
連載
第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

Kyrieに連れられてマリカは店の外階段に出た。階段に座ったKyrieに隣に来るよう促され、マリカもミニドレスのまま階段の上に並んで座った。隣のビルのキャバクラやスナックの看板の光を見下ろして、ミニドレスの化学繊維でかゆい脇腹を搔きながらおだやかな夜風に当たる。夜風といってもビルの排気口や室外機から出てきたぬるくて埃っぽいものだけど、風は風だった。
「ほんとに、北新地で働いてなかった?」
アイコスを咥えたKyrieはマリカのようすを伺うように、一度伏せた視線をマリカに向け、それから目が合うとすぐに視線を落とした。
「まじで信じてるんすか。あの関西おっさん、AIかなんかにわたしの顔食わせたんでしょ」
マリカは「ミナミマリカ」を騙る写真入り名刺を取り出した。上林と名乗った関西弁の男はLINE連絡先と引き換えにその同姓同名、同じ顔のキャバ嬢の名刺を渡してきた。ちょっと前までのAI美女画像はそれがAIの個性とも言えるほど独特の質感があったが、もういよいよ現実の人間と見分けがつかないところまで来ている。現実の人間が絵めいたビジュアルに近づこうと整形や瘦身に励む一方で、向こうのほうからこちらに迫ってこられると、こうも不気味で、忌避感がこみあがってくる。
「でもその店、実在してる。億女も何人か在籍していて、結構有名店らしいよ」
Kyrieは右手にアイコスを持ったまま、左手の中のスマホをすばやく撫でて「Une arche」という店のInstagramアカウント画面を見せてきた。先端を尖らせた彼女の長い爪はビジューパーツが塗り固められていて、Kyrieは指の腹で画面をフリックするたびにキラキラと手元に小さな火花を弾けさせる。それから「ユナーシュ、方舟、って意味なんだって」と店の説明文を読み上げた。
だからなんだよ。マリカはそう言いかけて、開いた口を閉じて唾を飲み込む。有名店に在籍していれば、ここまで他人の容姿に似せて、名前までほとんど同じにしていいと思うのか。マリカはいまいましい名刺を自分の名刺入れにしまい、ピコタンから愛飲している硬水ペットボトルを取り出して飲んだ。明日は午前中から美容院とまつげパーマ、そのあと昼からは店内用ポスターの受け取りに行き、ポスターを店に一旦置いたら酒業者に卸してもらった特注アタッシュケースの在庫確認の電話。バースデー限定写真付名刺セットも搬入し、ヘアメイクして二〇時から出勤予定。Kyrieの誤解をといたら、早く家に帰って寝たかった。
ペットボトルのキャップを閉めて、マリカは休めていた足をクリアサンダルに通し直す。そのようすを見て、Kyrieが「うわ、足、粘土かよ!」とアイコスを握った右手の長い爪で、寒さで変色したマリカの足先を指差す。膝を抱えてひとしきり笑ったあと、急に神妙な面持ちになり「奨学金返済終わった、って、言ってなかった?」 と、斜め下からマリカの顔を見上げた。均一にパーマをかけられたまつ毛が、虫を捕まえた食虫植物みたいにゆっくりとしばたたいた。
「買います買います。返済も、終わった。めんどくさかっただけっす」
マリカは膝を抱えて縮こまり、足を引っ込めて手でつま先を隠した。クリア素材でどんなドレスともけんかしない、格安通販で三〇〇〇円だった厚底の一五センチ。去年の夏の終わりから春まで履き潰したので汚れや黄ばみも目立ってきて、もうそろそろ店内用の靴を買い替えてもいい時期になってきた。
「心配したじゃん。さすがにもうちょっといい靴買いな? 安物履いてると腰とかまじであとあと響っかんね」
二九にして、歌舞伎町のネオンに紛れた星々の表面にこびりついた埃まで見てきたような笑みを浮かべながら、Kyrieはドレスを捲ってルブタンのヒールを脱ぐ。土踏まずのあたりに貼り付けた衝撃吸収ゲルの突起を見せて「これ、前ファタールにいた子が起業して作ったんだけど、ツボ押しにもなんの。めっちゃ売れてるらしくて、今その子、年商一億だか何億だかいってんだって」と誇らしげに言う。マリカはソールなんかちっとも興味ないけれど、どこのなんですか、とスマホを取り出して、迷わず三九〇〇円の足ツボゲルインソールをカートに入れ、購入したところをKyrieに見せた。彼女の小さい球みたいな顔が、少し赤らんで、おもはゆそうに見える。ファタールのみんなの姉さんみたいな振る舞いをしながら、こんなふうにうれしさを隠しきれないところがKyrieの引力で、わたししかこの顔を知らないと錯覚させている。わかっていながら、マリカもそう信じてしまう。
「男に愛想振りまきながら酒飲まなくても、億稼げる女がいる。すごくないか」
でもその女だって、起業する前はナイトワークをやっていたじゃないか。マリカは口を手で押さえて、嘔気に近い返答を飲み込みながら、それでも「愛想振りまかないで稼げる仕事なんてないと思うんすけど」という言葉が指の隙間から一筋だけ漏れてしまう。
メガバンクの支店で営業をしている大学の同期は、地域名物のシュウマイ店社長に取り入ろうと毎日シュウマイ弁当を食べ続けた甲斐があり、半年で六キロ肥えたが大口契約獲得したという。音楽業界で働く知り合いは、業界のおじさんの飲み会に呼ばれて昔話にひたすら笑顔で相槌を打っていたら、深夜不倫ドラマの劇伴の譜面を浄書するこぼれ仕事がもらえて、けっきょく、才能も多少なりとも要るものの飲みの場に頻繁に参加して顔が広くて愛想よく笑っている人間なら食いっぱぐれないって言っていて、わたしもそれは——マリカの口からとめどなく溢れてくる身近な女たちの仕事の話に、少女のような声で「じょうしょ?」とKyrieが首を傾げた。
「あの、手書きでバーっと書いた楽譜を、印刷できるような、きれいな楽譜に書き直すこと、らしい、す」「よくそんなこと知ってんね」「あ、いや、わたしも音楽全然わかんないんすけど、高校の同級生が音大出てて、それで教えてもらって」
「そっか、あんた昼の友達いるんだ」
ぽつんと世界に取り残されたような表情を浮かべて、Kyrieは咥えていたアイコスを口から離すと、ずっとずっと底のほうから、か細い喉で嘔吐する音が聞こえてきた。
ふたりが立ち上がって音のする方へ見てみると、向かいのビルの前で、水商売の女か、ホスト通いの女か、あるいはその両方か——とにかく枯れ枝のように瘦せ細った女が、体をくの字に深く折り曲げ道端の側溝めがけて吐いていた。
「うわ、ねえ、だいじょうぶー?」
Kyrieは立ち上がって、マリカの硬水ペットボトルを奪い、そのまま外階段を下りはじめた。え、いくの?! まじでー? Kyrieさーん! ねー、えー! マリカはKyrieが降りてゆく地面に向かって叫んだ。細いヒールのカン、カン、カン、カン、と階段を下りてゆく音が、マリカのいる店と地上をひとつずつ縫い留めてゆく。
「だってー、苦しいじゃん! 吐くのって!」
Kyrieの姿はまだ雑居ビルの底に到着しておらず、声だけが夜空めがけて放り投げられるように、雑居ビルの間に響いた。
潰れるまで飲んだのだから仕方ないだろう。マリカにはKyrieのやさしさは時々過剰で、水分量が多くて、すこし偏っているように見えた。道端で潰れている知らない女をこんなふうに介抱してあげたり、まだ稼げてない新人にブランドものの財布やバッグをプレゼントしてやったりする一方で、金で物を言わせ合う関係にもかかわらず個人的関係へ発展することを期待する客の悲哀に対しては「かわいそお」の一言で済ませる。マリカにとっては、どちらも身の程知らずという点において大きな差がなかった。Kyrieに助けられたことも少なくないし、きっと完璧で平等なやさしさなんてないけれど。
呻く女をしばらく五階の外階段から見下ろしていると、ビルの足元からKyrieが飛び出してきて、凸凹の激しいアスファルトの上に血痕を残してゆくように、艶々に磨いたルブタンで走り渡りきった。マリカのペットボトルのキャップを開け、くの字になった彼女の背中をさすりながらそれを差し出すと、女はそれを受け取って、一度二度、ペットボトルに口をつけたあと、側溝の上にしゃがみこんだ。彼女の背中を摩りながら、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と囁くKyrieの声は、マリカには届かない。
(つづく)

