山田邦子から黒沢かずこへ。「女芸人」映画の系譜
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山田邦子から黒沢かずこへ。「女芸人」映画の系譜

黒沢かずこにDIVAを感じて

ゆっきゅん DIVAを語る上で必ず話しておきたいテーマがあって、そのひとつが「女芸人」だったんです。私は子どもの頃から「女芸人」が大好きで、彼女たちにDIVAを感じて生きてきました。そのなかでも一番DIVAを表現していたのが森三中の黒沢かずこなんです。

「千手観音かずこ」っていう黒沢さんのペルソナがあって、倖田來未の『キューティーハニー』とかMISIAの『Everything』とかをスパンコールのついたDIVA衣装で即興的に替え歌をして、踊ったり歩き回りながら場をかき乱す。DIVAのモノマネ、カリカチュアで圧倒する、ドラァグクイーン的な見せ方ですね。「テキトーハニー」と呼ばれてました。千手観音かずこは、私にとって絶対に忘れちゃいけない存在なんです。私が特にテレビを見ていた00年代は、今よりももっと「女芸人」は飛び抜けていないと活躍できなかった時代だったと思うんですけど、黒沢さんはやりたい放題やっているようにみえました。

黒沢さんって計り知れない存在なんですが、「歌手になりたい」とか「アイドルになりたい」とかいろいろな自分をうちに秘めていて、少女漫画にも憧れを持っている。少女漫画の乙女チックなロマンティック・ラブ・イデオロギーって「ドジでノロマで目立たない私」をクラスで1番かっこいいイケメンが見つけてくれる、というかたちをとるわけですけど、そういう10代の子が読むような少女漫画をずっと読んでいるらしいんですよ。

ドリカムとか広瀬香美とかJ-POPのラブソングも大好きで、歌手の理想像も持っていて『イイ女には運がある』って名曲を作詞・作曲しています。そういう無数のペルソナのうちのひとつが千手観音かずこなんです。

テレビの収録に彼女が登場すると、みんなが「なんなんだ!」とざわつくのが、いかにもDIVAが現れた感じがして、すごくかっこよかった。私は憧れて、黒沢さんは毎回テキトーに歌っているのに、それぞれの出演回を完コピしていました。いま自分がやっているDIVAも、千手観音かずことあんまり遠くないとさえ思っています。

そして去年、神保町シアターの「うたと映画」特集(2025年5月31日〜6月27日)で『君は僕をスキになる』(89年、渡邊孝好監督)を観たら山田邦子さんが出ていたんです。私は女芸人としてリアルタイムで観た記憶は薄いんですけど、この映画の山田邦子に女芸人の立ち位置とか背負わされている役割みたいのが如実にでていて、切なさを感じつつ、いい演技だと思ったんです。

「君は僕をスキになる」DVD版
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調べてみたら山田邦子主演の『山田ババアに花束を』(90年、大井利夫監督)も配信されていました。どちらも山田邦子本人役じゃないんだけど、山田邦子のキャラクター、女芸人としてのキャラありきでキャスティングされている感じがしたんです。それで、山田邦子とその映画について話してみたいな、と思いました。

「山田ババアに花束を」DVD版
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五所 虚を突かれた思いです。私、山田邦子のことをずっと考えないでいた、と気づきました。まず断っておきたいんだけど、私もゆっきゅんも、「女芸人」とくりかえし言うと思うんです。これまでの2回も「女優」と言ってきた。近年、「女優」は「俳優」に、「女芸人」は「芸人」に呼び替えられるようになった。それは、ジェンダー平等の観点から、「これから望まれる社会のあり方」に「女優」「女芸人」という呼び名はふさわしくないという考えからですよね。

ただ、望むと望まざるとにかかわらず、「芸人」/「女芸人」、「俳優」/「女優」という区分のうえに築かれてきた歴史がある。「女」「婦」「母」がつく職業には、ソフトに立ち回る技術とか性的な魅力まで、ひとつの職能として求められたケースもあった。職業名から「女」を一面的に消してしまうことは、その痕跡さえ失わせてしまう気が、私はする。

