
連載
第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

便器に溜まった尿を覗く。大阪に来てはじめてのシャンパン尿だった。今夜は上林のおかげで、ユナーシュに来てからやっとシャンパンが二本——のベルエポックが一本と、その後に来た客が場内指名を入れてきて、この店では最低金額だが六万円のものが一本空いた。
派手なネイルを施した爪の先でトイレの流しボタンを押すと、合計一六万円が音を立てて下水道に流れてゆく。高級ブランドを買ったり貰ったりするよりも、この瞬間がもっとも気持ちがいい。どんな方法で稼いだのかは知らないけれど、男たちがいろんなところからかき集めてきた金を、この体がひたすら小便に変えたことを物語る、成果であり残滓でもある。身体は価値の変換装置だ。生み、食み、飲み、喋り、買い、売り、与え、受け取り、使用し、渡し、壊し、捨てる。これらの手段を用いて身体は他の身体と関わってゆく。カリナの身体のばあい、飲酒と接客の変換機能が優れていたのだ。持って生まれた才能は、発揮したくなる。シャンパンを尿に変えるたび、カリナの才能は街の中で光を放つ。
個室から出て手を洗っていると、隣の個室から細い喉で小さくえずく音が聞こえてきた。カリナがノックして「大丈夫? 水、飲む?」と訊くと、くぐもった声で「いい、いらない、大丈夫」と返ってきた。マリカだ。
念のため一度バックヤードから未開封の水のペットボトルを取ってきてから手洗い場で待っていると、土みたいな顔色のマリカが個室から出てきた。水を差し出すと「ほんとに大丈夫」と手短に言い、手洗い場の水で口を濯いでからロッカーに戻って行った。
ひとり取り残されたカリナは、尖った鼻先に下りてきた髪をかき上げて、ペットボトルの蓋を開けいつも通り一気に呷った。「天然バナジウム水」や「まろかやか口あたり」などずらずら御託が書いてあるけれど、美味くも不味くもない、ただの水だった。飲み干したペットボトルのラベルを剝がして店のゴミ箱に捨て、私服に着替えて残りの空名刺に名前を書いていると、顔に血色を取り戻したマリカが、持参した硬水のペットボトルに口をつけてロッカールームから出てきた。
「さっきは、すんません。このあとって時間あったりしますか? お詫びといっちゃなんなんすけど、近くでごはん行きませんか。おすすめの店があるんす」
マリカはそう言ってテーブルの上に化粧落としシートを取り出して、顔をゆっくりと拭き始めた。カリナも、マリカから手渡された化粧落としシートで簡単に化粧を落とし、ふたりで化粧水スプレーをかけ合って支度を終えるころには、マリカが呼んでいたタクシーが店の前に到着していた。
タクシーはお初天神商店街通りの方面へ向かい、露天神社の南門の前を通り、大通り沿いに降ろされた。店はその大通りから一本筋に入ったビルの地下にあり、一見客にはわかりづらい場所にあった。店内は黒を基調にした落ち着いた設えで、客も言葉数少なめに過ごしており、中央のキッチンで店長が焼き鳥や色の濃い野菜串を手際よく焼いている音だけが響いている。ユナーシュといいこの店といい、このあたりの店は地上の騒がしい熱気との差が大きい。
「もう同伴とかしてるんすか?」
予約しておいたらしい席にマリカは慣れたように座り、檜の匂いがするお手拭きの匂いを嗅ぎながら訊いてきた。
「いや、まだぜんぜん」カリナはお冷に口をつけてから、おしぼりをくるくる広げては巻き直すのを三回ほど繰り返した。「まだこのあたりのお店リサーチもできていなくて」
マリカはピルケースをガラガラ鳴らして取り出した泥団子色の便秘解消サプリを三、四錠ほど飲んでから、話し始めた。
「ここいいっすよ。深夜営業してるし、小綺麗なんだけど雰囲気のわりに安くて、ほんと使いやすいんすよ。わたしは同伴もアフターもほとんどしない主義なんで、プライベートでしか行かないんすけど」
「ノルマとか言われないの?」
「見たじゃないすか。あんなかんじでわたしそこまでお酒強くないんで、出勤前に飲んだり食べたりしたら仕事できなくなっちゃうんすよ。給料からはきっかり罰金差っ引かれてるんで」
