
五所 対談をはじめるにあたって「いまのゆっきゅんがいちばんDIVA映画だと思う映画って何ですか? 私はフィリップ・ガレル監督の『内なる傷痕』(72年)です」とLINEを送りました。
「DIVA」という単語はもともとラテン語、それからイタリア語で「女神」の意味。それが「称賛される女性、女神のような存在」という意味に広がっていって「オペラの主役女性歌手」とか「魅力的で成功した女性パフォーマーや著名人」にも使われるようになった。
だからよく「歌姫」と訳されます。さらに発展して「自己中心的だったり、気難しい振る舞いを見せる歌手やパフォーマー全般」を指すようにまでなっていった。
ゆっきゅんはその「DIVA」という単語を独自の角度で使っている。
本連載のタイトルも、「DIVA」という名詞をデビューシングルで「DIVA ME」という動詞的な表現へと転じたゆっきゅんのブリリアントな発明にちなんで名付けました。
この対談では、そんな独自さを映画とともに掘っていこうというわけです。
ゆっきゅん 五所さんの質問を受けて、まず浮かんだのが『オープニング・ナイト』(77年、ジョン・カサヴェテス監督)でした。
これは歌手の映画でもないし、歌が歌われる音楽映画でもない。
だけど、自分にとって重要なDIVA要素って精神性なんです。
だから歌も歌手も出なくていい。しかし、バックステージもの、演劇の舞台裏映画ではあって、主人公は女優。
DIVAが放つ魅力的な精神性ってなに? と言ったら、私は「しぶとさ」だと思っているんです。
アイドル映画とか少女映画は「若さ」とか「儚さ」みたいな輝きを描くけど、DIVA映画が描きだす輝きは「立ち続ける人」の魅力。
DIVAはしぶとい。舞台に、そして人生に「立ち続ける人のしぶとさ」を最も表現している映画。それが、自分の中ではこの『オープニング・ナイト』なんです。

五所 『オープニング・ナイト』の主人公で、監督のカサヴェテスの妻である女優ジーナ・ローランズが演じたマートル、彼女がDIVAだってことですよね。
ゆっきゅん そうなんです。自分にとってカサヴェテスの映画の魅力は、中年の葛藤が描かれているところ。
大学生のときに初めて『こわれゆく女』(74年)を観て、作品は好きなんだけど「この監督、最高!」とまではならなかった。
まだ等身大で登場人物に共感できるわけではなかったのが、30歳手前くらいになって企画上映でカサヴェテス作品を何本か観たら初見だった『ラブ・ストリームス』(84年)にびっくりして、改めてハマったんです。
五所 びっくりしますよね。
ゆっきゅん カサヴェテスの映画には中年になって老いていく過程にありながら、大人になってもままならない人たちが出てくる。
年を重ねた人たちの、人生のリタイアできなさ、降りられなさみたいなものを描いている。そしてその人生が、落としどころがないまま続いていく感じを映す。
そこに、カサヴェテス映画の魅力があると思っているんです。
輝かしい頃だけが映画になったとて、この面倒な自分の人生は死ぬまで終わらないわけだから。
今回のDIVA、マートルの魅力もまさにそこにあります。
『オープニング・ナイト』は「年齢」いわば「エイジング」、そして「人に見られる職業の人物」の描き方が特に素晴らしいんですよね。
五所 老いても老いても成熟しきれない大人たち。たしかに「中年映画の最高峰」というぐらいの映画を、カサヴェテスは何本も撮ってますよね。
友人の葬儀帰りの中年男性4人組が、それこそ成熟してない面を露わにして、とんでもなくハメを外す『ハズバンズ』(70年)は何度もくりかえし見ちゃうし、同じジーナ・ローランズ主演の『こわれゆく女』、『ラブ・ストリームス』もすごい。
そして真骨頂がこの『オープニング・ナイト』かな。
見ようによっては、夫婦ものとして『フェイシズ』(68年)とか『ミニー&モスコウィッツ』(71年)もそうだとは思うんだけど、いっそう作品自体が完成に向かわないということを劇中劇として取り込んだのが『オープニング・ナイト』だと思う。
映画も人物も、ともに完成に向かわなさ加減がいいんですよね。
ゆっきゅん 登場人物たちを観て、おばさんやおじさんになっても別になにも変わらないよなぁ、みたいな感じがしたんです。