「女」の職業があった。「女」として求められた。そこで応じたり悩んだり抗ったりした女性たちがいた。その痕跡がうかがえる限り、私は「女優」と書き続け、今日も「女芸人」と言う。これは先に言っておこうって思いました。

ゆっきゅん うんうん、そうですね。そして、まずはリアルタイムで観ていたはずの五所さんに山田邦子の記憶を聞いてみたいんです。

山田邦子のCITY感覚

五所 ゆっきゅんに言われて、山田邦子が頭から離れない、という思わぬ日々が続きました。そのなかで「そっか、私は幼少期、山田邦子のことがめちゃくちゃ好きだったんだ」って気づいたんですよ。

世代的には、山田邦子が出演していた80sフジテレビ系の伝説的バラエティ番組『オレたちひょうきん族』(81〜89年)の滑りこみ世代で、好感度ナンバーワンタレント時代の山田邦子の冠番組『JOCX-TV PRESENTS 邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(89〜92年)も、山田邦子主演の映画2本も、当然のように観てたんです。

あとで話に出ると思うけど、黒沢かずこ主演の『クロサワ映画』(10年、渡辺琢監督)には、海外ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』(98〜04年)を模した、女芸人4人が横並びに歩く場面がある。あれを見て、「これって10年代だからできたんで、山田邦子がテレビでメインを張っていた時代はできなかったよなあ」って思った。

もちろん当時も女芸人はいたけど、人数もテレビ出演数も少なかったし、女芸人がそれぞれの芸風をもったまま横並びになるという構図は、今ほど自然に成立しなかったと思う。山田邦子が「格が違う」とか「いちばん偉かった」という話じゃないよ。むしろ、比較する相手がいないこと自体が、山田邦子の特殊性だったのかもしれない。

たとえば少し年上の関西勢、上沼恵美子や今いくよ・くるよのような演芸場の匂いが、山田邦子にはなかった。山田邦子は、モノマネも司会もCM出演も歌も、映画出演も、なんでもやる存在だった。芸人という職能をひとつの場所で磨き上げていくというより、テレビのなかの複数のジャンルをひとりで横断していく。それが田舎で暮らしてた私には、すごく都会的に感じられたんです。

ゆっきゅん そうなんですね。マルチタレント的な。

五所 うん。山田邦子が売れていく発端って、モノマネなんですよね。芸能人のモノマネもするんだけど、「あるある」的な観察ネタもやってた。バスガイドとか、おじさんとか主婦とか、街にいる名もない人たち。職業特有の身振りとか、生活のなかに現れる仕草、口調、癖を拾って、モノマネにしていく。

コロッケによるちあきなおみ、清水アキラによる淡谷のり子のモノマネは、特徴をとんでもなく誇張したり変形したりするんだけど、モノマネを通じて、その人間性を取り出そうとしているように私には感じられた。それに比べて、山田邦子は、その人の表面に現れている情報というのかな。その人を社会のなかで識別させている特徴をすばやく拾って組み合わせる。モノマネを通じて人を情報化する。

人間って、古くて深刻で重ったるいじゃないですか。幼少期、人間に疲れていた私には、山田邦子の芸風は、人生の重みや演芸の伝統がまとわりついてなくて好ましかったんです。

ゆっきゅん 軽めだった。

五所 そう。軽さがすごく洒落てみえた。NTV系午前中の主婦向けワイドショー『ルックルックこんにちは』の水曜日に「女ののど自慢」(79〜01年)という、一般公募の中年〜壮年女性の波乱万丈な半生を紹介したあと、本人が一曲、おもに演歌を歌うという番組が放送されてたんだけど、その野暮ったさの対極にいるのが山田邦子だって感じてた。

ゆっきゅん なんか、ドロッとしていない印象がいまでもある気がします。テレビの「女芸人」を切り開いた人でレジェンドなんだけど、あんまりレジェンド語りしたがるタイプじゃないっていうか。

ICONIQ、よかったのに!