食べられないものあります? てか飯、食べれます? と訊きながらもこちらの答えを待つことなく、マリカはメニューを開いて店員につぎつぎ注文してゆく。「吐いたら妙にお腹すいちゃって。頼みたいものがあったら追加してくださいすー」と、と食事のメニュー冊子をこちらに渡してきた。いいなと思ったものもあったけれど、すべてすでにマリカが頼んでいたので、カリナは店員にメニューを返した。
「わたしも、出勤前のごはんつらくて」カリナはそう言ってお通しの鶏のだし汁を啜った。
「同伴なしだと、北新地で売れてくのつらいかな」
「まあ一般論として、同伴や色恋激しい子のほうが、そりゃお金引っ張りやすいもんすけど」
「でもマリカさんって、億女でしょ」
「去年のバースデーで、一回だけっすよ。あのときは相当太客に無理させたし、あの前後はさすがにアフター行きましたよ。太客もわたしが酒ザコなの知ってるから、来なくていいよって感じだったんすけど。結局は人と人、人間関係なんだなぁって」
「そんなに、人なわけ?」
カリナは自分の声のするどさにはっとして、髪を搔き上げながら「お金じゃないのかな、やっぱり」と穏やかに言い加えた。 かつての歌舞伎町のマリカだって、同じことを言っていた。人と人。人としての関係。でもそれでは億女になれなかった。なぜ歌舞伎町のマリカがだめで北新地のマリカは達成できたのか、それについて考えてしまうと、もうとても耐えられないような、今さら駄々をこねて喚きたい気持ちが、胸の底でぐつぐつと沸いてくる。
鶏のだし汁の蕎麦猪口に口をつけ、テキーラのように一気に飲み干し、ため息混じりにマリカが口を開いた。
「だいたい人間関係って、ほとんどお金じゃないんすか? 仕事——あの、昼職もふくめて、仕事で知り合った人って、お金稼いでる過程で知り合った人ってことっすよね。家族だって親にお金をかけられて育つわけだし。うまく言えないんすけど、お金がないと、こうして友達とご飯にだって行けないじゃん、っていう意味っす。金も人間関係のうちで、いちいち深刻に切り分けることじゃなくないすか」
でかいインゴットのようなだし巻き卵を出されると、マリカはすぐに菜箸で二等分に分ける。マリカは大口を開けて、そのまま自分のぶんのだし巻きを、ぎとぎとした光を放つだし汁ごと、ほとんどひと口で平らげた。口の周りをだし汁で汚して、やや背中を丸めて、犬食いに近い姿勢になっている。
かつてのマリカ——自分は同伴もアフターも行かずほとんど人前で食事をしなかった。小腹が空いても、店ではこんにゃくゼリーやコンビニのゆで卵しか食べなかったし、祝い事のケーキやフルーツもほとんど後輩キャバ嬢にあげていた。それでだろうか、こうして人の目の前で何かを食べているマリカは、人間の肉体に閉じ込められたなにか別の生き物のように見えた。カリナは背筋をぐっと伸ばして、顔周りの長い髪を耳にかけて、啄むように切り分けただし巻きを口に運んだ。
「てか、もう指名客取ってましたよね。さっきちらっと見えたんすよ。順調っすねー」
おそらくマリカは上林のことを言っていて、どこまで彼の話をしようか迷ったけれど、とりあえずヘルプで回ったときに憶えてくれた客だということにして話した。どうやらマリカは上林のことをあんまり覚えていなかったようで「そんなすぐベルエポック開けてくれるって、めっちゃいいお客さんっすね」と微笑んだ。
マリカとカリナの間に店員が割るように入ってきて、鶏ハツ串が乗った角皿をテーブルに置く。親指ほどの小さな鶏の心臓がそれぞれ五個ずつほど串に貫かれている。それからまもなく白レバーと赤レバー串がそれぞれ二本ずつやってきて、これ、これ超おいしいっすよ、とマリカは店では見せない表情で色めき立った。鼻に脂汗をぎらつかせて笑顔をべったり貼り付けた男性店員曰く、それぞれのレバーは産地が異なる上、白レバーは養鶏場の群れの中でもボス的な立場の雌鶏からしか取れないもので、赤レバーは放し飼いでよく運動させて育てたものだという。店員が会釈して立ち去ったあと、わたしレバーっていうか内臓系ぜんぶ好きで、とカリナが微笑むと、ねえわたしもっす、とマリカは串から口で直接レバーを引き抜いて食べながら、空いた手で次々大阪にあるホルモン焼肉やホルモン料理の店のGoogleマップURLをLINEに送りつけた。
「やっぱり食べ物って心臓と肝臓がいちばんおいしいっすよね。赤身肉もいいんすけど、心臓と肝臓って生き物に一個ずつしかないからかなー、めっちゃパワー出ません?」
