
連載
第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

店の住所が印刷された白い空名刺に、澪標カリナ、と手書きの名前とラインのIDを書き込んでゆく。
体入したその夜のうちに入店が決まった。翌日の昼過ぎ、ウォーキングがてら中之島周辺を散策していると、淀屋橋の欄干にあった市章が目に入った。写真に撮ってChatGPTに訊いてみると、数秒ほど思考の沈黙があって、みおつくし、という名称を返答した。澪標/身を尽くし/身を突く串——ずらずらっと出力されるその由縁については目が滑ったけれど、清洌な響きがカリナを摑んで離さなかった。夜になっても忘れられなくて、出勤前にサロンで髪の毛を高温のコテで巻いてもらっている間も、うるうるとやわらかい余韻が残っていた。早足で家に帰り、手早く着替えて八時前には出勤し、藤田に多く用意してもらった空名刺に、今まで書いたことのなかった漢字を、自分の名前として書きはじめた。本名よりもうんと画数の多い文字。自分でつけた苗字を名乗って、今日で二週間になる。
ファタールをやめてすぐに受講したペン習字講座のおかげで、その手書き名刺は一見客にもなかなか好評だった。この国の筆跡文化はルッキズムのようなもので、ただの手書き文字にその人の背景や思想を好き勝手に見出され、書かれた内容ではなく文字の形で書き手の人格まで判断してしまう。字が綺麗なら生まれ育ちがいい、なんてのはかわいいもので、均一なバランスで書けないものは気分のむらも激しいとか、止めがぐっと踏ん張っていないと自制が効かない、はらいが甘いと神経質だとか。そんなばかばかしい偏見でも放っておくとひとりでに膨れ上がって、書き手の人格をあっという間に覆い隠してしまう。ひるがえって言えば、どんなバカものろまもデブも不細工も字さえ美しく書ければ、それだけで何かするどい知性を隠し持っているのではないかと一目置いてもらえる。ペン習字は美容整形よりも費用もダウンタイムもかからない、手っ取り早い変身方法だった。すべての文字はやや右上がりに、線と線の隙間を等間隔にして、文字の中心を意識してなるべく対称的に、漢字を大きく、ひらがなカタカナをそれに比べて控えめに書きさえすれば、誰でも美しくなれる。現に強引にその場でLINE交換を迫らなくても、すでに手書き名刺を渡したフリー客たちや枝——ヘルプで入った客の連れが、カリナの本指名として来店するようになった。
テーブルに食らいつくようにひたすら名前を書きつづけるカリナに、黒服が「ご指名のお客様到着されました」と手短に言い残してゆく。名刺の束を手早くバッグにしまい、踵のヒールを鳴らしながら小走りでエントランスに向かうと、細身のスーツを着た男性客がひとり、タクシーの支払いを済ませて降りてきた。
「久しぶりやね」
「上林さん! 着いたらLINEしてって言ったじゃん」
バースデーの前に一度、ファタールに来た関西弁の男だった。ファタール退店後も彼とはLINEでは何度かやりとりをしていたものの、声に出して彼の名前を呼んだのはこれがはじめてだった。
「こっちではカリナちゃんなん」
「そう。あ、これ新しい名刺」と書いたばかりの手書きの名刺を出す。いや教科書の字やん、と上林は機嫌よさそうにそれを眺め、例の分厚い名刺入れにしまった。
上林はお祝いだと言っていきなりベルエポックを注文した。ファタールでは一〇万円以上のシャンパンが注文されたときは黒服が金額まで叫ぶならわしがあったが、ここでは金額に触れない代わりに、黒服も客の名前を覚えて顔見知りになってしまう。付け回しの藤田は上林の顔を見るやいなや「お兄さん、以前来てくれたこと、ありますよね!? むっちゃかっこええから覚えてましたあ。来てくれてうれしい、次はカリナやなくておれのこと指名してくださいー」と人懐っこそうに笑いながら抜栓した。なんやねんおまえキショいわアホォ、と歌舞伎町では張り詰めさせていた表情がわっと弾けて、別人のように上林が笑う。自分が存在しない、いとしい光景がここにもある。
氷を入れたグラスに注いだシャンパンを飲んでいると、上林は視線だけで周囲を見回し、声をひそめて言った。
「おったやろ、ミナミマリカ」
カリナは静かに頷いて、マリカのいる卓のほうに目配せをした。向かいのマリカは、バッグからさきほどのアンパンマンのミニタオルを出して膝の上に乗せ、客はそれを指しておもしろがっている。ここでも、歌舞伎町と同じ光景が繰り広げられる。
六本木、すすきの、中洲、錦など、上林があれから出張の際に遊びに行った関西以外の地域の億女や売れっ子と似た名前のキャバ嬢がやはり見受けられているらしく、他にも被害を訴えるキャバ嬢たちと、彼女たちと瓜二つのユナーシュ在籍キャバ嬢の写真を見せてくれた。みんなとりどりな髪型や服を着てミニバッグを提げていて、実物を前にしたらきっと個性まできちんと見えるのだろうけど、手のひらの画面越しでは、一様に美しく、目が大きく、四肢は小枝のように華奢であった。