五所 レジェンドといえば、山田邦子が1986年に一度、坊主頭になったのも衝撃的だった。円形脱毛症をまぎらわすためだったとも、時代劇でカツラをかぶりやすくするためだったとも今では言われてるけど、当時は、パンク風の大胆なイメージチェンジなんだと私は思ってた。痛々しさを感じなかったんですよね。

女性の坊主って、仏門に入る、罰せられる、屈辱を受けるというイメージがつきまといません? 家田荘子や瀬戸内寂聴、小川眞由美のように、波瀾万丈な経験をしたあとの得度。峯岸みなみの謝罪のための坊主。ナチスによるユダヤ人女性の剃髪を連想したりもする。映画なら、『裁かるゝジャンヌ』(1928年、カール・Th・ドライヤー監督)のファルコネッティや、ジャンヌ・ダルクを思い出したり。

ゆっきゅん 私的にはブリトニー・スピアーズの丸刈りが衝撃的でした。

五所 そっか、ブリトニーもそうだ。パパラッチに追われるなか、美容室に入って、自らバリカンで髪を刈ったんですよね。パパラッチへの反抗だったけど、精神的な脆さが滲んでいて、なんだか痛々しかった。あとは00年代末〜10年代初頭に資生堂「MAQuillAGE」のCMソングを歌っていたICONIQ……。

ゆっきゅん 最初韓国のアイドルグループの一員としてデビューして別名でいろいろと活動していた人が、名前を変えてベイビーショートというか坊主にしてavexが社運をかけてデビューさせた。『Change Myself』とかを歌っていたけど泣かず飛ばす……。でも私は大好きでした。

五所 そうそう。ICONIQ、よかったのに! だからICONIQが登場するまで、私のなかの「痛々しくない坊主」は山田邦子だけだった。その後、テレビ特番『最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学 スペシャル』(07年)がきっかけで山田邦子に乳がんが発覚して、闘病する。髪を刈るとか、病気を公にするとか、人生の衝撃的な局面をテレビやマスコミで見せているのに、山田邦子はそれを「女芸人が苦労を乗り越えてきた」というキャリアの物語にまとめあげることをしない。それが珍しいなと思って。

ゆっきゅん ああ、自分で自分の人生を物語に仕上げない。エモがらせない、泣かせない。自分を歴史化しちゃわないってことですね。

五所 うん。ビートたけしは映画が評価されることでステータスに箔がついたし、片岡鶴太郎も俳優、ボクシング、絵画と別の領域からステータスを引っ張ってくる。明石家さんまは逆に「お笑い一筋」という物語がステータスになってる。一方、山田邦子って、お笑いの歴史に必ず刻まれる人なのに、別の領域から引っ張ることもないし、物語を積み上げてもいない。ついでに言うと、たけし軍団や関西勢のような「村」がなくて、ひとりでいる感じもする。だから、生涯を「朝ドラ」(NHK「連続テレビ小説」)にするのは難しいんじゃないかな。そういう軽さ、軽妙さ、軽佻浮薄さを貫くところがレアで、かっこいい人だなって思いますね。

迷走のバブリィ日本映画

ゆっきゅん で、『君は僕をスキになる』なんですけど、バブル期というか、80年代中盤から90年代の日本映画って本当に迷走していましたよね。2年前に神保町シアターで90年代邦画の特集があり、まだ映画史の中でも位置づけを十分に検討されていない感じの作品群でした。90年代の名作は80年代以前に名作を発表している監督のものが多いような気もして。その特集で初めてこの映画を観たんですが、企画が秋元康、脚本が野島伸司というテレビのロマコメドラマっぽい布陣で、劇中に山下達郎の『クリスマス・イブ』が流れることを含めてJ-POPっぽい企画センス。

五所 当時のテレビやマスコミが主導してた流行や恋愛文化を追いかけて作ったみたいな映画ですよね。山田邦子、大江千里、斉藤由貴というキャスティングセンスにもそれを感じる。「テレビの人たちが映画に出ている」っていう違和感を、当時も拭えなかったし、たぶん私は今でも拭えてない。当時のテレビの感触を知らないゆっきゅんが観たら、どう感じるんでしょう?

