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Cover Illustration: ©Shishi YamazakiCharacter Illustration: ©DAISUKE KONDO

第七夜
#拝金主義#大量消費社会#シスターフッド#人間関係#フェミニズム
小説2026/09/06

マリカとカリナと足りない在処

第七夜

児玉雨子

8

エレベーターの扉が開くと、スーツを着た若い男がこちらを見るやいなや、向こうで固まったまま突っ立っていた。エレベーター内の鏡で施術後の肌を眺めていたので、到着までにマスク装着が間に合わなかった。カリナは俯きながらも目だけぎょろつかせてこちらを見つめてくる男に舌打ちして、早歩きで堅牢なエレベーターから出る。ビルの外に出てから、バッグの中に折りたたんでいたマスクを耳にひっかけた。顔の下半分と首の点状に打たれた美容注射の跡が、不織布に擦れて熱感がする。

東京にいたときに鼻と脂肪豊胸をしてくれた先生から勧められたクリニックで、施術中にその先生の名前を出したら、こちらの女性の先生も目をぱあっと見開いて、やっぱりか、とゴム手袋を嵌めた手でカリナの顎をそっと摑んだ。「わたし、あの先生が作る鼻大好き。あるべき形って感じで」と、カメラのレンズのように深い深い黒目でじっとカリナの鼻を見つめていた。

ボトックスも何箇所か打ったから、今日はあまり飲酒しないようにと厳命された。美容クリニックの後はいつもやることがない。手持ち無沙汰どころではなく、持ち物すべて奪われて街に放り出されたような気分になる。今まで、酒が飲めない日は何をして時間を潰してきたかも思い出せない。酒が飲めない世界はどこに行っても何をしてもガビガビの画質で、光景には遠く及ばないただのモザイクが流れてゆくばかりだった。

昼間の梅田駅周辺に来たのは、引越し直後、こまごました生活用品を揃えるためにロフトに何度か足を運んだ時ぶりだった。ふだんは野田周辺でパーソナルジム、仕事の前に堂島にある美容院やネイルサロンに行くくらいで、なんの用もなしに街に出ることはなかった。歌舞伎町にいるときからそうだし、歌舞伎町で働く前だってそうだった。

阪急のほうへ向かっている通り沿いに、小さなペットショップがあった。ショーケースの向こうで、手のひらほどの仔犬の豆柴が二本足で立ち上がって、こちらの注意を惹こうとガラスケースを前足の爪で引っ掻きながら飛び跳ねている。ケースには大きく生後三ヶ月、女の子と書かれている。カリナがその豆柴のケースの前に立ち止まると、背後から、うわー、という声が通り過ぎた。振り返ると大学生か私服の高校生に見える少女ふたりの後ろ姿が梅田駅方面へと歩いてゆく。ふたたびショーケースに視線を戻すと、反射する繁華街の中に、いやに目が丸く大きく、枯れ枝のような手足のマスク女が立っている。マスクを鼻の下まで下ろすと、さきほどのクリニックでの肌に打った注射で薬剤の凹凸ができ、ところどころ血が滲んでいた。ネックレスのチャームの縁に施されたダイヤモンドがざりざりと網膜に痛く光って、いつまでも街に馴染まない。

そのままショップを覗いていると、「早よしいや」と自動ドアに掠れた声で怒鳴りながら、同じくらい異質に瘦せた女性が、厚底スニーカーの底を地面に擦り付けながら出てきた。

「きりえさん?」

キャップを目深に被っていたが、唇のグロスに張りついたハイトーンボブの毛を見て、彼女だと思った。肌管理してきた帰りですみません、と言ってカリナはマスクを外すと、キャップのつばの下でパーマがしっかりかかったまつ毛をめいっぱい広げ「カリナちゃんやん」と彼女が笑った。やはり霧江のほうだった。

「ここな、ここで飼ったわんこがな、病気持っててん」

カリナが訊く前に、霧江が店のほうを睨んで言った。「先月お迎えした子がな、ずうっとごはん食べへんし、食べてもすぐ吐くんよ。病院連れてったら先天的に腎臓が悪いらしいねん。でもそれ言われてへんの。隠してたんよ、この店。ほら、事前の契約書には書いてへんの。いっちもじも、ないやろ」

肩に提げたゴヤールのバッグから、販売契約書を取り出してカリナに見せようとする。ビル風が強く、ページがびゃあびゃあ音を立てて捲れて読めない。霧江の声が大きくて周囲の視線もやけに集まってきて、飛ばされると危ないから、と言ってカリナは霧江に契約書をしまうように促しながら、あてどないまま駅の方面へ歩き出した。