大人になってもそのままなんだよって。
五所 『オープニング・ナイト』の主人公、マートルは40代前半から半ばとおぼしきベテラン舞台女優。
彼女はブロードウェイでかかる演劇『ザ・セカンド・ウーマン』という作品で主役を張る。マートルが演じるのはヴァージニアという40代後半の女性。ある雨の夜、17歳の熱烈なファンの女の子が、マートルを追いかけてくるなかで車に撥ねられて死んでしまう。
そこからマートルは調子を崩していく。マートルは自分が演じるはずの戯曲に対して、違和感を表明しはじめる。劇作家のサラに異論をぶつけ、演出家にからみ、リハーサルを妨害するかのような様子を見せる。
しまいには酒を飲んで酩酊しちゃって、ブロードウェイの初日、まさにオープニング・ナイトにマートルは現れない。
さて、彼女は来るのか来ないのか、無事に幕が開くのか開かないのか、そんなサスペンスも弛緩的にありつつ、やっと開演時刻から30分ほど遅れて現れるんだよね。
今日、ゆっきゅんも遅刻したけど、マートルも遅刻する。
ゆっきゅん すみません……でも遅刻が大事なんだよね。

五所 そう、強調しておく。遅刻、めっちゃ大事! 今日はその話だけでもいいぐらい。
マートルが遅刻するっていうことが極めて大事。
ゆっきゅん 遅刻って結局、その場に来ているわけで、舞台は飛んでないわけだし。
って、遅刻擁護の対談みたいだけど(笑)。
五所 いや遅刻、めっちゃ大事だよ!
遅刻って、人をその時刻に割り当てられた役柄から一時的に脱落させる。遅刻した人もされた人もね。
そこに予定していなかった別の時間が侵入してくる。人をただの存在に戻すというかさ。
遅刻からが人生本番です。

ゆっきゅん うん、だって素晴らしくない人のために映画はあるんだから!
遅刻はめっちゃ大事。遅刻によって、観客としての待機の時間が長くなると舞台への期待も変わるわけだし。
遅刻しようが、笑われようが、しぶとく舞台に立ちつづける人がDIVAなんです。
五所 って、こういうふうにストーリーをまとめてみたけど。
カサヴェテス作品って何回まとめても、肝心なところを逃している気がするんだよなあ。
ゆっきゅん 要約しても意味ない、みたいな映画ばかりなんですよね。
『ジョン・カサヴェテスは語る』(レイ・カーニー編、ビターズ・エンド)というプレミア価格になっちゃってる本があるんだけど、そのなかでカサヴェテスはマートルについて「彼女は落としどころがどこにあるのか探すことに全力を傾ける……。落としどころだ。極力明解でなきゃならない。ところで、ぼくの好みは反落としどころだ。ぼくは落としどころが大嫌いだ。(中略)あまりにも当たり前のことを観客に説明しなきゃならないということは、ぼくにはしゃくにさわるからだ」と言っている。
だから、キャラクターをひとことで言い切れないし、あらすじを説明できたって思っても、やっぱり違うかも、みたいになりますよね。
五所 カサヴェテスって、ストーリーで人物を理解させることに強い不信感をもってる。
だから、あらすじをまとめると何かを取りこぼしてるとしか思えないし、『オープニング・ナイト』に顕著だけど、見逃してたところが毎回見えてくるから大変なんですよ。
ゆっきゅん たしかに。
好きな作品でも、鑑賞してみると毎回えっ、これ多分前は見れてなかったっていう瞬間があるんですよね。
五所 ディテールが豊富すぎてどこが中心かわからないし、見返すたびに聞き覚えのないセリフが現れて、自分は何を観てたんだろうって気分になる。
それに、たしかに年齢によって見え方が変わってきた。
さっきゆっきゅんが言ったことに重なるんだけど、私も18歳で観たときには気づいてなかったことがある。
劇作家のサラが書いた戯曲『ザ・セカンド・ウーマン』は、断片的にしか出てこないんだけど、そこから推測するに、いわば「若さだけが女性の価値じゃない! 加齢を受け入れて成熟してこ!」というメッセージが込められた、女性から女性へのある種の教育劇なんですよね。
その戯曲を演じるにあたってマートルは反感を示す。
マートルは若い女の子の亡霊につきまとわれてるし、自分の若い頃の幻影も抱えてる。
だから、自分より年を食った女を演じるのが嫌なんだ、というふうに18歳のときの私は読んじゃっていた。