ゆっきゅん やっぱテレビドラマっぽい映画だなとは思います。今更、映画とドラマに優劣をつけるつもりはないんですが。こういう感じの雰囲気とか感受性は好きだけど、それは映画であんまり摂取してきた成分じゃない感じがする。自分はJ-POPが好きで歌詞を書いているけど、J-POPの歌詞って全然映画っぽくないんですよね。黒沢清みたいな歌詞ってないですよね。「クリスマス」「結婚」とか身近な悩みとか、視聴者が共感できるよくあるシチュエーションを等身大に描く。それは映像でいえば、映画よりもテレビドラマ寄りですよね。『君は僕をスキになる』もそっちっぽくて映画っぽくない。こういう世界観って好きなんだけど、「映画でもやってたんだ」みたいな驚きがあって。

テレビドラマではなかなか見ない映画的なカメラワークを一生懸命やっていたり、二つの文化がせめぎ合っているんだけど、テレビドラマ成分が優勢な感じ。映画っぽい観方じゃない観方を求められる映画、というか。だからわざわざ取り上げたい気がしたんです。

五所 「都市を広告のように消費して遊ぼう」という時代の感覚が、まぶしいですよね。加藤雅也(旧芸名:昌也)と大江千里は大手化粧品メーカーの宣伝部、山田邦子も同じ会社に勤め、斉藤由貴だけが図書館勤務。オープニングで、タキシードをはだけた男2人がヘリコプターから都市を睥睨してシャンパンを撒き、その下には公園で飲み会をやる女2人がいる。そんなふうに最初から高低差が描かれているのに、映画のなかでは上下関係も階層性も問題にならない。

「いかに深刻さを避けるか」が、あの時代の倫理だった。というか、この映画が体現する倫理はそうですよね。それが約30年後の今ではすっかり様変わりして、「いかに深刻に受け止めるか」が倫理になってる。ずいぶんな反転ですよね。

ゆっきゅん それに今から見ると疑いのなさが、すごいんですよね。登場人物の疑いのなさと、観客への疑わせなさ。例えば、加藤雅也のフィアンセに選ばれるための「ステディオーディション」の候補の女性が化粧品会社に何人もいる。みんな選ばれることを望んでいる。「私はいやだ」とか「違う」みたいな価値観の人も一切でてこない。世界はそういうものっていう感じが揺るぎなく描かれている。でもそれをみて、イライラくる不快さがあるわけでもないくらいに軽くて。そんな世界で、山田邦子がフィアンセに選ばれて、周りにクスクス笑われる役。

摩擦なきバブリィTOKYO

五所 すべてがスムーズで摩擦がない世界ですよね。エントリーされて喜んでいるのは、「腰掛けOL」と呼ばれた女性たち。当時は「一流企業に入って夫探しをするのが規定路線」みたいな文化があった。現実にそこまで純粋な人たちがいたのかはわからないけど、若い女性をそう描くことが作法としてまかりとおってた。女性がブランド品を買ったり海外旅行に行ったり、好きなものを好きなだけ楽しむ「消費する主体」として発見されて、その「欲しい」まで売り物にされていく時代の気分に支えられてる映画だから、基本的に女性は悩んじゃいけないんだよ。

ゆっきゅん そう「悩んでいいのは恋愛だけ」な世界。山田邦子と斉藤由貴の友情はどんどん深まっていく。そして会社員を描いているのに不思議なぐらい仕事の悩みが出てこない。

五所 という以前に、山田邦子と加藤雅也と大江千里が勤めているのは化粧品メーカーじゃなくて広告代理店だと、私はついさっきまで勘違いしてたんです(笑)。職場は出てくるけど、業務がよくわからないから。

ゆっきゅん 図書館勤務の斉藤由貴だけ、なんの仕事をしているのか、かろうじてわかるっちゃわかる、という。

五所 浮世離れしてるんですよね。恋愛を除けば、どこにも葛藤とか疑いがない。だから話が堰き止められずに進んでいくのを清々しく観ていられるんだけど、そのスムーズさがちょっと怖くもあって。

ゆっきゅん スムーズだから孤独に観ている感じがあんまりしないっていうか、テレビで放映されて時間を共有している感じが、なんだかするんです。ドラマっぽいって言ったのはそこかも。