や、ちゃんと、愛してるけどな? と、こちらが何か言う前に、霧江は釈明し始めた。「治るまで金いくらかかってもええし、もう飼っちゃって、一緒に生活しちゃっているわんこに代わりなんておらへんよ。見捨てへんよ。でも、なんていうかな、そういう病気があるって知っとって、黙って売るのもちゃうやんか。ぷぅちゃんが——あ、わんこな、ぷぅちゃんがそうだと知っていたら、そういうふうに愛したんよ。ちゃんと腎臓の弱い子向けのフード買うて、塩分とか気にして、病院だってもっと頻繁に連れていったんよ。せやのに、うちがぷぅちゃんの体追い詰めたみたいやんか」

バッグに契約書をしまいこんで、霧江はスマホでぷぅちゃんの写真を見せてきた。栗色のミニチュアダックスフンドで、耳の毛がすこし長い仔犬が、犬用のベッドのクッションに顎を乗せて眠っている。かーわいい。カリナは素直に甘い声を上げた。同時に、こんなに小さく、生まれて間もないやわらかそうな肉体に、致命的かもしれない病をもう抱えているという尖った事実が塊のまま差し出されたみたいで、どうにも自分の中で消化できなくて腹に重くのしかかった。

信号を渡って梅田の駅ビルの前に来ると、シーシャ行かへん? と霧江が切り出した。ペットショップとの話し合いでいらいらしてたばこが吸いたいのだが、喫煙所に入って同伴前の服に臭いをつけたくないらしい。反対側の茶屋町口に霧江が行きつけの店があるというので、彼女のあとを着いていった。

雑居ビルの古いエレベーターで五階まで上がり重い扉を開けると、受付にいた緑色の髪の男が顔を上げ、霧江に向って「おお〜」とだけ言って笑った。寒くなってきたのに男は薄いTシャツ一枚で、タトゥーを彫った枯れ枝のような右腕で店内を指差し「あの、適当に好きなとこ座って」と言ってすぐ自分のPCに視線を落とした。

店内は外の喧騒を紛らわすためにうっすらとアンビエント音楽が流れているものの、ほとんどの客がひとりで、連れのいる客も何も話さずしずかに体を脱力させながらPCやスマホを触っており、カフェやバーにしては静かだった。照明も極力落とされていて、真っ昼間の繁華街から切り離されたように薄暗く、休日の夜みたいに空気が弛緩している。お金とか怒りとか、今そういうのやめてくださいよ、力抜いてって。そんな空気。真昼の駅前にいるときよりも、世界に擦り付けられた自分の表皮がざりざりと削られてゆく感覚がする。

フレーバー勝手に頼んでええ? と霧江がいうので頷きつつ、ドリンクメニューを開く。一ページ目に「シャンパン始めました」と大きく印字されたページがあり、モエ一本一二〇〇〇円、グラス一杯二五〇〇円と書いてある。ユナーシュでは一本三〇〇〇〇円で売られているものだ。モエは安酒のイメージだったが、こうしてメニューを捲ると、この店が出している飲み物の中でいちばん高価だった。カリナは低画質なモエの写真を指差し、わたしシャンパン飲みたくて、と言うと、霧江が帽子を取りながら、まじで言うてる? と噴き出すように笑った。

「あんたクリニック行ってきたんやろ」

「一杯だけなんで」

「そういうもんちゃうやん」霧江はやわらかい革のソファに勢いよくのけぞった。「ありえへん・・・・・・もう、仕事以外で酒飲んだら体力もったいないって考えてしまうわ。てか、あんたちょっと肝臓休めた方がええで。ふつうに飲みすぎ」

「マリカちゃんのことがあったから、そんな心配してくれてんすか?」

ミナミマリカは三週間前に急性アルコール中毒で倒れた。救急車で運ばれて点滴を打って無事に帰されたのだけど、夜職なのに急性アルコール中毒で搬送されたなんてどの街でも笑いもので、体面が悪かったのかなんなのか、それ以来ユナーシュに出勤しなくなった。つまり飛んだのだ。LINEを送ったら既読がついたので、死んではいないだろうけど。はじめのうちは場内のキャバ嬢も客も社員もいろいろと噂したり腹を立てたりしていたけれど、やがてその声色も冷めてきて、バースデーイベントを控えたカリナや、ほかの新人たちの成績のほうに関心が移りはじめていた。

