
連載
第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

ファタールではタブレット注文で管理していたが、ユナーシュではキャバ嬢が直接黒服を呼ぶのだと教わる。つまり、黒服とうまく連携を取らないと売上を伸ばしづらいのだろう、ここは店の女の子たちと黒服たちの距離が近い。ファタールにいたころはマネージャークラスの黒服ならまだしも新人の黒服の名前なんて覚えなかったし、誰かを呼ぶときは「おい」だったり、そのまま「黒服」とか「誰か」と呼んだりしていたから、ユナーシュでキャバ嬢が休憩中に付け回しの黒服と気さくに話しているのが異様に思えた。
方針の違いはそれだけでなく、シャンパングラスに氷を入れることが許されていた。氷を入れることに客の賛否はあるけれど、場内やドレスを吐瀉物で汚すくらいならこのほうがマシという考えらしい。ファタールでは氷禁止でどんどん飲め飲めですぐに潰れて、むしろ吐き戻してからが本番、みたいな空気すら漂っていて、歌舞伎町のマリカも今までそれを疑ったことさえなかった。
「カリナちゃん、ヘアメはしてきたんすか?」
ロッカールームで持参してきた黒いミニ丈ドレスに脚を通していると、着替え中でもかまわず北新地のマリカがドアを開けて入ってきた。カリナは急いで脇のファスナーを締め上げる。こちらに越してきてから激安通販で買ったものだ。伸ばしきれていない腹のあたりの深い畳みジワを、歌舞伎町時代に私物として使っていたヴァレンティノのポシェットで隠した。
「自分で軽く毛先巻いてきたんだけど——巻いてきたんですけど、野暮ったいですか?」
「あ、ぜんぜん、ぜんぜんタメ口でいいすよ。わたしどちらかというと後輩力が強いみたいで、敬語使われるほうがむずむずしちゃうんで。髪型、お店の雰囲気にも合ってるっす。このあたりのお店ってギャルやかわいい系より美人系の子のほうが受けがいいし」
カリナはマリカを睨みそうになり、視線を伏せる。お人形系のヘアメイクやファッションに体育会系の口調。どこをどうとっても三ヶ月前まで歌舞伎町にいたマリカ——自分そのものであった。彼女の幼い雰囲気と相対すると、自然と口から出る言葉が投げやりに解けてしまう。
「じゃあ、タメ口にする」
ようすを窺うようにカリナが北新地のマリカを見上げて言うと「いいっすね。カリナちゃんって綺麗で迫力あるから、タメ口のほうが親しみやすいかも。てか、靴もかわいいっすね、ジミーチュウとか?」
「あ、これ」カリナはジミーチュウの靴を一歩前に出した。「足首固定されるから、すっぽ抜けなくて」スワロフスキーのアンクルチェーンを外して靴を脱いで見せると、ソールのロゴ部分に灰色に濁った足ツボゲルインソールが剝がれ落ち、マリカの足元に落ちた。すみません、としゃがみ込んでリノリウムの床からそれを剝がしていると、いやいやいや大丈夫なんで、と北新地のマリカはかろやかに笑った。
「わたしも、この前すっげえ金持ちの卓着いたときに、超張り切って、バカほど胸盛って盛って盛りすぎて、客の前で屈んだらシャンパングラスの上にヌーブラボトボトボトッて落としちゃって、酒も乳もぜんぶこぼしたんで、それに比べたらぜんぜん余裕すね」
「あ、マ、リカさん、て」かつての自分の名前を呼ぶ。ちゃんと口の動きがすべらかなのか不安だったけれど、このぎこちなさを言葉で押し通した。「大阪弁じゃ、ない」
「あ、わたし、出身このあたりじゃないんすよ。関東。千葉っす」
北新地のマリカは笑いながら、自分のロッカーから硬水のペットボトルとウコンドリンクを二本出してブルーグラシエのピコタンに突っ込み、まずはウコンドリンクのほうから軽くのけぞって一気に飲んでしまう。酒じゃないものでも、つい液体物をすぐに一気してしまう癖まで共通していて、心臓がぐっと固まる感覚がした。
「都内で働いたことは?」
「夜は、ないっすね。大学行ってたんすけど、中退して都内の美容の専門出て、すぐ北新地来たんで。なんか自分のまったく知らない世界のほうがいいかなって。関東のひとって都内に対してそんなに思い入れなくないですか? とおきょお、どーん、みたいなイメージ、正直なくて」
「わかんなくもないけど・・・・・・でもわたし、夜の歌舞伎や六本木にはじめて行ったときは、わー、って思ったかもっす」
マリカだった頃の後輩口調が漏れ出て、カリナは我に返って今のマリカに対し「思ったかも」と言い直す。なぜ言い直す? カリナは自問してみるけれど、自分に対して何ひとつ答えられずに問いっぱなしで、立ち尽くした。
二本分のウコンドリンクを一気に飲み干し、特段カリナに反応することなく、マリカはアンパンマンの刺繍がされた生成り色のガーゼタオルで、濡れた口の端を軽く拭き取った。
ロッカールームから狭い廊下に出て、マリカは「藤田くーん」と声を上げると、キッチンのほうから黒服が小走りでやってきた。マリカは空いたウコンドリンク缶を藤田に手渡し、ついでにカリナ用の空名刺を数十枚持ってくるよう、手際よく彼に指示を出した。
か細い腕に提げたピコタンから取り出したリップグロスを塗りながら、こちらを振り返って「ねえ、カリナちゃんも関東からっすよね?」と、微細に偏光するくちびるで微笑んだ。
「同じ関東人としてアドバイスさせてもらいますけど、みんなに馴染もうとして似非関西弁で話さないほうがいっすよ」
「え? なんか、その方が心が近づいてる感じするのに」
「下手にやるとかえって機嫌悪くなるんで。ここに来る客だけじゃなくて、みんなそう」
「でも、まあ、たぶん真似しようと思ってもできないと思う。大阪来たことあるのほんと片手で数えられるくらいで、馴染みないから」
「や、そういう話じゃなくてですね」マリカは前のめりになって、カリナの冷たい手を取る。長めのスクエアで整えた白とピンクのシンプルなフレンチネイルまで、かつての自分にそっくりだった。「関西弁がどうこうじゃなくて、自分が周りとちがう言葉で話してるってだけで、何かすごく、ぽつーんって感じ、さみしくなってくるんすよ。ここはなんでも楽しいし、近くのお店もおいしいとこいっぱいあるし、純社長もあんなかんじでコッテコテであったかくて、周りの話に素直に付き合っていると、つい弾みでこっちも似非関西弁になりそうになるけど、ぜったい、ぜったいだめ。超然としていないと、だめっすから」
「超然?」
「こう、なんていえばいいんすかね、どんだけ波がザパザパきても、崖みたいにちゃんと立っていなくちゃっていうか」
かつての自分と同じ顔と名前の人間が自分の知らない言葉を話すから、ようやく、目の前の相手は自分ではない別人なのだと思えて、急に緊張が解けてきた。カリナは崖を見たことがない。マリカのときも、マリカになる前からも、地元の川や港や砂浜にはたくさん行った。だけど切り立った崖から足元の荒波を覗いたことはない。このマリカは、どうしてその有様を知っているのだろう。でも、わたしだったマリカではない。崖を知っているマリカだ。それでは、わたしは? わたしは、崖も知らないまま、きっと川で足を滑らせてそのまま死んだ、もうマリカではない、カリナと名付けられた、何か。
カリナにぼんやりと見つめられたマリカはその視線を取り払うように、とにかく、と言い直す。
「そのままでいるのってすごくむずかしいっていうか。みんな、よそ者だから愛してくれてるってこと、忘れちゃだめっすよ。それしかないんだから、わたしたちっぽさって」
(つづく)