マートルの反感の機微がわかってなかった。
ゆっきゅん そうか。私もつかめていなかったかもしれないです。違うんですよね。
五所 じゃあマートルはなにに反抗しているのか。
65歳の劇作家のサラは40代後半の女の境地を年下のマートルに突きつけてくる。
さらに舞台上のセットも高圧的なんだよね。80代くらいのギリシア人女性の巨大パネルが2枚掲げられてるんだけど、これを冒頭の劇中劇で、マートル演じるヴァージニアの夫役が賛美する。
この夫役をカサヴェテスが演じてるのが、反則というか出来すぎなんだけど、さておき。
女性の顔に刻まれたシミやシワ、つまり「老化の痕跡」こそ「年輪の美」であるということを夫役が滔々と説くわけだけど、これが大変に押しつけがましい。
ジーナ・ローランズにシミシワタルミの美しさを説くなんて夫であろうと百年早いと思うんだけど、「年輪の美」ってさ、誰が誰にどういう状況でいうかによって意味が変わる。
シミシワタルミが美しいことはたぶんマートルだって知ってる。
でも、夫役もサラと同じで、シミシワタルミを美化することによって、中年女性から自己肯定を無理くり引き出そうとしてるんだよ。
そんな自己啓発みたいな真似、やすやすと乗れるわけがない。
実際、年をとるってもっと複雑でしょう。
マートルには若さを失っていくことへの焦りがある。冒頭のモノローグで、マートルは17歳の頃にはもう戻れないって語りながら、その熱気の名残を惜しんでる。
ゆっきゅん そう、「17歳の頃は何でもできた」って言っていたのが印象的で、メモを取った箇所です。
五所 かつての熱気の感触を覚えながら、それが失われたという寂しさ。いや、それもまた豊かな手触りかもしれないけど、やっぱり喪失感はあるわけです。
それに対して、老いの理想像みたいな巨大な老婦人の写真がたえず舞台上のマートルを見下ろして、さらに夫役がその写真を腹話術人形みたいに使って「若さだけが女性の価値じゃない! 加齢を受け入れて成熟してこ!」って迫ってくる。
ただ、サラも夫役も、若さという強迫観念から女性たちを解放したいんだよね。ここが絶妙です。
でも「若さにこだわる女」から「老いを受け入れた女」っていう、年齢で意味づけされた物語に女性を押しこめてる。
だからマートルが反抗してるのは、加齢じゃなくて、加齢を物語ること。ひとつの年齢で語ることに反抗してるんだと思う。
マートルという女優は、年齢を重ねて老いに到達するという単線的なストーリーを演じさせられることに我慢ができない。
特に女性はさ、年齢と価値が密に結びつけられるから、ひとりの女の人生は「若さ」から「老い」へと向かう単線的な変化として思い描かれがち。
それに対して、マートルはめっちゃ混線した時間を主張してる、というか、生きちゃってるんだよね。
17歳だった自分、40代前半から半ばの現在の自分、役としての40代後半の自分、サラから想像させられた65歳の自分、写真が突きつけてくる80代の自分……。

ゆっきゅん 多分、自分が今まで演じてきた人物の年齢とかも……。
五所 全部入ってるよね。交通事故死した17歳の女の子も。
ゆっきゅん 全部背負っていると思う。
背負っているというか、全部がそこにまだ存在しているんだと思うんですよね。
五所 そう思う。その混線状態がマートルなんだよね。
人生が単線的なストーリーを持ちえないことを身をもって生きてる。
これはカサヴェテスが劇を嫌うっていう状態にも似てると思う。
で、マートルはその混線した時間を、単線的に整理された戯曲を演じる舞台上に持ちこんで攪乱しちゃう。
グッとくるのは、客席にいる演出家の妻。彼女はそれまでマートルと険悪なムードだったんだけど、舞台上のマートルにどんどん感化されていく。
マートルが抗ってるものの鬱陶しさは、同世代の彼女にもまとわりついてたんだよね。
混線時間はどんどん感染していく、観客にも、共演者にも。そして私にも。
卑近な話ですけど、私としては混線状態のほうが実感に近いんです。
ゆっきゅん うんうん。
五所 これはもう幼い頃から、自分のなかには5歳がいます、17歳もいます、30歳も、40代半ばも、60歳も80歳も。
さらに言うと、犬や牛やミシンもいるんだけど……。それが私の実感です。