「酒なんてわたしら肝臓に任せて、マリカちゃんは飲まないで稼いどけばよかったのに。なんで無理して量飲もうとしたんだか」

「そんなんうちに言われても。飲まんと始まらんやんこの仕事」

「マリカという存在は、酒飲める女がなるから成立してたんじゃないんですかね」

はあ? と呆れた表情で霧江は「何やねんいきなり。意味わからん」と短く言い放ち、店員を呼んで、霧江は呪文のようなミックスフレーバーを手早く注文する。呪文が途切れた頃合いを見て、カリナはメニューを開き、さっきと同じようにモエのページを指差して「これ、グラスで」と言った。ガリガリタトゥーの店員が「グラス、ひとつ? ふたつ?」と霧江にいたずらっぽく目配せしたが、霧江は「この子の分だけ」とだけ返し、頑として自分の分は頼まなかった。

シーシャとシャンパンは、ふたりが入店したときから準備していたように、ものの数分でやってきた。カリナは落としても割れにくいような、安物の分厚いシャンパングラスに口をつけ一気にその半分ほど飲んだ。くぁ、と唸りながら鼻から抜けてゆく強い炭酸と香りを味わう。それから、わたしだって意味わかんない、と吐き出した。

「わたし、飲めない人の気持ちがわかんない。というか、飲めないくせに、飲めるように振る舞う意味がわかんない。奪うなよ、飲める人間の居場所。アルコールがだめならラウンジ行けばいい。なんでわざわざキャバやるんだろ」

ブクブクと泡を立てて吸ったシーシャの水蒸気をたっぷり吐き出しながら、霧江は天井を仰ぎ、「あんた、むっちゃ体強いもんなあ」と苦そうに笑う。まぶたを細めてこちらを見下ろす目が、やはりKyrieによく似ていた。

「でも、みんながみんなあんたほど大酒飲みちゃうで。そりゃマリカ級に飲めないキャバ嬢は極端やけど」

「霧江さんは、どうしてマリカちゃんのことをそうやって庇うの。飛んだんだよ? それって、裏切られたってことじゃないの」

水蒸気を吐き出す霧江の金髪が、薄暗い店内の中でやわらかく発光するように見えた。霧江はシーシャのホースのねじれを直しながらマウスピースを膝に置き「庇いたくなる子だったから」と言い落とした。「あんただって、自分からマリカの肝臓やってあげてたやん。ちゃんと庇ってたやん。いっしょ。うちは酒じゃなくて、言葉とか態度とかでそうしてるだけ」

「ちがう」存外に声が店内に響いて、カリナは身を縮こませ、声をひそめなおす。「わたしはヘルプついて、マリカの枝客獲っていただけ」

「カリナって、マリカのこと嫌いやったん?」

霧江はカリナをからかうのではなく、むしろ気配りできていなかったことを詫びるように、心配そうにこちらを長いまつ毛をしばたたかせて見上げてきた。答えに窮した。いや、とか、そうじゃなくて、とか、切れっぱなしの相槌を返しながら、カリナの視線は寄るべなく膝の上に落ちてゆく。マリカは自分みたいなもの——自分が来ていた着ぐるみのようなものだから、好きとか嫌いとか、そんな物差しで考えたことなんてなかった。ここのマリカは、マリカという着ぐるみを着ているにはふさわしくないと思った、というのが適切だった。「好きだよ、ほんとに。心配だし」カリナは掠れた声で、小さく呟いた。口にしてから、マリカという存在への愛おしさが形をもって込み上げてくる。「だから、マリカがマリカらしくないことをするのが、嫌。マリカは飛ぶような女じゃない」

みんな同じというのは暴論だけど、やはりキャバ嬢はある程度の類型に大別できてしまう。水商売の世界に飛び込む理由や経緯は十人十色だ。しかし欲望される身体になろうとして、やがてみな一様にまぶたを切り込み目を大きく見せ、洗練された印象にするため鼻を高く細くし、愛想よくいつでも笑っている造形になるため唇の端の筋肉をボトックスで鈍らせ、母親的存在を連想させないように瘦せてくびれを作り、よりそれを強調させるために豊胸し、数種類の類型に姿形が収斂してゆく。類型が決まっているほうが客は選びやすいのだ。かわいい女。きれいな女。背の低い女。高い女。胸の大きい女。小さい女。やれそうな女。やれなさそうだが、夢を見させてくれる女。ただ頷いていてくれる女。盛り上げてくれる女。かわいそうな女。庇いたい女。ただの女。客はこの中からただ選べばいい。