五所 最近、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画をまとめて観てたんですけど、風景のショットが続いて、すると意識が還流状態にグルグルめぐって映画の外へ出ていってしまい、しばらくして戻ってくる、ということがよく起きた。そういうことが一切ないんですよね。意識が途切れる隙もないほど、ツルツル進む。登場人物が考えなさすぎるから、むしろこちらがいろいろ心配してしまう。会社の勤怠管理は大丈夫かな、とか(笑)。

とにかくロマンティック・ラブというものに疑いのない世界で起こるラブコメが、この『君は僕をスキになる』なんだよね。イケてる男2人がいて、女2人はイケてない設定。

ゆっきゅん 斉藤由貴が超かわいいモテる女子で山田邦子はそうじゃなくて、みたいなキャスティングに思えるんですけど、斉藤由貴もイモ演技をしてイケてない側の設定なんですよね。

五所 斉藤由貴のイモ演技には目を見張ります。白石公子やヘミングウェイを読んだり、プリン焼いたり、斉藤由貴だけが奥ゆかしく文化の匂いを漂わせてる。それが加藤雅也にとっては「希少動物に出会っちゃった!」というわけで、斉藤由貴が犬に変身するトンデモ場面もある。

メガネもね。今はギークなアイテムとして、メガネをかけた顔そのものが「かわいい」になってるけど。当時は、一旦「かわいい」を曇らせておいて、それを外すと本来の「かわいい」が現れる、ギャップ萌えの装置だった。

ゆっきゅん で、最後に「女芸人」がかわいいメガネの女の子である友達、斉藤由貴にイケメンを譲るっていう選択をする話なんですよね。そこに「女芸人」ポジションが出ているし、切なさがある。

女芸人の「マジっすか」

ゆっきゅん そのわかりやすい切なさ、「女芸人」に対して求められる像が『君は僕をスキになる』の時代から変わらないまま10年代に至って凝縮されて作品化されたのが『クロサワ映画』だと思うんです。本人役で黒沢かずこ、椿鬼奴、オアシズの大久保佳代子、光浦靖子、が出演しています。

イケメン俳優に黒沢かずこが恋する。だけど、実はドッキリで。「女芸人」で集まればそれをエピソードトークにできるじゃん、みたいになる。さらに、もう一回恋するんだけど相手の婚約者が出てきて「どうしよう、どうしよう」とかなって、婚約者がいたくだりがまたドッキリでした、となる。

つまり「女芸人」は、テレビではふざけたことをやっているけど素顔は臆病で、プライベートでは好きな人の前で面白いことが言えない、とか。「女芸人」はイケメンに憧れるけど、叶わない恋で玉砕するものだ、とか。あるいは大久保さんや鬼奴さんの役は男と遊んでいる役ですが、さまざまに「女芸人」への世間からの期待が凝縮されている、とか。「女芸人」という言葉や、その自覚がめっちゃ出てくる映画です。悲しいことがあったなら笑い飛ばせ、笑い飛ばせ、笑い飛ばせ、笑い飛ばして乗り越えろ、「私は女芸人なんだから!」って言い聞かせる場面があります。

だけど、一個言っときたいのは、これって「女芸人」を描いた映画であって、黒沢かずこを描ききった映画じゃないってことなんです。黒沢さんってもっと予期できない破壊力のある人だから。テレビに出ているときの黒沢さんって、トークだけならまた別ですが、多くは架空の誰かを演じているんですよ。それが、台本を超えた芸になっています。その様子を描いた場面は『クロサワ映画』には2〜3か所しか出てこない。

五所  作家が女芸人のエピソードトークを拾い集めて、「オレたちが思う女芸人」を書いたように私は感じてしまった。それで、ちょっと痛々しくもなった。黒沢かずこが本人の一部を抉って演じるようなセルフパロディー形式をとりながら、「女芸人」に最も遠そうなロマンティック・ラブを女芸人が最も期待しているというアンビバレンス、それが女芸人の「素顔」である、という構えですよね。