いろんな年齢を経験するなかで、30歳が肉厚になってきたり3歳がふいに顔を出したり、それぞれの濃淡が変わったりするんだけど、ずっと混線したまま。
マートルはそれを体現してる。
ゆっきゅん 混線状態って複層性とも言えるかもしれません。
特にジーナ・ローランズの表情ってマートルとして生きている顔にしか見えない。
「悲しみ」「喜び」とか、こういうことをいま感じていますという、ひとつの感情に絞られた「わかりやすい表現」の顔をすることはない。いくつもの層が重なっていて、単純には読み取れない顔が写っている。
だから、演技にみえない。生きているように見える、というか。
だからこそ観客の誤読と登場人物内の誤解にも開かれていると言えるかもしれない。
観る側が年を重ねたりいろいろな経験をしたら、顔から伝わってくるものが変わっていくだろうとも思うんです。
私は早く年をとってカサヴェテスの映画をもっと観たい。
ゆっきゅん マートルって、他人の言葉に左右されない領域で葛藤を抱えていたり、年齢や役柄に苛まれている。誰かが説得したり慰めても、マートルにとっては「そういう話じゃない」ってなっちゃう。
自分が自分自身を納得できるようになる時を待っている、というか。
そこの納得ができないと舞台に立てない。たとえそれが自分の待ち望んだ納得の仕方ではなくても(納得しないままで立つという場合でも)、舞台に上がる決断を下すのは自分なんです。
「自分が納得できないと前に進めない」という部分がこのマートルのDIVAとしてのかっこよさだと思いました。
五所 それは端から見ると、ただの自分勝手に見えたりもする。
ゆっきゅん そうそう。人からしたら「そんなのこうすればいいじゃん」みたいなことでも自分の違和感とか、そういうの見逃さないから。
五所 マートルは自分勝手では終わらない。そこがDIVAの条件なのかなと思ったりもした。
劇中劇『ザ・セカンド・ウーマン』の最後のマートルの演技は、ただ悪ふざけしてるようにさえみえる。
マートルの夫役もそれに乗って「あはは!」「えへへ!」みたいな愉快な掛け合いになっていく。
1人の女優のご乱心だったものが、2人の俳優の共犯関係になって、俳優たちは舞台上で演じながら戯曲を書き換えてしまうんですね。
戯曲が予定であるとするなら、予定がぶっ壊れていくことに、共演者も観客もなぜかどんどん興奮していく。
予定をぶっ壊しているという点では困った人なんだけど、それによって周囲の空気や人々の意見を変え、しまいには感激させもする。
そんな出来事を起こせた人をDIVAと呼ぶのかな、とも思った。
でも、予定をかきまわすことが感激を生まなかったら、ただの自分勝手にすぎないんだろうか……。
ゆっきゅん マートルが期待されていたものではないことを舞台上で続けていって、興奮していく観客もいれば「見てられんわ」と言って出ていく人もいる。
私は、「もういいよ」と思われながら、続けている人が好きなんです。
「一番輝いている時期」「一番美しい姿をみせられる時期」はすでに過ぎ去って行ってしまったかもしれない。
けれども、そこに立って、立ち続ける人。「まだやってんの?」みたいな姿が、実はすごくかっこいいものだと思っています。
かっこよくなくなってからの姿を見せてくれるなんて、なんてかっこいいんだろうと。

だって私たちの人生はかっこついたまま終わらない。
さっきの遅刻しながらしぶとく舞台に立つマートルのこともそうなんだけど、「立ち続けるしぶとさ」がある人のことを私はDIVAだと言いたいです。
例えば『ブラック・スワン』のラストのように死んでしまってはダメなんです。
ゆっきゅん マートルの制御不能な泥酔演技をジーナ・ローランズがお酒を飲まずに演じているとしたら、おそらくとんでもなくすごいですよね。
マートルがブロードウェイでの初日、脱走からやっと帰ってきて、赤い服を着て、舞台裏に立ったところからがめっちゃ好きなんです。
仁王立ちでタバコを吸って。他のカサヴェテス作品はわからないですが、これはジーナ・ローランズ、素面な気がするんですよね。
そして、酔ったマートルが千鳥足で歩く姿がかなり執拗に撮られている。そこがいい。