人形のような姿形だが、口ぶりや振る舞いは部活の後輩のように気さくで、キャバ嬢らしくハイブランドの衣服やアクセサリーを身に纏いながらも、子供めいたキャラもののハンドタオルを愛用している。しかし仕事に関しては硬派であり、枕はもちろん、同伴さえ行わない大酒飲み——こんなふうに、歌舞伎町のマリカには個性が多すぎたのだ。もっと単純でよかった。人形は人形らしく、かわいくて、貢がれたジュエリーを纏い、趣味が子供じみている二〇代半ばの女。ここまではほとんど同じだ。しかし大して酒が飲めないので、同伴やアフターまで体力が持たない女。きっとこれこそ——北新地のマリカこそ、正しいマリカだ。マリカというひとつの型だ。その存在に収斂しきれない女は、遅かれ早かれ消えてゆく。個性は消費社会における異物なのだ。互いを食い合うことでしか回らない社会では、消化の悪い存在など排泄物にもなれず、ただいたずらに嚙み砕かれて、そこらへんに吐き戻される。そうしたら水商売をやめるか、別の女の型を探すか。

テーブルのシャンパングラスの中で、気泡が底から表面へと絶えず湧き続けては弾けてゆく。シャンパンの気泡が尽きるのを、カリナは見たことがなかった。炭酸が抜ける前に飲み切ってしまうから。飲んだら、またあらたに注がれる。それを飲む。注がれる。ボトルを飲み切ってしまったら、もう一本空けさせて、注がれる。いつもそうしてカリナの周囲には小さな気泡があふれていた。

「わたしが来る前のカリナって、どんなひとだったんすか」

霧江はマウスピースを前歯で嚙みながら、シーシャの中の水を泡立たせながら深く深く息を吸い込み、水蒸気を吐き出してしばらく黙った。ビルの外から薄く救急車のサイレンの音波が寄せては返している。店内にいる誰もその音に反応せず、空気は弛緩していた。

「どうって言われても、今のあんたとほとんど同じやけど。ワンホンっぽいきれい系で、黒髪で、鼻も細くて、ほらその、目頭がきゅっと切れ込んでいて——それって天然なん? ええな、うちは切開一回失敗したことあるから、それ系の目ぇうらやましい。あとは手足長くて、億女んなろうとギラギラしはってて」

「億女だったんですか」

「じゃあなんで今、あんたがカリナやねん」

「澪標って苗字まで同じでしたか」

「覚えてへんけど・・・・・・水っぽい名前なんてこの世界、験担げんかつぎでようおるやん。どうせ似たような響きになるやろ。うちなんて、霧に、江やで。めっちゃみずみずしてる」

「他に、中身のこととか、なんかないんすか」

中身。霧江はその言葉を何度か繰り返しながら、視線を落とした。なかみなかみなかみ。そうして脚を組んで、その上に肘をついて前髪を尖った爪で触りながら、めんどうくさそうにため息をついた。「あんたほどちゃうけど、肝臓強めってことくらい? てか、さっきから何なん。マリカみたいな言葉遣いせんといてくれる? なんかこわいわ。誰と喋ってんのかわからんくなる」

はあもう仕事の話いややわ、と霧江は言い捨てて、バッグからぐしゃぐしゃに押し込まれた先ほどのペットショップの契約書の皺をテーブルに押し広げて、スマホで写真を撮りながら、いかにあのペットショップの対応が粗雑であるか、買った当時のことから語り始めた。カリナはシャンパングラスに口をつけたり、ときどき霧江の手からシーシャを取って、新しい使い捨てマウスピースを差して吸ってみたりした。酒が飲めない人間は、こんなふうに興味のない話を諄々じゅんじゅんとされているとき、どうやってやり過ごすのだろう。手のひらほどの途方もなさが重かった。ときおり霧江から愛犬のレントゲン画像を見せられるたび、かわいそお、と呟いておいた。

9

灰色のビルに挟まれた露天神社の北門前で待っていると、黒いアルファードのタクシーから上林が降りてきた。彼にプレゼントされたバーバリーの大判ストールから白い息が漏れてきて、北新地に来てはじめての冬の中にいるのだと、きゅうに今までのあらゆる季節から切り離された気分になった。