「恋愛する黒沢かずこ」「バラエティ番組で女芸人として売り出される黒沢かずこ」「その二つを映画で演じる黒沢かずこ」。この三層構造で黒沢かずこをとらえて、各層を葛藤させ、それに対する黒沢かずこのリアクションをカメラが凝視する。

そこで出てくる台詞が「マジっすか」。女芸人はトラップを仕掛けられて「マジっすか」とリアクションしなければならない役割だ、という哀愁が描かれてるんだけど、でもこの映画自体が、女芸人の素顔を描こうとしながら、そのトラップを再演してるんじゃないかと思うんですよね。

ゆっきゅん ラスト、本気の恋心を抱いていたのにドッキリとわかって、一瞬「マジっすか」が出ずに無音になる。でも、今はカメラがまわっているから、プライベートより「女芸人」を優先してリアクションをとるべきだと咄嗟に判断して「マジっすか」と言う。私は「女芸人」に感情移入して生きてるので、もうほんとうに切なくなってしまって。

で、『君は僕をスキになる』の山田邦子は毎日小奇麗な服を着て「勘違い女」みたいな描かれ方をしている。イケメン、加藤雅也のステディオーディションで指名されてハッとするんだけど「実は自分のことが好きじゃなかった」ってわかって「マジっすか」とは言わないけどそういうオチになる。これもドッキリっぽいあらすじで。「女芸人って恋愛がうまくいくわけないでしょ」「いい話あるわけないでしょ」って役割が一緒ですよね。

五所  『君は僕をスキになる』で山田邦子は誰かに目撃してほしくて狂言自殺をやる。それをたまたま斉藤由貴が発見し、そこから友情が育まれる。これ、今だと山田邦子は「メンヘラ」って言われると思う。だけど深刻さを避けることが時代の倫理だから、そこは深く掘られないし、「イタい女」であることも引きずらない。

多幸的なバブルが弾けた後、女性たちが自虐を生存戦略にする時代に入る。でもバブリィな当時は自虐をしない。あるいは「ビョーキ」というサブカルチャーが生まれたように、自虐は影の文化だった。シャルル・プリニエの『醜女しこめの日記』という50年代の日記形式の小説があるんだけど、本当は誰もが1冊ずつ「醜女の日記」を書いてたんじゃないかな。時代が移り、自虐という生存戦略を笑いのネタにしながら、その奥にある切実さにも手を伸ばそうとしたのが『クロサワ映画』だったんだと思う。

そう考えると、『君は僕をスキになる』の頃は、世間は「女芸人」の生態にそれほど興味をもってなかったし、自虐という女性の生存戦略や自己表現も浸透してなかった。むしろ加藤雅也にステディ指名されることで、着飾り、洗練され、社会的に武装していった。

オールドミスは私のDIVA

五所 ただ、山田邦子のファッションが洗練されていくのは、「腰掛けOL」じゃなくて、嫁入りを狙っていない、キャリアOLの方向なんだよね。ロマンティック・ラブの信奉者像とは少しずれていて、仕事での立場を確立していく女性像。そこに「オールドミス」(婚期を過ぎた未婚女性を指す和製英語)のイメージが重なって、「ああこれ、加藤雅也と結ばれないな」って感じさせる。私は子供の頃から、オールドミスという存在が好きだった。だから私は『君は僕をスキになる』の山田邦子にも好感を持っていたんだとも思う。もう一本の『山田ババアに花束を』でも、山田邦子はオールドミス役ですよね。

ゆっきゅん 私の時代には「オールドミス」って言葉は、社会認識が変わって、もう使われなくなっていました。

五所  かつてのオールドミスの典型的なイメージって、職業でいえば、教師、看護師、作家。性格的には、神経質でヒステリック、子供が嫌いで、性的魅力に乏しくて、男に飢えている。語源的には「年をとった少女」から転用されていったみたいなんだけど、そっちのほうが素敵だなと思ったりする。山田ババアはそれら全部盛りですよね。

