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Cover Illustration: ©Shishi YamazakiCharacter Illustration: ©DAISUKE KONDO

第三夜
#フェミニズム#社会問題#人間関係#拝金主義#大量消費社会#シスターフッド
小説2026/09/02

マリカとカリナと足りない在処

第三夜

児玉雨子

3

空っぽの部屋の中ではじめに組み立てたのは、ドレッサーだった。以前はLEDシートを貼った手作りの女優ミラーをデスクに立てかけてそのまま使っていたので、今回の引越しを機に新調した。電動ドライバーの音がめいっぱい鳴って反響するたび、今ここに助けてもらえるような知り合いはいないんだぞ、と耳元で叫ばれているようだった。そうして組み立てた大理石模様のドレッサーのスイッチを押すと、鏡の縁に内蔵されたライトが点灯し、夕方の殺風景な部屋が白く光った。ヒアルロン酸を注入して丸くなった額がぱっと目を引き、プロテーゼを入れ替えた鼻が日時計のように顔の上に影を伸ばしている。

マリカはバースデーイベントで億女になれなかった。Kyrieやタカナシの協力もあったけれど、売上は八〇〇〇万に甘んじ、マリカは逃げるようにファタールを退店した。会長からは卒業イベントを打つということも打診されたけれど、すでにタカナシをはじめ太客たちには無理をさせていたし、そもそも見返りの少ない卒業イベントで億単位の売上はほとんど出ない。だから会長の提案を断った。

この三ヶ月間、数えきれないほどKyrieから連絡があった。そもそも人間がひと月に何千万も何億も稼ぐことは世間一般ではすごいのだとか、どの業界でもふつう、手堅く売上を出すほうが店としてはありがたい存在だとか、「世間」とか「ふつう」とかいった大雑把な言葉でやさしく撫でられるほど、マリカの居場所がやすりで削られてゆくようだった。こちらが電話に出なくなってからも、Kyrieは懲りずに週に一度ほど〈生きてる?〉とLINEを寄越してくる。マリカは既読をつけることで、返事の代わりとしていた。

新しい鏡に映る自分は文字通り別人だった。ファタールでは茶色に髪を染めて前髪を作っていたが、店を飛ぶと決めたその足で髪を黒染めしに行き、前髪を伸ばしはじめた。それと同時並行で、かねてから気にしていた鼻を数ミリずつ細く高くするため、美容クリニックのカウンセリングをいくつか周り、結局いつも肌管理や照射系を指名している女性医師の提案通りに、プロテーゼ挿入と鼻中隔延長術を受けることにした。鼻の高さを出す手術を受けたつもりが、全身麻酔から覚醒すると腹が切られており、耳の軟骨では足りないように見えたようで、急遽肋軟骨ろくなんこつを削り取って鼻に移植されていた。大手術になってしまったのもあり、本来はもっと期間を空けるべきなのだけど、酒も飲めず退屈だったので、内出血が引いたら別の病院に行って太ももから吸引した脂肪を八〇〇ccほど胸に移植した。しばらくは体のいたるところがむくんだり紫色の痣が浮かんだり、息を深く吸うと胸のあたりがしんと痛んだりしたけれど、術後三ヶ月ほど経つころにはそれらもだいぶ治り、求めていた姿が浮き彫りになる。手術によるが、完全に腫れが引くのは術後半年後とされる。これでもまだ、わたしは完成していない。

ダンボール一箱分の化粧品やコテをドレッサーに並べていると、Kyrieに勧められて買った足ツボゲルインソールが、べたん、と鈍い音を立てて床に落っこちた。抱えきれないほどもらった花束はもちろん全部とっくに枯れたし、ヴァンクリをはじめとした、客からプレゼントされた好みじゃないジュエリーやバッグも引越しを機に売り払った。浴びるように飲んだシャンパンも、さすがに半年も経てば代謝しきってもうこの体のどこにもその成分は残っていないだろうけど、うつ伏せに床に張り付いているゲルインソールだけは残って、ここまで来ていた。

まっさらな部屋を見渡す。引越し業者が設置してくれた、セミダブルのベッドとローテーブル、冷蔵庫と電子レンジ、プロジェクター付きのシーリングライト。以前住んでいた四谷三丁目から持ってきた大きい荷物はそれくらい。あとは食器少しと、私服数点、仕事に使わなかったバッグや時計、退店したあとにノリで買ってみたものの、普段の生活で履く機会がないジミーチュウのサイーダ。マンションは新福島駅から徒歩八分程度、管理費込みで九九〇〇〇円の一一畳1Kの部屋を借りた。オートロックで二十四時間ごみ出しOK。東京の酩酊した価格に慣れていると、この条件で繁華街へのアクセスの良さを加味するとかなりいい条件だと思ったけれど、大阪ではなかなか強気な物件のようだった。