予約していたお初天神通りの入り組んだ階段を降りて、焼鳥屋に入る。同伴せえへん子やって思ってたからうれしいわ、と素直なことばとは裏腹に、上林は退屈そうにカウンターに横並びで座った。簡単に注文をすませて軽く乾杯する。

今週はカリナのバースデーウィークで、平日の五日間は上位五人の太客と同伴していた。上林は最後の五人目で、店は焼き鳥寿司焼き鳥寿司と交互に選んでおり、今日は焼き鳥の日だった。寿司のほうが軽く食べられるかと思っていたが、胃に酢飯のような炭水化物が残っているほうが体が重たく、案外脂質の高い焼き鳥の日のほうがより多く酒が飲める気がした。あれだけ抵抗のあった同伴でも、実際にやってみると体が同伴有りでこなす作りに変わってゆく。

でらでら光るだし巻きを出されると、カリナは細い箸の先で四等分し、そのうちふたつを上林の小皿に取り分けて差し出した。

「上林さんって、わたしが枕するよって言ったらうれしいの?」

「うれしいな」上林はあっさり答えた。しかしテーブルに肘をつけて、カリナから小皿を受け取るそぶりを見せない。

「枕するから、たとえば、信号機とかアタッシュケースとか入れてってお願いしたら、卸してくれるの?」

「まぁ、可能な限りはするで」

ふうん、とカリナは口角を上げつつ彼の顔をまじまじと見つめていると「何。枕してくれんの」と上林はビールグラスに口をつけた。

「しない。上林さんは推しっていうか、尊敬に近いから。わたしほんとうに好きな人にはブワーって、敬意、みたいなものが帯びちゃって、セックスするとかしないとかの次元を超越するんだよね。汚いじゃん、セックスって。わたし上林さんと汚いことしたくない」

「ありがとお。でもいまこの会話で、おれ、隙あらばやりたい金出し渋りおっさんになってもうた。それやったらもう、隙あらばやりたい金回りええおっさん認定の方がまし。これからシャンパン入れても、だからやらせろってことちゃうから、勘違いして誘わんといてな」

「わかってるって」

「わかってへんよ。あのな、おれが、おまえの中に存在してるほんの歯糞ほどのおれ自身に、一撃何十万も払ろてんねん」

「わたし歯糞なんてないよ」

カリナが白い歯を見せながら頑として小皿を差し出し続けるので、腕を組んでいた上林もやがて「ほらわかってへん」とぼやきながらそれを受け取った。ほどなくして、赤レバー串と白レバー串がそれぞれ二人分テーブルに運ばれてきた。

白レバー串を取って新しい小皿にレバー片をひとつずつばらしながら、カリナが赤と白、どっちが好き? と訊くと、上林は生ビールに口をつけてしばらく考えたすえ「白、かなあ。まあどっちでもええけど」と答えた。

「味覚繊細そうなのに」

「結局な、子供舌やねん。脂乗っていて、味濃くて、体に悪そうなもんほどうまいと思てまう。酔うてたら、もう、あかん。どこ行って何食っても、いっしょ」

「そんなもん?」「うまいなとは思うよ」「肉と魚は?」「いっしょ」「タレと塩は?」「うーん、どっちでも。いっしょ」「卵と鶏は?」

「いっしょいっしょ」

ほんとうに味わうようすもなく、上林は作業のようにただ出されただし巻きもレバー串もたんたんと咀嚼して飲み込んでゆく。そうだね。カリナは上林の横顔に向かってそう言った。猫や犬といった、いとしい存在にかけるようなほどけた声をしていたから、カリナは自分でも驚いた。

店を出て、しんと冷えた長い横断歩道を渡り、北新地の店までふたりで歩いて行った。寒くてふたりとも身を縮こませたけど、まだ吐息は白くならない。

ユナーシュに到着し卓に通されるやいなや、ああやっと吸える、と上林がウィンストン・キャスターを咥えた。ガスが残り少ない使い捨てライターを上下に振ってから灯す。炎がだいぶ小さくなっていた。おれのでええよ、と上林がジッポライターをスーツの胸ポケットから取り出すので、カリナはそれに持ち替えて点火した。大きくて、悠然とした火だった。

それからヘルプの新人に代わってもらい、その間に新しくおろしたシャネルのワンピースに着替える。バースデーウィークは毎日ハイブランドのドレスをおろして、最終日には体入ではじめて来た日の激安通販で買ったペラペラに薄いミニドレスを着て初心に帰る、という演出をする算段だった。店に呼んだヘアメイクに髪の毛を手早く巻いてもらってから、カリナはトイレに入った。店のペットボトル水で五苓散を一包いっぽう飲んでから、とりあえず便座に座る。太ももに肘をつけて前屈みになると、スワロフスキーのアンクルチャームの先で、足先がどどめ色になるまで冷えているのに気づいた。尿はちょろりとしか出ず、ほとんど透明の水のままトイレを流した。