「それでも舞台に立たなきゃならない」「それでも人生は続いていくんだ」ということを描写しているようにもみえてくる。
そこで、私には名前もわからない登場人物なんだけど、小道具係の人がマートルに声をかけてあげる。
さっき言ったようにDIVAは自分で納得しないと前に進めない。けれど、矛盾するんだけど、他人のふとした言葉に支えられていたりする。
この小道具係の言葉がまさにそうです。
マジメな脚本術にのっとればストーリー上「必要なし」と判断するのが正解かもしれないタイミングで声をかける。
誰かを慰めたり、誰かを諭したりするときって、この人に対して自分という存在がどうであるかって大きいじゃないですか。
先輩のアドバイス、審査員のコメント、知らない人のリプライ、これはそれぞれ届き方が違いますよね。
だからこの小道具係はマートルに与えられる影響は少ないだろうし、それも自覚してると思う。
だけど、それでも自分が何か言わなきゃいけないと、「一言いいですか」って声をかける。すごくいい。
マートルに噓の言葉は響かないから、声をかけるのも難しいはずなのに。
そして「こんなに酔っ払って歩ける人、見たことがないです。Fantastic!」って言う。泣けますよね。
五所 そう、「Fantastic!」って言う。あそこ、最高ですよね。
小道具係とマートルの関係の希薄さがいいんだよね。
私はああいう人たちを「野生の証人」と呼んでいます。
私も「野生の証人」に励まされて生きてきました。
昔、三軒茶屋を歩いていたら、バーガンディ色のハットをかぶった初老の男性が向こうからやってきて、ふと私の正面に立つとまっすぐ目を見て、「あんたは、どこに出しても大丈夫!」って叫んで去っていったんです。
彼は埃っぽい荷物をいくつも抱えてたんだけど、私の横を通り過ぎるときに、ハットの脇に鳥の羽根がついてることに気づいた。
ゆっきゅん 妖精さんですね。

五所 その言葉には、まったく根拠がないじゃないですか。私のこと知らないし、私の人生になんの責任も負ってないし、誰かに頼まれて言ったわけでもない。
だけど、直感なのか、ほとんど暴言に近いとすら思うけど、「こいつを励ましたろう!」と思ったわけでしょう。
そうやって私という存在の証人になってくれた。私はたびたび「野生の証人」を思い出して、踏ん張っています。
人生にはそういう時がある。『オープニング・ナイト』の小道具係も、タイミングもおかしいし、発言内容も場違いなんだけど、今言わなきゃと駆られてる。
ゆっきゅん 野生の証人、ありがたいですよね。
五所 同じように、衣装係が「野生の証人」になる場面も好きです。
演出家がマートルにダメ出しする楽屋の場面なんだけど、「(君は)もう面白くない。昔はよく君に大笑いさせられたものだが、君は変わった」という言い方をする。
すごく厭なダメ出しでしょう? マートルは何も言い返さない。
すると楽屋でお世話を焼いていた衣装係さんが、「まじめな芝居ですから」「悲しい芝居だから」って、マートルの代わりに二度も言い返す。
「ザ・セカンド・ウーマン」は悲しい調子の戯曲だからマートルさんはわざとシケた演技をしてるんですよ、という反論だよね。
ただ、この会話はすれ違ってる。才能が枯れたという本質的なダメ出しに対して、その場限りの演出法でかばってるにすぎなくて、断然キツい。
だけど、こういう「野生の証人」たちが、マートルのようなDIVAを支えているんだと思う。
ゆっきゅん うん、そう思います。
いま聞いていて思い出した場面があるんです。
もう少し責任感のある証人なんですけど。
小室ファミリーの音楽ユニットglobeのツアーに密着したドキュメンタリーを収録した『GVD globe decade -globe real document- SPECIAL BOX』というDVDボックスが出ているんです。
2005年にglobeが10周年を迎えるんだけど、もう小室ブームは去ってしばらく経っていて、ドームみたいな大きな会場ではやっていない時期にリリースされたものです。
2時間くらいのドキュメンタリーが収録されたディスクの3枚組。
KEIKOさんと小室さんが新婚の頃ですね。私はglobeの関係性も含めてハマって、5年前くらいにそれを買って観たんです。globeってプロデューサー兼サウンドメイクをする小室哲哉がいて、リードヴォーカルのKEIKOがいる。