荷解きを終えて、生地はペラペラに薄いけどウエストがくびれて見える安いワンピースに着替えた。履き古したスニーカーを履き、新しいドレスとキャバサンダルをまとめた大判の紙袋を提げて、一駅隣の北新地駅に向かった。JR北新地駅の一一の四番口を出たらそこは大遊戯場北新地〜、という熱気ある景色を期待したが、桜橋交差点はたんたんと車を整理しており、行き交う人も北新地と反対側の梅田方面へ足早に流れてゆく。関東の人間が大阪という街にざっくりと抱きがちな、人情のような、あたたかい吐息のようなイメージはここに流れていない。マリカはスマホの画面と目の前を交互に見やって、現在地を確認した。GPSに間違いはない。

指示通りに曽根崎お初天神通り商店街方面へ広い道を歩くと、橙色の夕焼け空の中にやけにはっきりと浮かぶ水色の「北新地」という電飾が左目を掠めた。切れ目のような細い道のほうへ振り返ると、店の小さな看板がうずたかくビルの壁から張り出していて、見知った光と、埃っぽい匂いがしてきた。平日の早い時間だったからかまだ人通りは少なかったが、その通りに入ると、ドレスショップ、肉厚な胡蝶蘭を前面に並べた花屋、誰かのバルーンスタンド、呼び込み。観光地化した歌舞伎町とはすこし雰囲気が異なるものの、不思議と勝手知った世界の欠片が目に入る。それに目が眩むたび、億女、という言葉がチラつく。ネオンでも宝石でもない、水面みたいなきらめきを放つその称号は、横から掠め取られることも、汚されることも、真似されることもない。だから欲しい。

ナビ通りに歩き進めると、ピロティにシャンデリアが提げられた瀟洒しょうしゃなビルに当たる。しかし豪華なのはその入口だけで、一歩中に入ると建物のあちこちが埃をかぶっていて、店舗改装中に出ただろうゴミや資材が共用部に出しっぱなしになっている。今にも壊れそうな狭いエレベーターで四階に上がると、例の店の入り口が見えた。

筆記体でUne archeと書かれたマットを踏みながら入口の扉を開け、廊下の掃除をしていた線の細い黒服と視線が合った。黒服は反射的にニッと笑ったあと、すぐに我に返って目を細めて、こちらを睨むほどではない目力で見下ろした。スマホのライン画面を見せながら「一八時から、体入たいにゅうで来ました」と言うと、あぁすんません、と黒服は言い捨てるように立ち上がり、今ロッカールームも掃除でバタバタしてるんでこっちで、と言ってVIPの別室に案内して、すぐ持ち場の掃除に戻ってゆく。店内は白黒基調で装飾品も少なく、ごくシンプルな作りだった。

しばらくVIPルームで待っていると、スーツを着て、エルメスのスカーフを首に巻いた女性がやってきた。頰にチークとハイライトをたっぷり塗っていて、仄暗い場内でもぱんっと張ったように光ってみえた。

「はじめまして。純じゅん一〇〇〇せん%です。クラブ・ユナーシュの社長やらせてもろてます」

何かの聞き間違いかと思ったが、彼女が差し出してきた写真入りの分厚い名刺にはっきりと「純一〇〇〇%」と書いてあって、「うけるやろ」と、純一〇〇〇%が粒ガムみたいに白すぎる歯を見せて得意げに笑った。生まれつき目や髪の色素が薄いせいで、子供のころから会う人会う人に「ハーフ?」と訊かれ「一〇〇%、いや一〇〇〇%純ジャパです」と返し続けてきたことをもじった源氏名らしい。

「うち今年三一やねんけど、子供の頃って平成一桁年で、まじでただの、昭和の残尿みたいな感じやってん。子供同士の喧嘩やいじめならまだしも、先生が言うてくんの。学校の。ジジイ先生たちがコーラ被ったやろとか本当の父親誰だとかむちゃくちゃ言うてきて、んでグレて高校行かへんくなって、そのまま夜に来てん。だからこの名前は、世間への当て擦り」

ヘーゼル色の目を感傷的に細め、純一〇〇〇%は萎れたような微笑みを向けてきた。縋ってくる子供みたいで、咄嗟に「そうなんですか、大変ですね。話してくれてありがとうございます」と、一歩引くように返した。重い身の上話を打ち明けられたときは、こうして即座に頷きながら礼を言うようにする。そういう話を打ち明ける人は自分の話を受け止めてほしい反面、あんまりにも深刻に受け止められて沈黙されることを怖がる。さっと聞いてさっと流すくらいの距離感がちょうどよかった。

「いい返し」

こちらの思惑をすべて看破するように、純一〇〇〇%はするどく微笑んで傾げていた長い首をさっと起こして、ふたたびiPadを撫でながら紙芝居みたいに神妙な表情を変えた。「で、なんでわざわざうちで体験入店したいん? 東京の子やろ? 一応訊くけど、夜職経験はある?」