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第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

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第三夜
児玉雨子
3 空っぽの部屋の中ではじめに組み立てたのは、ドレッサーだった。以前はLEDシートを貼った手作りの女優ミラーをデスクに立てかけてそのまま使っていたので、今回の引越しを機に新調した。電動ドライバーの音がめいっぱい鳴って反響するたび、今ここに助けてもらえるような知り合いはいないんだぞ、と耳元で叫ばれているようだった。そうして組み立てた大理石模様のドレッサーのスイッチを押すと、鏡の縁に内蔵されたライトが

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第四夜
児玉雨子
4 ファタールではタブレット注文で管理していたが、ユナーシュではキャバ嬢が直接黒服を呼ぶのだと教わる。つまり、黒服とうまく連携を取らないと売上を伸ばしづらいのだろう、ここは店の女の子たちと黒服たちの距離が近い。ファタールにいたころはマネージャークラスの黒服ならまだしも新人の黒服の名前なんて覚えなかったし、誰かを呼ぶときは「おい」だったり、そのまま「黒服」とか「誰か」と呼んだりしていたから、ユナーシ

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第五夜
児玉雨子
5 店の住所が印刷された白い空名刺に、澪標カリナ、と手書きの名前とラインのIDを書き込んでゆく。 体入したその夜のうちに入店が決まった。翌日の昼過ぎ、ウォーキングがてら中之島周辺を散策していると、淀屋橋の欄干にあった市章が目に入った。写真に撮ってChatGPTに訊いてみると、数秒ほど思考の沈黙があって、みおつくし、という名称を返答した。澪標/身を尽くし/身を突く串——ずらずらっと出力されるその由

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第六夜
児玉雨子
6 便器に溜まった尿を覗く。大阪に来てはじめてのシャンパン尿だった。今夜は上林のおかげで、ユナーシュに来てからやっとシャンパンが二本——のベルエポックが一本と、その後に来た客が場内指名を入れてきて、この店では最低金額だが六万円のものが一本空いた。 派手なネイルを施した爪の先でトイレの流しボタンを押すと、合計一六万円が音を立てて下水道に流れてゆく。高級ブランドを買ったり貰ったりするよりも、この瞬間

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第七夜
児玉雨子
8 エレベーターの扉が開くと、スーツを着た若い男がこちらを見るやいなや、向こうで固まったまま突っ立っていた。エレベーター内の鏡で施術後の肌を眺めていたので、到着までにマスク装着が間に合わなかった。カリナは俯きながらも目だけぎょろつかせてこちらを見つめてくる男に舌打ちして、早歩きで堅牢なエレベーターから出る。ビルの外に出てから、バッグの中に折りたたんでいたマスクを耳にひっかけた。顔の下半分と首の点状

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第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて