
連載
つげさんの日々
藤野千夜
三年前に買ったつげTシャツをよく着ている。「紅い花」のキクチサヨコとシンデンのマサジ、釣り人の男の顔が、グレイの地に黒でプリントされている。 つげさんが長く暮らす東京都調布市の文化会館(たづくり)で最初の「つげ義春展」が開催されたときの記念グッズだ。一度、それを着て近所のコンビニに寄ったら、同世代(六十代前半)くらいのレジの女性に、 「あ。つげ義春」 と言われて、結構びっくりしたけれど嬉しかった。

異能の漫画家、つげ義春。解釈を拒み続ける不朽の問題作『ねじ式』を筆頭に、その唯一無二の世界観が、いまなお世界を魅了しています。つげ義春は、いったい何を描いたのか。つげ作品を愛してやまない作家の町田康さんと又吉直樹さんが、つげ義春の底知れぬ魅力と創作の真髄を解き明かします。
司会・聞き手:渡辺祐真
── 今年2026年、つげ義春さんは惜しくもこの世を去られました。つげさんを取り上げるにあたり、まっさきにお話をうかがいたいと思ったのが町田さんと又吉さんです。表現者として第一線で活躍されるおふたりが、なぜ、つげ義春に魅了されているのかをたっぷりお聞かせください。そもそも、つげ作品と出会ったのはいつでしたか。
町田 つげ義春はね、自分から読もうと思って読んだというわけではないんです。当時は、誰の家に行っても、なぜか必ずつげ義春の本がありました。人の家に行ってうだうだして、泊まった翌日かなんかに、その辺に転がっているのをパッと読む。それを繰り返しているうちに、結果的にかなりの作品を読んだという感じです。
── 町田さんは、世代的には10代の頃にも「月刊漫画ガロ」が全盛期だったかと思いますが、リアルタイムでお読みになっていましたか?
町田 いや、同時代ではないですね。すこしあとです。ただ、記憶をたどると、昔の「ガロ」のでっかい紙面で作品を読んだ記憶があるので、人の家にあった古本か何かで目にしたことはあると思います。
又吉 僕も似たようなところがあります。友達の家に行くと、だいたいつげさんの作品が置いてあるんですよ。そこでほとんど全部読みましたね。町田さんとは世代が違うので、どこに行ってもあるというわけではなかったと思いますが。
町田 まあ、又吉さんがそういう人と付き合っていたということですね(笑)。
── お好きな作品は?
町田 印象に残っているのは「ねじ式」です。
又吉 僕は、『無能の人』(「石を売る」など)ですね。なんと言いますか、「わかりすぎる」という感覚でした。
── つげ作品は、一般的には「よくわからない」と言われることが多いですし、とくに『無能の人』はそのタイトルどおり、かなりの奇人変人が描かれている印象ですが、又吉さんは共感できたということでしょうか?
又吉 そうですね、みんな、あの作品に出てくる人たちのことを、「変なやつら」と思っているかもしれませんが、僕にとっては、めちゃくちゃ「わかります」なんですよ。「石を売る」と、その続編にあたる「無能の人」は、タイトルどおり、石を売って稼ごうとする話です。
── なんの変哲もない、河原の石を売るんですよね。売れるわけがないのに、せっせと集めて売ろうとする。「無能の人」の最後には、石をオークションに出品したりと、一見するとかなり変な話に見えます。
又吉 でも、僕もお金がなかった頃はどうやったら空気を売れるか、とか元手のかからないもので商売することを真剣に考える時期がありました。考えてみれば、いま、自分がやっているお笑いも文章も、「元手のないものに価値をつけて売る」という意味で同じかもしれませんし。
── なるほど! あの作品にリアリティを感じられたんですね。
又吉 かなりリアルですよ。漫才などの賞レースの予選の雰囲気に似ています。ほかの出場者たちがみんなすごくちゃんとしているように見えるから、「自分はこれで大丈夫かな」と急に不安になる。いざ出番になると、結局誰も自分のネタを見てくれない……、みたいなリアルさです。
── 若手芸人時代の感覚にシンクロしていたとは。
又吉 ええ。だから、変な話とはぜんぜん感じないですね。リアルやからこそ、圧倒的におもろい。そう読んでいます。
── 町田さんは「ねじ式」が印象的だったとのことですが、今回つげ作品を読み返してみていかがでしたか。
町田 基本のところは同じですね。当時も、この作品に出てくる人が「世間からドロップアウトした普通じゃない人」というふうには見ていなかったですし、いま読み返してみても「ふつう、生きていたらこうなるよな」という人間の根底の姿が描かれているように感じます。
── 作品でいうとたとえば?
町田 「峠の犬」という犬が主人公の話です。ある家では五郎、またある家ではハチと呼ばれ、それぞれ別のところでエサをもらっている。あちこち行き来しながら生きている犬なんですが、「これはおもしろいな」と思ったんです。その後、井伏鱒二のある作品を読んだとき、「つげ義春は、井伏鱒二やったんや」と驚きました。
── 井伏鱒二のどんな小説だったのでしょうか。
町田 「掛持ち」という作品です。こちらは、人間が主人公です。甲州の旅館では下働きをして、女中たちから馬鹿にされている人物が、伊豆の旅館では一転して鷹揚に振る舞う粋な番頭として一目置かれている。そんなふうに、同じ人間が場所によってまったく違う顔を見せるんです。そして、ある人物が彼の両方の姿を目撃し「こんなに違うのか」と驚く。その様が淡々とした筆致で描かれています。読んでいて、井伏鱒二とつげさんが、カチッとつながったような喜びがありました。