カリナが卓に戻ると、上林はふだん頼まないアルマンドのブラン・ド・ブランを注文して、いつものように黒服が傅いて、大仰なアタッシュケースからびかびかと反射してまぶしいシルバーのボトルを取り出し、栓を抜いた。まめに店に来るけれど、金にものを言わせるような頼み方をしてこなかった上林がバースデーにアタッシュや信号機のような特注品を注文しているとは思わず、カリナは狼狽うろたえた。わあ、と甲高い声を上げてみるが、上林の表情はどこか緊張していてほどけないので、カリナは一度注がれたシャンパングラスの中身を一気飲みしてから、黒服とヘルプをさっさと退かせて、再び二人だけの世界を作ってやる。

「ねえ、さっきの怒ってる? 焼き鳥屋の」

「怒ってへんけど」上林はグラスのシャンパンを一気に飲み干した。「そんなん言われたんなら、て感じ」

「・・・・・・ねえ、わたしもちゃんとしたライター買おうかなって思ってる。今度一緒に買いに行こうよ。べつに買ってくれなくていいから、何がいいか教えて」カリナはグラスを揺らして、シャンパンの中の氷を鳴らしながら、不貞腐れた幼い子の頭を撫でるように提案する。上林はちらりと横目でこちらを見やって「吸うようになったん」とそっけなく返してきた。

「シーシャくらいだよ」と返して、カリナは首を横に振る。

「でもKyrieさんとか、お客さんとたばこの話で盛り上がってるのいいなって、ずっと思ってて」

「Kyrie、ファタールの社長なってから禁煙しはったって言うてたけど」

「うそ」カリナが前につんのめって上林に訊こうとすると、入り口のほうからガラスが割れる音が走った。差し水を受けたようにどの卓もいっしゅん話をやめて、エレクトロスウィングのBGMだけが途切れず店内に鳴り続けた。じょじょにそれぞれの卓がまた話題を取り戻してきたので、カリナが「それって、誰が言ってたの? いつ社長になったの?」と上林の耳もとに顔を近づけて訊くと、ふたたびガラスが割れた音と、女のがなり声が上がって、それは場内に近づいてきた。

触んなよ、と体格のいい黒服たちにも凄みながら、分厚いダウンコートを纏い、ゆるく巻いた豊かな黒髪を振り乱し放題にした女が出てくる。カリナ! と店の端から驚嘆が上がった。霧江の声だ。悲痛に破れるようでもあり、どこか甘さを湛えた声にも聴こえた。カリナは顔を上げて霧江を見やり、そして女のほうに視線を向けた。混乱しながらも、閃光めいた衝撃が走る——わたしって、ああいう顔してるんだ? 起き抜けも、出勤前も、トイレのたびにも、毎日幾度となく鏡をのぞいているのに、何も隔てずにこうして自分の顔を見るのははじめてだから、落胆でも喜びでもなく、発見に近い感覚がいとしくなるほど小さな火花を振り撒いて、弾けた。

女は細い首を振って場内を見回し、こちらに照準を定めると、ロングブーツの重い厚底をベタベタベタベタベタベタと音を立てて引きずりながら近づいてきた。てめえ。てめえだよブス。おい、こっちみろ。女はそう言ってこぼれ落ちそうなほど青白い眼球を大きく見開く。こちらに睨みをきかせるが、ボトックスの効果で眉間にはいっさい皺が寄らず、視線ばかりが切れそうなほどするどく光る。

カリナは震えそうになる下唇を嚙んでから、胸で息を浅く吸い、何ですか、と言いかけると、女の長い髪がカリナの肩を撫でるようにして、そのまま通り過ぎていった。それから女は奥の卓で呆気に取られている新人キャバ嬢に向かって「てめえや。何とぼけてんねん」と唾を飛ばし、テーブルに並べられた少量中身が残っているシャンパンのボトルの飲み口を摑み、女は中の酒を撒き散らしながら振り回し始めた。新人も黒く長い髪を巻いており、厚底キャバヒールを履いているとはいえ、彼女のもとへ駆けつけてきた黒服よりも背が高い。「顔まで寄せやがって、キショいねん」と女が怒鳴る。女と新人の顔はたしかに複製されたもののように似ている。ということは、あの新人の顔もわたしなのだろう。女が底の割れたシャンパンボトルを振り上げ、新人の腕が切りつけられる。新人は逃げようと駆け出したが、履き慣れない高さのヒール靴で足首を挫いて、鏡面仕立ての床に顔から転んでしまう。モタモタと距離をはかっていた黒服たちが女を羽交い締めにして、やっと取り押さえた。