ユナーシュで働こうと思って北新地に来たわけではない。歌舞伎町じゃない遠いどこかに行こうとして、まず北新地に行き、知っているのがこの店だけだった。上林からここの悪評は聞いていたものの、しかし、売上は北新地でもトップクラスの店だった。それなりに金を落とす客も集まってくるから、ただ飛び込んでみた。賭けに出るというほどカリナは何かを持っていたわけじゃない。せいぜいキャッシュが数千万と、ハイブランド品をいくつかと、どれだけ瘦せても飲みつづけられる、つよい肉体がひとつだけ。
「で、どうすんの」
「どうするって」
「これから、ここで、カリナちゃんは。顔も話し方も何もかも変えはって。あの女はうちのパクリです言うて、前のキャラ貫けばよかったやん」
歌舞伎町の店では一本も吸わなかった上林が、ウィンストン・キャスターをスーツの内ポケットから取り出したので、カリナはすばやくヴァレンティノのバッグからプッシュ式百円ライターを出して、小指の爪ほどの青い炎を差し出した。
キャスターを深く吸って吐いたところまで見届けると、ライターをバッグにしまいながら「でも、それだけじゃ億女になれなかった」とカリナは短く言い放った。それから伸ばした爪の先で顔周りの髪を搔き上げて上林の目を見つめる。彼の眼鏡はかなり分厚く、レンズ越しの世界が強く歪んでいた。
「北新地って、関西ではランク高い場所なんでしょ。タメ口だけど不思議と品のある東京の女って路線で行こうと」
「そんな路線あんねや」
「知らないけどさ。それで、ここで億女になる」
「へえ。で?」
「・・・・・・上林さん、こっち住みなんだから、いっぱい遊びに来てね?」
「ちゃう。億女んなって、どないすんのってこと」
「どないすんのって」
「その先のこと。そのままずっと北新地おるんか、歌舞伎町の、ファタール帰るんか。起業したいとか店持ちたいとか、なんか、ないんか」
それは、と言いかけて、カリナは何も言えず空気を飲み込んだ。上林はカリナの炎にたばこの先を押し当てて吸ってから、長い煙を吐く。
「なんか?」口元に力が入る。カリナはライターをテーブルに置いてから、小さなトングを摑んで、上林のピッチャーに角の尖った氷を、音を立てて入れた。
腰掛けじゃない夜職のその先なんてたかが知れている。クラブに行くか、経営側に回るか、何で稼いでいるかよくわからない裕福な中年・高齢男性に水揚げされればいいほう。ゲルソールみたいに実体のあるものを作って億稼ぐなんて、ごく一握りのレアケースだ。現実的じゃない。
感情のような不確かな商材を取り扱う客は、こうしてもっと不確かで途方も無いようなものを言葉という形を与えて確かめようとする。これは夜も昼も同じだった。きれいなオフィスの中の会議も飲み会も、言葉だけが泡のように無尽蔵に膨らみ続け、次第に誰も抱えきれなくなり、破裂するまで終わらせられない。
ずっとずっとずっと、街を歩いたら白い目で見られるような、ありえない露出の服を着て、立っていられないような靴を履いて、こうして高い酒を浴びるように飲んでいたいだけだった。女を売るようなことをして、愚かである自覚はある。しかし野球が得意な人間が野球選手を目指すのは、愚かなことなのだろうか。勉強の得意な人間が高学歴になり、歌が上手い人がオーディションを受け、上手い人間同士で研鑽し合うように、酒が飲めて、話がうまくて、容姿や体型が平均よりよくて、整形に抵抗がない人間が水商売を続けることに、何のちがいがあるのか今もまだ納得できないでいる。インフルエンサーのように人前に出て、水商売は夢のある仕事だと嘯いてうら若い少女を同じ世界に引き摺り込もうとは思わないけれど、でも、不潔な夜の世界に重い蓋ができるほど、昼の世界もまだまだ正常ではない。どっちにいても偶然持って生まれただけの身体に値踏みをされ、消費され、やっと若さから解放されてきたと思うと、今度は結婚しているのか、出産しているのか、すぐれた母親か、そうでなければ凡百の男を凌ぐほど稼いでいるのか。つぎつぎに別のレートで値踏みをされ、問い詰められるのだ。なんかがない女は、世界に存在することができない。だからそういう視線を、稼いだ金額で、それを端的に言い表せる「億女」という名前で、この身体から遮りたかった。
上林との卓だけが周囲の音から切り離されたように静まっていることに気づき、やっとカリナは我に帰った。
「なんだろうね、街はどこでもいいけど、自分のお店持てたらなぁって、ほんとうは憧れてる。でもまだ誰にも言わないでね、はじめて人に言った」
そう言っているKyrieの姿を思い浮かべて、それを真似るようにカリナは弱々しく視線を落とすと、ええやんええやんと、上林は機嫌よさそうにカリナが注いだチェイサーを一気に飲み干してソファの背に肘を置いた。
二人でベルエポックをつるっと一本開けてしまうと、まだ二二時前だったが上林はすぐに会計を済ませた。エレベーターの中までついて行き、外まで上林を見送ったあと、足早に店に戻ってカリナは藤田にどこかヘルプ入れる卓はないか訊いた。藤田は内線マイクにぼそぼそ囁いたあと、じゃあ、とぼんやり光る場内のほうを見やる。
「次、あの、金髪の子・・・・・・わかる? 霧江ちゃんのとこ、行ってくれるかな」
藤田が指す方向を見やると、金髪を後ろにまとめたKyrieとよく似た女が、ちょうど氷を鳴らしてグラスの底に残った最後のシャンパンの一滴を飲み干したところだった。
(つづく)