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第一夜
児玉雨子
1 今月あんたの肝臓になったるから負けんな、と扉越しに声をかけられ、便器に座っていたマリカは顔を上げた。今日のヘアメイクでは髪をアップにして固めてもらっていたので、そのまま引っ張られている方向に首を任せるようにすると、勝手に視線が上がって、姿勢も正される。「よゆうっすー」マリカは立ち上がり、薄い尿を見おろす。何十万円もかけられたシトリン色にきらめく酒も、この体を通るとその値段をすっかり吸い取られて

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第二夜
児玉雨子
2 Kyrieに連れられてマリカは店の外階段に出た。階段に座ったKyrieに隣に来るよう促され、マリカもミニドレスのまま階段の上に並んで座った。隣のビルのキャバクラやスナックの看板の光を見下ろして、ミニドレスの化学繊維でかゆい脇腹を搔きながらおだやかな夜風に当たる。夜風といってもビルの排気口や室外機から出てきたぬるくて埃っぽいものだけど、風は風だった。 「ほんとに、北新地で働いてなかった?」 アイ

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第三夜
児玉雨子
3 空っぽの部屋の中ではじめに組み立てたのは、ドレッサーだった。以前はLEDシートを貼った手作りの女優ミラーをデスクに立てかけてそのまま使っていたので、今回の引越しを機に新調した。電動ドライバーの音がめいっぱい鳴って反響するたび、今ここに助けてもらえるような知り合いはいないんだぞ、と耳元で叫ばれているようだった。そうして組み立てた大理石模様のドレッサーのスイッチを押すと、鏡の縁に内蔵されたライトが

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第五夜
児玉雨子
5 店の住所が印刷された白い空名刺に、澪標カリナ、と手書きの名前とラインのIDを書き込んでゆく。 体入したその夜のうちに入店が決まった。翌日の昼過ぎ、ウォーキングがてら中之島周辺を散策していると、淀屋橋の欄干にあった市章が目に入った。写真に撮ってChatGPTに訊いてみると、数秒ほど思考の沈黙があって、みおつくし、という名称を返答した。澪標/身を尽くし/身を突く串——ずらずらっと出力されるその由

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第六夜
児玉雨子
6 便器に溜まった尿を覗く。大阪に来てはじめてのシャンパン尿だった。今夜は上林のおかげで、ユナーシュに来てからやっとシャンパンが二本——のベルエポックが一本と、その後に来た客が場内指名を入れてきて、この店では最低金額だが六万円のものが一本空いた。 派手なネイルを施した爪の先でトイレの流しボタンを押すと、合計一六万円が音を立てて下水道に流れてゆく。高級ブランドを買ったり貰ったりするよりも、この瞬間

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第七夜
児玉雨子
8 エレベーターの扉が開くと、スーツを着た若い男がこちらを見るやいなや、向こうで固まったまま突っ立っていた。エレベーター内の鏡で施術後の肌を眺めていたので、到着までにマスク装着が間に合わなかった。カリナは俯きながらも目だけぎょろつかせてこちらを見つめてくる男に舌打ちして、早歩きで堅牢なエレベーターから出る。ビルの外に出てから、バッグの中に折りたたんでいたマスクを耳にひっかけた。顔の下半分と首の点状