「赤身肉も、一個しかなくない?」
「でも内臓みたいに、何個って概念じゃなくないすか? 一部位二部位みたいな」
えぇ、うー、知らない、とカリナは曖昧に相槌を打ちながら白レバーの串を取り、箸で切り分けられたレバーをひとつずつ小皿に引き抜いてゆく。繊細な火入れもあって、白レバーは細い箸の先で突くだけで崩れそうなほどやわらかく、落とさないように左手を添えながらそっとひと口食べると、ほとんど咀嚼しなくても口の中の体温だけで甘やかな脂肪分が溶け出す。赤レバーのほうはしっかり歯ごたえがあるものの、血の臭みがまるでなく、栄養と旨みだけが凝縮した味がする。赤白ふたつとも食べて、やはり口の両端にピエロのように血混じりのタレをこびりつかせたカリナに、マリカが顔を覗き込んで「どっちが好きっすか?」と訊いてくるので、カリナはすこし悩んだあと、赤レバーと答えた。
「わかる。わたしも赤レバー派っすね。白もおいしいんすけど。うまくいえないけど、ちゃんと苦労を知ってる人の味っていうか。人っていうか鶏なんすけどー」
「なんか白は、金持ちのぶくぶく太った息子みたいな味」
「食べたことあるみたいなこと言わないでくださいよお」
もちろん食べたことはないけれど、歌舞伎町にいたとき、Kyrieに連れていかれた新宿の高級寿司屋で、まだ小学校高学年くらいの、半ズボンを履いた男の子を連れた家族連れがやってきて、ねえいいじゃん八五点取ったんだからウニぃぃぃ、と駄々を捏ねているのを見たことがあった。ちぎりパンみたいに膨れた太ももをバタつかせて、背の高い椅子の足にスニーカーを擦り付けて、そのたびにKyrieと「ウニは一〇〇点取ってから」「じっさいウニって何点からすか?」「九〇、いや九五。九〇は大トロ」「八五点なら甘エビ」「いわしだろ」「しびぃガキ」「金持ちの太り方しやがって」などと小声でぶつくさ言い合って、頰の奥がぐーっと痛くなるまで笑ったのだった。
あれだけ無視し続けたのに、Kyrieのことを思い出すと顔が熱くなって、今ここにいるわたしがばらばらに解けてしまいそうで、カリナはそっと箸を置いた。「あの、今日一緒の卓についていた霧江さんって、どういう人なの」
「なんでですか?」
自分のぶんのレバーに七味を振りかけながら、マリカは即座にそう返した。訊き返されるとは想定しておらず、カリナは慌てて烏龍茶のグラスに口をつける。「・・・・・・あの、なんか、めっちゃ美人だなーって思ったっていうか。わたし、綺麗な人まじ大好きで。あ、なんかこれ、顔綺麗だから友達になりたいって言う人みたいかな」
顔綺麗な人が嫌いな人なんかいないっすよ、と笑いつつ、マリカはこめかみに爪の短い指を当て、すこし考えるようなそぶりを見せ、
「なんだろうな。わたしの、北新地でのお姉ちゃんみたいな人っすかね。いっぱいいっぱい、助けてもらいました。霧江さんがいなかったら、今のわたしはいないんすよ」
とそう言い、マリカは串に刺さった赤レバーを前歯で挟むように齧って引きちぎった。
「てか、いつになったら返事くれんの。返事来やんと、仕事できへんアホなんやなって思うんやけど」
脱色しっぱなしの黄ばんだ前髪を揺らして、客の男がチェイサーを飲んだ。ニードルズの服やクロムハーツのアクセサリーなど、身なりはやけに派手で、店に来ている間もまめにセットログを更新して振る舞いは若々しいのだが、その下の顔を見るとシミやくたびれた質感があり、どうよく見ても中年が空想上の若者のコスプレをしているといった様相だった。こうして大学生のように拗ねてみせても、ただ不思議な格好をした偏屈ジジイが不機嫌そうに口をへの字に曲げているだけで、カリナは笑いを堪えるためビールを注がれた小グラスに口をつける。いつもの癖で一気に飲んでしまわないよう、グラスはあまり傾けない。
「わたし、メディアには出ない派だから。そういうのはマリカちゃんに言いなって。向こうはもう億女だし、バズってんじゃん」
「せやから、おまえ、これきっかけで億女になりゃええやん。アホか。いやアホやわ。そこらへんのアイドルのほうが頭回るで」
「ってことは、アリヤマさんに枕営業させられた子がいるんだ?」