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第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

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第二夜
児玉雨子
2 Kyrieに連れられてマリカは店の外階段に出た。階段に座ったKyrieに隣に来るよう促され、マリカもミニドレスのまま階段の上に並んで座った。隣のビルのキャバクラやスナックの看板の光を見下ろして、ミニドレスの化学繊維でかゆい脇腹を搔きながらおだやかな夜風に当たる。夜風といってもビルの排気口や室外機から出てきたぬるくて埃っぽいものだけど、風は風だった。 「ほんとに、北新地で働いてなかった?」 アイ

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第三夜
児玉雨子
3 空っぽの部屋の中ではじめに組み立てたのは、ドレッサーだった。以前はLEDシートを貼った手作りの女優ミラーをデスクに立てかけてそのまま使っていたので、今回の引越しを機に新調した。電動ドライバーの音がめいっぱい鳴って反響するたび、今ここに助けてもらえるような知り合いはいないんだぞ、と耳元で叫ばれているようだった。そうして組み立てた大理石模様のドレッサーのスイッチを押すと、鏡の縁に内蔵されたライトが

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第四夜
児玉雨子
4 ファタールではタブレット注文で管理していたが、ユナーシュではキャバ嬢が直接黒服を呼ぶのだと教わる。つまり、黒服とうまく連携を取らないと売上を伸ばしづらいのだろう、ここは店の女の子たちと黒服たちの距離が近い。ファタールにいたころはマネージャークラスの黒服ならまだしも新人の黒服の名前なんて覚えなかったし、誰かを呼ぶときは「おい」だったり、そのまま「黒服」とか「誰か」と呼んだりしていたから、ユナーシ

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第六夜
児玉雨子
6 便器に溜まった尿を覗く。大阪に来てはじめてのシャンパン尿だった。今夜は上林のおかげで、ユナーシュに来てからやっとシャンパンが二本——のベルエポックが一本と、その後に来た客が場内指名を入れてきて、この店では最低金額だが六万円のものが一本空いた。 派手なネイルを施した爪の先でトイレの流しボタンを押すと、合計一六万円が音を立てて下水道に流れてゆく。高級ブランドを買ったり貰ったりするよりも、この瞬間

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第七夜
児玉雨子
8 エレベーターの扉が開くと、スーツを着た若い男がこちらを見るやいなや、向こうで固まったまま突っ立っていた。エレベーター内の鏡で施術後の肌を眺めていたので、到着までにマスク装着が間に合わなかった。カリナは俯きながらも目だけぎょろつかせてこちらを見つめてくる男に舌打ちして、早歩きで堅牢なエレベーターから出る。ビルの外に出てから、バッグの中に折りたたんでいたマスクを耳にひっかけた。顔の下半分と首の点状