黒服に取り押さえられている女はわたしで、腰を抜かし、血を流して叫んでいるのもわたしで、ここでそれを見ているのも、わたしだ。わたしと同じ顔の女が、わたしと同じ顔の女に向かって、わたしの名前を騙るなと叫んでいる。カリナはふたりの前まで歩み寄り「ちがう。わたしだよ、それ」と言い放つと、黒服たちの下で唸っている女が、泣いている新人から視線を離し、こちらをつよく睨み上げた。

「それ——カリナってのは、その子じゃなくて、わたしのこと」

「なんやねんお前」

「わたしがカリナ。澪標カリナ。あなたは誰。何しにきたの」

「はあ? じゃあこいつ誰や」

「知らないけど。とにかく、わたしがカリナなんだって」

「うちがカリナや」

「もうあなたはカリナじゃない」

「誰やねん貴様」

「だから、カリナ」

ただでさえ酒灼けしているのに、さらに渇いた喉が張り付いて、何か言葉を発するたびにカミソリを飲み込んでいるような痛みが走った。それでも言う。渾身の力でカリナは言う。

「あなたもカリナだったかもしれないけれど、今はわたしがカリナ、カリナはわたしなんだよ。わたしの名前を騙って暴れるのは、もうやめな。みっともねーから。あなたはわたしじゃないんだから。カリナやりきれない、誰がカリナかもわかんないカリナなり損ないなんて、もうさっさと帰れよ」

男たちに取り押さえられ、虫のように床で長い手足をうねうねと搔いている元カリナは、てめえが誰やねん、と激昂して、握っていたシャンパンボトルを床に叩きつけた。深緑色の破片がフロアの上を飛び散り、破片のひとつひとつが店の照明を浴びて、世界にこびりつこうときらきら懸命に光っていた。遠慮がちだった黒服たちも、その音を契機に容赦がなくなり、強引に元カリナを店の外へ引きずっていった。元カリナは抵抗して、思いついた罵倒を目についた人間に出鱈目に撒き散らしていた。店の外に追い出されたあともしばらく彼女の叫び声やがなりが飛んできたが、やがてそれも波が引くように聞こえなくなった。

緊迫していたそれぞれの卓は解けてゆくように、また会話を再開しはじめた。奥から箒とちりとりを持った藤田と純一〇〇〇%がこちらにやってきて、まずは上林を奥のVIPルームへ移動させた。 あんたも手伝いや、と純一〇〇〇%がグラスやおしぼりを持てるだけ持って、他の卓の客の分も別室やテーブルに移動させてゆく。この卓の周囲からぽっかりと人がいなくなって、カリナと新人だけがぽつねんとそこに残された。

針のようなヒールをきらめかせながら別の卓から霧江が飛んできて、カリナぁ、とさきほどよりやわらかく、撫でるような声色をかけてきた。

「こわかったなあ、こんなに手え冷たなって。怪我ない? 足とか、へいき?」

自分だって冷え症のくせに、カリナの指先を両手で包んだり摩ったりしていた。霧江のハイトーンボブの髪から、アイコスっぽい、焦げた臭いがしてくる。「あんたも大丈夫? こわかったなあ」

霧江は新人の顔を覗き込んで、黒服ぅ救急セットはよしいやー、とバックヤードのほうへ声を張った。そして切られた傷口にガラス片が刺さっていたら危ないからと、さらにスマホで救急車を呼びながら新人をバックヤードに連れてゆこうと、切られていないほうの腕を摩りながら、彼女に立つように促すが、新人は腰が抜けてしまったようで、そこから立ち上がれないでいた。

あんたカリナじゃないの?