わたしでも知ってる子かな、とカリナがスマホを出して前のめりになると、アリヤマは「いや、まあ、いろいろ」と目を泳がせた。彼は自称メディア関係に勤めており、口を開けば「俺の女になれば週刊誌の裏表紙に出してやる」というが、その話の内容はいつも具体性を欠いている。わたしがアホならこいつはバカで、カスだ。仕事が欲しいタレントならまだしも、こちらからすれば不細工に一回抱かれるにしても、週刊誌の裏表紙一回掲載なんて安すぎる。せめて一晩で三〇〇〇万分のシャンパンを空けると言われて、やっと少し可能性が出てくるかこないかなのに——と考えて、この瞬間、自分のセックスを三〇〇〇万円と値付けしていたことに気づき、カリナは舌打ちする代わりにもう一度ビールのグラスに口をつける。プロテーゼを入れたせいで鼻や眉間をうまく顰めることができず、いつまでも不満が胃の中に溜まって、酒を吸って膨れてゆくばかりだった。彼がほんとうにメディアの人間であるかの真偽はともあれ、こういう席で仕事の話をする客は決まっていい酒を注文しないので、最も不毛な相手だ。
アリヤマに悟られずに腕時計に視線を落としたり、髪をかきあげるついでに腹いせに黒服の藤田に睨みつけたりしながら、場内指名の五〇分間を耐えた。延長されたら次の指名客がいるというていで断ろうとしたが、アリヤマは時間になるときっかり帰っていった。いつも一セットをハイボール二、三杯で粘ってくる。
ペットボトルの水を抱えて、カリナはバックヤードに戻ってトイレに駆け込み、手洗い場でヴァレンティノのポシェットに常備してある五苓散を飲んだ。いくらカリナでも大量の安酒は翌日に響きやすく、カリナはマリカだったときよりも頻繁にウコンドリンクや漢方を飲むようになった。
店に入って二ヶ月ほど経ち、ある程度固定の指名が入るようになったものの、決して質の良い客ばかりとは言えず、なかなかシャンパンが入らない夜がつづいた。
マリカはというと、このごろ出たYouTube番組の影響とその硬派な商売方法とで女性人気が出てきたようで、インフルエンサー的な仕事も増えた。そのせいで彼女の出勤回数が減ってしまい、さらにマリカが出勤すると場内のほとんどが彼女の指名客になってしまうので、他のキャバ嬢は本指名がない場合、マリカのヘルプとして回らされやすくなる。おもしろく思わない女の子の中には、マリカが来たと聞いたら当日欠勤する子もめずらしくなかった。カリナはマリカのヘルプについて、彼女の太客に顔を売ったり、指名客が来る前も惜しまずフリーを回ってきれいな手書きの名刺を渡したりして、なんとか一円でも多く売上を積んでゆくことにした。アルコールに弱いマリカの肝臓代わりに、カリナが残りの酒を飲むことも少なくない。
鏡を覗き込む。だいぶ今の顔も見慣れた。ここのマリカの姿も見なくなり、いよいよ毎日向き合っていたかつての容貌が記憶に揉まれて変形しはじめている。自分の顔ほどありのままに認識できないものはない。今この瞬間を絶え間なく代謝してゆくうちに、自分なんてたやすく日々の生活と願望によって再形成される。忘れてなんかいないけれど、すぐには思い出せない。頰を触ると、疲れが出て肌がざらついていた。
迷惑客の相手なんて何度もしてきた。値段にかかわらず、そういう関係を望む客の対応ははじめてじゃない。夜の世界に来る前、大学生の時ですら教授からそういう関係を迫られることもあった。落とし穴に嵌まらないように神経を研いで躱しつづけて、やっとふつうの生活ラインに立てた。でもそのころにはもうすっかり疲弊しきっていて、それ以上の努力や研鑽のために振り絞る力が残っていなかった。マリカであったときはKyrieがたびたび助け舟を出してくれたけれど、カリナにはそんな存在などいない。なぜなら、カリナはそういうキャバ嬢なのだから。誰に対しても物怖じせず、タメ口で、曲線を強調した身体で、さらにそれを印象付けるドレスを着、長い黒髪を揺らす酒豪ということにしたのだ——わたしが、カリナをそういう存在であると決めたのだ。
荒れた肌にコンシーラーを塗り込んでいると、入り口のほうから「カリナ? いま時間ある?」という声がした。鏡越しに、純一〇〇〇%と目が合う。
