差し出した。

「あ、これこれ。北新地の、きみの名刺やんな」

名刺にはいやにかしこまった明朝体で「ミナミマリカ」と書かれ、裏には水色のドレスを着たマリカそのものの女のバストアップ写真が印刷されていた。

(つづく)

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