ゆっきゅん 私の場合は、00年代のテレビドラマに出てくる篠原涼子、稲森いずみとか山口紗弥加みたいなひとたちが好きでした。『anego』とか『サプリ』とか楽しみに見てましたね。ライフステージの変化に対する不安も迫っているなかで、仕事も本気で後輩が現れて恋人がいて、とか当時のドラマでOLは「恋に仕事に大忙し」で。「33歳は女の人生の曲がり角!」と言われていた時代で、05年に稲森いずみ主演でカンテレ系『曲がり角の彼女』というドラマもありました。アラサーという言葉のできる少し前。

五所  私が「オールドミス」を好きだったのって、収まりながら収まりきらないところなんですよね。手に職をもって自分で生きてる。社会的には自立してるのに、「少女→妻→母」という一般化された女性のライフコースからは外れてる。自立してる落伍者。そこに、かっこよさと、そう見なされることへの義憤が同時に湧いてくる。私にとっては「魅力的な負」だったし、そこに自由があるような気もしてた。

そう思うと、『君は僕をスキになる』の山田邦子ってやっぱり面白い。バブリィな時代の日本で「クリスマスを恋愛の締め日にする」みたいな文化慣習が生まれて、それが若い世代の強迫観念にまでなっていた。そんな世界に置かれたオールドミスです。引っかかるよね。

ゆっきゅん 今年の夏に早稲田大学演劇博物館の「千変万化する恋 日本のロマンチック・コメディ映画の輝き」という展示に行ったら、『君は僕をスキになる』を、クリスマスイブを恋人と過ごす幸せを最初に描いた映画って紹介していて、「そうなんだ!」と思ったんです。

五所 ラブコメって、組み合わせの妙を込めて、人物を「つがい」にして適材適所に収めていく話だよね。で、クリスマスという締め日までに、誰も余らないように収めていくのがこの映画。ストーリー上は収まってる。だけど私には、オールドミスの山田邦子だけが余っているように見えるんです。いやむしろ、山田邦子のほうがラブコメやロマンティック・ラブを余らせる存在として出てきた、という感じさえする。そういう意味では、オールドミスの山田邦子は私にとってDIVAかもしれない。

山田ババア、「あんたがDIVAよ」

ゆっきゅん  『山田ババアに花束を』は『君は僕をスキになる』の翌年公開の作品です。同時上映が大江千里、島崎和歌子主演の『スキ!』(『君は僕をスキになる』と同じ渡邊孝好監督)だった、ということも押さえておきたいです。

五所 これって、花井愛子の小説に、折原みとがイラストを描いたラノベが原作ですよね。

ゆっきゅん そうなんです。山田邦子の役柄は名門女学院の女性教諭で生活指導担当。ものすごく口うるさくて生徒に厳しい。みんなから嫌われて「山田ババア」と呼ばれている先生。女学院の生徒たちの中心的存在が西田ひかるで、この二人の中身が入れ替わっちゃうというコメディ。

五所  山中恒の児童文学『おれがあいつであいつがおれで』、その映画化の『転校生』(82年、大林宣彦監督)や、新海誠監督のアニメ『君の名は。』(16年)みたいな入れ替わり物語。その年齢の離れた女性同士版というか。

ゆっきゅん 舘ひろしとガッキーが入れ替わる『パパとムスメの7日間』(07年)というTBS系のドラマもありましたよね。私が面白いなと思ったのは『転校生』も『君の名は。』も入れ替わるのが男女ですよね。このジャンルって男女が入れ替わる話が多い。だけど『山田ババアに花束を』では女性同士なので、男女のドキドキ感とかジェンダー差とか仕事の大変さを知るとかそういうのがないのが、異色な気がしました。

五所  やっぱり、深刻さを避けることが時代の倫理で……。

ゆっきゅん 「ああ、教師の仕事って大変なんだ」とかも一切ないんですよね。その分、お互いのナイーブな部分に触れてピュアな心を知る。「嫌な先生」だと思われている山田邦子、「不真面目な恋愛をしている女子高生」と思われている西田ひかるが入れ替わって、それぞれ真剣に考えていて、心がある人間なんだってことを知る。山田邦子の心の中に西田ひかるが入って、『キューティーハニー』(04年、庵野秀明監督)の市川実日子みたいなメガネをかけた典型的な堅物教師が、素直に乙女心とかを表現できるようになる、っていう展開が面白いなと思いました。