そのまま彼女のあとについて入ったユナーシュの最奥にある社長室は、店の内装と打って変わってやけに少女趣味だった。白を基調としたテーブルやキャビネットはすべてがいちいち猫足で、場内に吊るされたものよりカットの大きなシャンデリアがまぶしい。せっかく調度品をロココ調に揃えているのに、デスクの後ろに飾られている巨大シャンパンボトルだけがその空間の中で黒々と浮いていて、ミサイルが撃ち込まれ不発のまま安置されているようだった。カリナの視線に気づいたのか、純一〇〇〇%はその巨大ボトルをそっと撫でながら、これは自分が社長に就任する際のイベントで、前社長から特別に卸してもらった特注ボトルなのだと高らかに語った。
「で、話なんやけど。カリナ、そろそろ同伴せえへんの」
聞くと、今日の指名客からカリナから同伴を断られたと純一〇〇〇%へクレームが入ったという。アリヤマさんですか、と訊いたあとに、カリナはもう一度「アリヤマ?」とタメ口にして声を張り直した。
「わかっとんならさっさとしいや」
「あいつとどうにかなれってこと?」
「どうにか、って?」
「色恋とか、枕とか」
「そんなん、ひと言も言うてへんやん。うち同伴ノルマ月三で、めっちゃゆるいほうやで? 入店して二ヶ月でこれだけ固定指名あんなら、余裕やろ。それにあんたバースデー十二月に決めへんかった? そろそろ動きださんと」
カリナは髪の毛を耳にかけ直し、バッグの中で別の指名客のライン通知に震えるスマホを取り出して踵を返す。「すみません。他の客とはがんばるんで、今回は罰金抜いといて。マリカさんみたいに」
「あんたはマリカちゃうやん」
擦り切れた声が、いつもより一文字ずつ輪郭をもって響いた。カリナはその声に首根っこを摑まれて、しかし、純一〇〇〇%のほうへ意地でも振り返らないでいた。手のひらの振動音が、カリナの代わりに不規則に震えてくれた。
「マリカに入れ知恵されたん?」
「いや、前の店でもそうしてたんで」
「でもここって、北新地やん」
「風営法違反で店が潰れてほしくないし」
「生意気言うやん」
伏せられていたカリナの長いまつ毛が、ぱっと上を向いた。「あのな、あれはマリカやから通用すんねん。マリカは同伴するとパフォーマンス落ちるからっていう、歴とした理由と、それでもちゃんと稼いでくるっていう信頼——名前があんねん」
大きなヘーゼル色の瞳がこぼれ落ちそうなほど剝き出しにして、純一〇〇〇%は白い社長椅子から立ち上がった。背もたれにかかっていた、水色の長毛の毛布が滑り落ちる。激しい音を聞きつけて、扉の向こうから黒服の誰かがすばやくノックしてきたが「いちいち来んなや」と彼女が扉のほうに叫んで、向こう側の人の気配が霧散した。
「あんたが東京でどうだったかなんて知らん。関係ない。ごめんけどうちは実力主義なんで。色恋でも枕でも使えるもんなんでも使って、たっかいたっかいシャンパンをいちばん多くションベンにしたやつが正義なんよ。さっきのクソ生意気は聞かへんかったことにしたるから、ジジイから金引っ張れへんならせめて代わりに酒飲んで飲んで、飲み倒しい」
カリナの腕をつよく摑み、廊下に放り出して叩きつけるように扉を閉めた。乱暴に鍵がかけられる音がする。押し出されたままヒールのバランスを崩し、カリナが廊下に手をついて転んでしまう。店内のBGMが背中めがけて一気に降り注いでくる。どこからかこちらのようすを伺っている黒服たちの、おい、とか、あれ、とかいった声も乗っかる。床についた手のひらに、足音の振動も響いてきた。
ぬかるんだ喧騒の中から、どうしたんすか、と見上げるとクリアサンダルにシトリン色のミニドレス、ピコタンを提げてウコンドリンクを片手に、トイレの方面から歩いてきたマリカが立っていた。目が合うとマリカはカリナの近くに駆け寄ってしゃがみ込み、アンパンマンのハンカチを差し出してきた。
「顔色、めっちゃ悪い。今日はもう、休んだほうがいいっすよ」
何ボーっとしてんすか早く水持ってきてくださいよ、と息を殺していた黒服たちに、マリカは語気強く指示を出す。カリナが顔を上げると、マリカの毛先から、胃酸の臭いが漂った。吐いてきたんですね、とつぶやくと、マリカは慌ててバッグからアトマイザーを出して、手首や首に振り撒く。リネンっぽい軽いムスクで、酸っぱい臭いをかき消してゆく。これも、マリカだ。マリカが愛用していた香水。
あんたは、なんなの。なんで、そうなの。あんたって、何。いったいずっと、誰なの。ひと息でそう絞り出したカリナは、マリカのアンパンマンのハンカチを握った。