事前に送っていた応募フォームを表示させたiPadを、純一〇〇〇%はこちらに見えるように机に放った。iPadには整形が終わって数週間ほどの、まだダウンタイム中でやや腫れぼったい自分の顔が写っている。

「学生の頃にかじった程度なんですけど。しばらく就職して離れていて。まぁ、正直、昼ってぜんぜん稼げないし、そのわりにはキャバ嬢と変わらないような役回りを求められるっていうか」

「そうらしいな、よく聞く」

「じゃあキャバやるほうがよくない? って思って仕事やめて。心機一転させたいっていうか、ゼロから勝負し直したくて大阪こっちに来て」

噓は言っていない。学生の頃に奨学金返済のためにキャバを始め、もともと夜型であったためにこの世界にどっぷり浸り、卒業後にいちど中堅の広告代理店に就職し営業部に配属されたものの、二年ほどですぐに夜職に戻ってきてしまった。昼のほうが世間体がいいのはわかっていたけれど、昼職にも結局は接待があり、夜ほど露骨ではないが、クライアント次第では若年女性社員が飲み会に駆り出されることはある。中年以上の男性社員はアルコールが入ると似たような発言をしてきて、周囲がハラスメントから守ってくれるわけでもない。あたふたしたあと、自分はその風潮に加担していないという免罪符のために、後からぽつりぽつりと声をかけてくるだけで、解決のために行動するわけでもない。中には気にかけて人事に掛け合ったり上司を諫めてくれたりした先輩の女性社員もいたけれど、彼女たちはいつの間にかキャリア本流から姿を消していた。社風かと思って学生時代の知り合いにそれとなく聞いてみても、大手も外資もどこも似たり寄ったり。朝から出勤して、仕事して、夜もおっさんの臭い息と視線を浴びながら烏龍茶に消毒液を混ぜただけのようなものを飲ませ放題で、月三、四〇万円。年収にして五〇〇万円程度で、手取りはそれより低くなる。それに比べて、ナイトワークはシンプルだ。どんな出自でもそれなりの酒を飲んで飲ませた分だけ、青天井で成り上がれるのだから。

社長に話している身の上話は、すべて真実だ。歌舞伎町で敗れて北新地に来たという事実を話していないだけ。言うべきこと、言いたいこと、それらを自然に繫げるための虚構。つぎはぎして編んだことばにだんだんと血が熱く通い出して、ひと息ひと息に体重が乗ってくる。

「へえ、俄然やる気やん」純一〇〇〇%は椅子に座り直して「名前は? 前使ってたのでもええよ」と訊いてきた。

「マリカです」

そう素直に答えると、純一〇〇〇%は透き通ったヘーゼル色の瞳をすがめてこちらを見据え、iPadを手に取り直した。「マリカ?」「はい」「ほんまに?」「はい・・・・・・?」純一〇〇〇%はそれから深いため息をついて、ほんまこれはごめんなんやけど、と肘をついてうなだれた。

「うちにもうおんのよ、マリカ。なんか別の名前使ってへん?」

「すみません、マリカしかなくて」

「そお・・・・・・」純一〇〇〇%は頰杖をついて、目を閉じる。すこしずつ眉間に皺が寄りはじめると、まずい、と慌てて指を眉間に置いて皺を押し伸ばした。「じゃあ、カリナは? ちょうどこの先月、カリナって子が店辞めはったんよ。そこそこ売れてた子やったし、縁起ええと思う」

その名前を受け止める前に、VIPルームの扉が二回ノックされて、純一〇〇〇%の返事を待たずして扉が開けられた。振り返ると千鳥格子柄のミニワンピースを着、茶色い長髪を高い位置でポニーテールにして前髪をスプレーで固め、ヴァンクリの二連ピアスを揺らしながら、歌舞伎町にいたころの自分そのものが入ってきた。

「ちょうどよかった」純一〇〇〇%は立ち上がり、iPadを小脇に抱え、彼女の肩に手を置いてこちらを見た。「この子が、マリカ。この店の看板の億女。もう、うちらの顔そのもの。マリカ、この子体入やねんけど、ヘルプ中心に入ってもらうんで。経験者らしいからうまく使つこて」と小気味よく話して、せっかちな足取りでVIPルームを後にした。

ぽつんと取り残された二人は顔を合わせて、それぞれ顔にかかる髪を耳に掛け直し、苦笑しながら軽く会釈し合った。

「あの、はじめまして、マリカっていいます。ミナミ、マリカっす」少し低い声でその名を騙り、首を傾げた。「なんて呼べばいっすか?」

かつての自分とよく似た同じ話し方をする女に、さきほど与えられた名前を、思い出すように復唱する。

「カリナ」

マリカを名乗る女は目をみはってから、純一〇〇〇%の出て行った廊下を振り返り、それから何か納得した表情でもう一度こちらに向き直し「新しい、カリナちゃんすね」とせつなく目を細めて笑った。

(つづく)

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