もうひとりのラッパー、マーク・パンサーって、ラップが特別上手いわけでもないし、私は何者かよくわかっていなかったんです。
だけどGVDを観たら見え方が変わった。
KEIKOとマークの友情が映っているんです。
例えば本番前、KEIKOの喉の調子が悪くなっていたとき、楽屋でKEIKOとマークが2人になる時間があるんです。
「歌えるかな」って自信喪失して不安で、楽屋でどんどん小さくなってしまう。
そこでマークはKEIKOを抱き寄せてあげて、そして言うんです。
「前代未聞ナンバーワン歌姫。あなたならできるね?」って。
それを観ていて私、本当に泣いちゃって。
「前代未聞ナンバーワン歌姫」という言葉そのものも、それがKEIKOにとって励まされる、言われたい言葉であることも本当に素晴らしいと思う。
マークの優しさと二人の信頼関係にも泣けるし。
DIVAって基本的に繊細だし、揺れ動いている不安な生き物。
そこにマークのような人がいて成り立っているのかなと思ったんです。
小道具係とは違いますが。DIVAの近くにいて、支えてくれる人というのは大事。
五所 さっきの演出家のダメ出しには続きがあって、「(君は)もう面白くない。昔はよく君に大笑いさせられたものだが、君は変わった。顔つきまで誇り高い女王のようだ」と言うんですね。
つまり、あんたはクイーンになっちゃった、と。
そこで私は、クイーンとDIVAは何が違うんだろうと考えたんです。
クイーンというのは地位なんですよね。統治形態のトップに君臨している絶対的な女性がクイーン。権威に保証された威厳というものがある。
そういう意味では、「大女優」と呼ばれる人のなかにはクイーン的な女優がいる。
たとえば、三田佳子演じる羽鳥翔がクイーンからDIVAになる映画が、『Wの悲劇』(84年、澤井信一郎監督)なのかも、とか思ったり。
語源的にいえば、DIVAはもともとオペラ歌手を指してたから、声を発する身体が不可欠。
それに対してクイーンは、権力や威厳の記号として成立するから、身体が不可欠というわけではない。
DIVAは身体を抱えているから、絶えず揺らぎ、不安定で、秩序の真逆にいる。
その不安定さはときにスキャンダルをともなう。声や身体にはやっぱり過剰さがあるんだよね。
その過剰さは身体そのものを壊すほどのエネルギーをもってるから、DIVAにはつねに破綻や破滅のリスクがつきまとうし、その危うさこそがスターの輝きでもある。
そう考えるとやっぱり、マートルはクイーンじゃなくて、DIVAだなって。
ただ、別の角度から見たら、マートルってあれほど制御不能にならなければ演じられなかったんだと思うと、DIVAというよりゾンビっぽくも見える。
ゆっきゅん あの舞台は再現できないですよね。
『オープニング・ナイト』は舞台初日の終演で終わる。
明日も同じ戯曲を演じなきゃいけないわけじゃないですか。
だけど、明日も同じように泥酔するわけにはいかない。
泥酔したからこそ、あの感動を生んだのかもしれないと思うと明日は本当にどうするんだろう、って考えずにいられない。
五所 終われないことのつらさが映画のラストにはあるよね。
終われなさって、まさに年をとっていくことに似てる。
『オープニング・ナイト』って始まりを祝う言葉のはずなのに、ここでは終われなさの別名になってる。
マートルは何度でも舞台に立って、何度でも「初日」を迎えなきゃいけない。
だから『オープニング・ナイト』というタイトルが、やたらと切実に響いてきます。
ゆっきゅん そこに「立ち続けるしぶとさ」を体現するDIVAの人生が浮かび上がるのが痺れますね。
対談まとめ 寺岡裕治
(つづく)
(編集部より)
ジョン・カサヴェテス監督『オープニング・ナイト』は現在、U-NEXTで配信をしておりません。
第二回で取り上げる下記の作品は配信中ですので、一ヶ月後の更新に向けてぜひご覧ください。
🎞️「Wの悲劇」をU-NEXTで視聴
🎞️「サンセット大通り」をU-NEXTで視聴
🎞️「イヴの総て」をU-NEXTで視聴
🎞️「極道の妻たち 三代目姐」をU-NEXTで視聴
次回予告
ジョン・カサヴェテスの『オープニング・ナイト』