「どうしたの。疲れたんすか?」マリカは困ったように笑う。カリナは微笑み返さないまま、ハンカチを握って離さなかった。レジ奥から小走りでやってきた黒服がカリナの肩にブランケットをかけて、ペットボトルの水を差し出してきたが、カリナは「いらねえよ」と黒服を睨んだ。
「わたしはもともと、硬水しか飲まない」
「・・・・・・ほんとっすか、それって」
わたしと同じっすね。マリカは微笑みを浮かべてハンカチを手放し、黒服から代わりにペットボトルを受け取って立ち上がった。そうしてマリカの匂いを撒き散らしながら、光の中へ戻ってゆく。カリナはその姿をただただ見ていた。
場内からシャンパンが開く音がするたび、ピコピコハンマーで頭をはたかれた気分になる。外からは誰にも見えないところで、ポンとかピンとか、まぬけな音を立てて自分の何かが壊れてゆく。せめて、もっと透き徹った音で、きらめく破片を飛ばしながら砕けられたらいいのに、光はわたしから負け方まで奪ってゆく。
(つづく)

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第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

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第二夜
児玉雨子
2 Kyrieに連れられてマリカは店の外階段に出た。階段に座ったKyrieに隣に来るよう促され、マリカもミニドレスのまま階段の上に並んで座った。隣のビルのキャバクラやスナックの看板の光を見下ろして、ミニドレスの化学繊維でかゆい脇腹を搔きながらおだやかな夜風に当たる。夜風といってもビルの排気口や室外機から出てきたぬるくて埃っぽいものだけど、風は風だった。 「ほんとに、北新地で働いてなかった?」 アイ

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第三夜
児玉雨子
3 空っぽの部屋の中ではじめに組み立てたのは、ドレッサーだった。以前はLEDシートを貼った手作りの女優ミラーをデスクに立てかけてそのまま使っていたので、今回の引越しを機に新調した。電動ドライバーの音がめいっぱい鳴って反響するたび、今ここに助けてもらえるような知り合いはいないんだぞ、と耳元で叫ばれているようだった。そうして組み立てた大理石模様のドレッサーのスイッチを押すと、鏡の縁に内蔵されたライトが

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第四夜
児玉雨子
4 ファタールではタブレット注文で管理していたが、ユナーシュではキャバ嬢が直接黒服を呼ぶのだと教わる。つまり、黒服とうまく連携を取らないと売上を伸ばしづらいのだろう、ここは店の女の子たちと黒服たちの距離が近い。ファタールにいたころはマネージャークラスの黒服ならまだしも新人の黒服の名前なんて覚えなかったし、誰かを呼ぶときは「おい」だったり、そのまま「黒服」とか「誰か」と呼んだりしていたから、ユナーシ

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第五夜
児玉雨子
5 店の住所が印刷された白い空名刺に、澪標カリナ、と手書きの名前とラインのIDを書き込んでゆく。 体入したその夜のうちに入店が決まった。翌日の昼過ぎ、ウォーキングがてら中之島周辺を散策していると、淀屋橋の欄干にあった市章が目に入った。写真に撮ってChatGPTに訊いてみると、数秒ほど思考の沈黙があって、みおつくし、という名称を返答した。澪標/身を尽くし/身を突く串——ずらずらっと出力されるその由

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第七夜
児玉雨子
8 エレベーターの扉が開くと、スーツを着た若い男がこちらを見るやいなや、向こうで固まったまま突っ立っていた。エレベーター内の鏡で施術後の肌を眺めていたので、到着までにマスク装着が間に合わなかった。カリナは俯きながらも目だけぎょろつかせてこちらを見つめてくる男に舌打ちして、早歩きで堅牢なエレベーターから出る。ビルの外に出てから、バッグの中に折りたたんでいたマスクを耳にひっかけた。顔の下半分と首の点状