しゃがみ込んでカリナがそう訊くと、新人は細く息を吸って、二度三度頷いた。新人は美しい顔立ちをしているものの、こうして目を凝らすとぜんぜんカリナ然としておらず、厚いファンデでも目立つほど肌が荒れており、豊かな髪に隠れていた顔の輪郭も咬筋こうきんが発達して、硬く張っていた。靴も店の借り物だろう。安物のクリアサンダルを履き、ぺらぺらのミニドレスから日焼けした脚が伸びていた。造形はかなりカリナだが、容貌はそれほどカリナではない。これから顔のいたるところにボトックスを打ち、瘦せ、豊胸し、切って張って、何かの型に当て嵌まってゆく素材としての顔のまま彼女は存在していた。

新人はそれから、あの、とカリナの顔を覗き込んで、「やばい、えっと、漏らしたかもです」と声をひそめて振り絞った。てっきりあの女が暴れてシャンパンを撒き散らしたと思っていたので、カリナは辺りを見回して、接客中にスカートを抑えるために用意されているブランケットを拾ってき、新人の太ももにかけた。

「大丈夫。あんたが言わなきゃ、誰にもばれない。いっしょ。いっしょいっしょ。わかんないから。色も同じ。とりあえず怪我してるし、そこから動かないで」

そう言い残して立ちあがろうとしたのと同時に、廊下のほうから、マリカ、と呼ぶ声がした。カリナが顔を上げると、はあい、とまだほとんど酒に掠れていない声で、新人がつとめて明るく返した。

(了)

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第二夜

児玉雨子

2 Kyrieに連れられてマリカは店の外階段に出た。階段に座ったKyrieに隣に来るよう促され、マリカもミニドレスのまま階段の上に並んで座った。隣のビルのキャバクラやスナックの看板の光を見下ろして、ミニドレスの化学繊維でかゆい脇腹を搔きながらおだやかな夜風に当たる。夜風といってもビルの排気口や室外機から出てきたぬるくて埃っぽいものだけど、風は風だった。 「ほんとに、北新地で働いてなかった?」 アイ

#フェミニズム#人間関係#拝金主義#大量消費社会#シスターフッド
第三夜
第三夜
小説

2026/09/02 連載

第三夜

児玉雨子

3 空っぽの部屋の中ではじめに組み立てたのは、ドレッサーだった。以前はLEDシートを貼った手作りの女優ミラーをデスクに立てかけてそのまま使っていたので、今回の引越しを機に新調した。電動ドライバーの音がめいっぱい鳴って反響するたび、今ここに助けてもらえるような知り合いはいないんだぞ、と耳元で叫ばれているようだった。そうして組み立てた大理石模様のドレッサーのスイッチを押すと、鏡の縁に内蔵されたライトが

#フェミニズム#社会問題#人間関係#拝金主義#大量消費社会
第四夜
第四夜
小説

2026/09/03 連載

第四夜

児玉雨子

4 ファタールではタブレット注文で管理していたが、ユナーシュではキャバ嬢が直接黒服を呼ぶのだと教わる。つまり、黒服とうまく連携を取らないと売上を伸ばしづらいのだろう、ここは店の女の子たちと黒服たちの距離が近い。ファタールにいたころはマネージャークラスの黒服ならまだしも新人の黒服の名前なんて覚えなかったし、誰かを呼ぶときは「おい」だったり、そのまま「黒服」とか「誰か」と呼んだりしていたから、ユナーシ

#フェミニズム#社会問題#人間関係#拝金主義#大量消費社会
第五夜
第五夜
小説

2026/09/04 連載

第五夜

児玉雨子

5 店の住所が印刷された白い空名刺に、澪標カリナ、と手書きの名前とラインのIDを書き込んでゆく。 体入したその夜のうちに入店が決まった。翌日の昼過ぎ、ウォーキングがてら中之島周辺を散策していると、淀屋橋の欄干にあった市章が目に入った。写真に撮ってChatGPTに訊いてみると、数秒ほど思考の沈黙があって、みおつくし、という名称を返答した。澪標/身を尽くし/身を突く串——ずらずらっと出力されるその由

#フェミニズム#社会問題#人間関係#拝金主義#大量消費社会
第六夜
第六夜
小説

2026/09/05 連載

第六夜

児玉雨子

6 便器に溜まった尿を覗く。大阪に来てはじめてのシャンパン尿だった。今夜は上林のおかげで、ユナーシュに来てからやっとシャンパンが二本——のベルエポックが一本と、その後に来た客が場内指名を入れてきて、この店では最低金額だが六万円のものが一本空いた。 派手なネイルを施した爪の先でトイレの流しボタンを押すと、合計一六万円が音を立てて下水道に流れてゆく。高級ブランドを買ったり貰ったりするよりも、この瞬間

#拝金主義#大量消費社会#シスターフッド#フェミニズム#人間関係