五所  西田ひかる演じる裕福な家の不良お嬢様は、じつはキスさえしたことがないウブな女子。そこに「メガネ美少女」とは逆のギャップ萌え展開があるんですね。近年、恋愛は敬遠されてきたこともあって、一大事をすべて恋心に集中させるやり方には、かえって迫力を感じました。

私がこの映画で一番好きなのは、ディスコで山田邦子がダイアナ・ロスみたいなファッションで踊るシーン。

ゆっきゅん すごくマジメな先生の心に西田ひかるが入って、「今日はディスコに行って踊ろう」って同居している母親、野村昭子を連れてディスコに行って踊るんですよね。内面は10代の女子高生だけど山田邦子の体だから非行じゃなくなる。そうしたら母親がディスコでダンスにハマっちゃって家でも踊るようにまでなる(笑)。

私がこの映画でDIVANESSを感じた場面は、結婚式。「内面西田ひかるの山田邦子」が、真正山田ババアの昔の日記を読んで、お見合い相手が昔恋した忘れられない思い出の相手だと知る。そして、良かれと思って結婚するんですよね。結婚式をしていたら「内面山田邦子の西田ひかる」が止めに入る。「内面西田ひかるの山田邦子」は「今でも愛してるならはっきり言えばいいじゃん!」と言うんですけど「内面山田邦子の西田ひかる」は「30過ぎて、愛してるもないでしょ」って応える。そこで「内面西田ひかるの山田邦子」は「そんなこと気にするの? 山田ババアは、そんなこと気にするようなヤワなおばさんだった? 私たちをいつも怒鳴り散らしてるような山田ババアだったら! 山田ババアだったら!」って「内面山田邦子の西田ひかる」に吹き込む。

第一回でglobeのマークがKEIKOに「前代未聞ナンバーワン歌姫」と耳元で囁いて勇気づけたり、第二回の『Wの悲劇』で三田佳子が薬師丸ひろ子に「女優! 女優! 女優!」と叱咤して舞台に送り出すのと同じ。あんたは強い存在でしょ、あんたはもっとやりたい放題でしょ、「あんたがDIVAよ」って気づかせてあげるのがよかった。

五所  「山田ババア」って負の称号ですよね。だからこそ、「山田ババアのまま山田ババアを超えていけ」って吹き込む。「オールドミスのままオールドミスを超えていけよ」って。

ゆっきゅん そう。山田ババアは生徒たちを抑圧する厄介な存在にみえているんだけど、実は山田ババア自身がすごく抑圧されている。「自分はそんな自由なことしちゃいけない」とか思ってるから、他人に厳しい。自分の自由を許せないから、他人の自由も許さないわけです。入れ替わった西田ひかるがそのことに気づいて、山田邦子に「あんたがDIVAよ」って気づかせてあげる。

で、これは36年前の映画だからネタバレしますけど、その結果、山田ババアがメガネを外して「山田ババアを降りる」のがエンディングなんですよね。これ、山田ババアのままでは愛されないってことですよね。変で面白いままじゃ恋愛できないよって。そこで「うーん」となって。

五所  もったいないよね。ずっと固いシニヨンヘアだった山田ババアが、最後に髪をほどいてロングヘアをなびかせるショットがある。オールドミスのステレオタイプみたいなスタイルを、突如やめさせられてしまう。

西田ひかるはそのままで高嶋政伸とカップルになって、収まる。山田邦子も古尾谷雅人とカップルになるんだけど、ここでも山田邦子は役柄に収まっているように私には見えないんです。山田邦子は余ってる。いや、山田邦子が適材適所のシステムのほうを余らせてる。

女芸人もオールドミスも、収まるためにいるんじゃない。適材適所なんて知ったこっちゃない。余ろう。いや、余らせよう。

対談まとめ 寺岡裕治
(つづく)

(編集部より)
『君は僕をスキになる』は26年12月以降U-NEXTで配信予定です。
第四回で取り上げる一部作品は好評配信中です。一ヶ月後の更新に向けてぜひご覧ください。

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