── つげ義春自身も、大きな転換点となった作品「沼」を描いた時期に、井伏鱒二を読んでいたと語っていますね。
町田 ああ、やっぱりそうですか。
── 「沼」という作品は、ある青年が雁を撃つところから始まります。男は撃ち落とした雁を探していると、沼の近くに住む少女がその首を絞め、切り離した頭を差し出してくる。男はその少女に誘われるまま彼女の家に泊まることになるのですが、そこでは少女が鳥かごのなかでヘビを飼っていて……というなにが起こっているのかよくわからない、不思議な作品です。
又吉 女の子が言うんですよね、「夜中、寝とったらヘビが首を絞めるの、いっそ死んでしまいたいほどええ気持ちや」って。寝られへん男は布団から起き出して、隣で寝ている少女に近づく。読者としては、コイツなにかエロいことするんかなと思いきや、なぜか男は少女の首をいきなり締めて、本人も「なんでこんなことしてんねやろ?」と訝しむ。そして、朝を迎えて、少女が彼女のお兄さんに「なに知らん男を部屋に入れてんねん」と叱られるのを聞きながら、男が家を出ていくという話でした。
── あらすじを聞いても、何の話かわかりませんね(笑)。
又吉 僕は、この作品を読んだとき、なんでこんな「普通のこと」が書けるのかなって感じたんです。
── 「沼」のこの不可解な展開が、普通なんですか!?
又吉 こういうことって、あると思うんです。めちゃくちゃ日常にありそうな場面やなと。たとえば、親戚に赤ちゃんが生まれて、見に行くじゃないですか。赤ちゃんは可愛いんですけど、気持ちよさそうに寝ているのを見ていたら、ふと「泣くところを見たいな」と思って、ほっぺをちょんって触るんです。案の定泣き出して、その子の親から「お前なんかしたやろ」って詰められるけど、「いや、してない」ってしらを切るあの感覚です。こういう場面を切り取ろうと思えるのがすごい。
町田 ああ、井伏にもそういう空気感がありますよね。つげ作品と井伏作品の共通点は、「わたし」という観察者の視点があることです。この「わたし」は、そこで起きた現象をただ記録して、報告するだけ。感情はない。「報告の文体」ですね。
── 「報告の文体」。興味深いキーワードです。
町田 登場人物の内面や感情をていねいに書きこむ親切な小説もある。けれど、井伏鱒二は目で見ている現象だけを緻密に描いていく。井伏は、画家を志していたこともあって、視覚が優位なんですね。映画はカメラが捉えているものしか映らないように、井伏作品でも、見えるものしか描かれない。そして、頭で考えたことや心で感じることは、ナレーションの役割をもつ地の文で書かれる。だからこそ、読者は、「登場人物はこう思っているな」と想像することができる。というより、読者に想像させることのできるシーンだけを緻密に切り取っている。
又吉 地の文の説明が省かれているから、ピンとこない人にはわからないわけですね。内面の説明は、とくにする必要もないんですが、でも、小説を書いているとどうしても説明したくなりますよね。

町田 読者のために書かなあかんかな、とは思いますよね(笑)。小説の場合は、地の文と会話のあいだに段差や断絶が生まれやすいのですが、つげ義春の場合は漫画ですから、見えているものと地の文をスムーズにつないでいます。この技術が圧倒的だと思いますね。説明を極力排して、ザワザワした感じを読者に委ねる。この「報告の文体」を取れるのは、うまい表現者です。
── つげ義春の代名詞といえば、やはり「ねじ式」です。静脈を切られた主人公が医者を求めて不気味な街をさまようという、かなりシュールな作品です。おふたりはどうお読みになりましたか。僕は、ぜんぜん分からなかったのですが……。
町田 あれは完全に夢ですよね。
── そうですね、つげさんご自身も「実際に見た夢を描いたもの」と公言していますね。
町田 だから、他の作品とは違いますよね。さきほどの「峠の犬」や「沼」ともまったく違って、詩のような感じです。
又吉 僕も、夢の話として読んでいるので、深読みしたり解釈したりしようとは思わなかったですね。でも、2回目に読んだときは、最初の村で出てくるメガネをかけた賢そうな男が印象的でした。手にスパナみたいなのを持ってるんですよ。
町田 ……あの男、賢そうですか? 「悪そう」では?(笑)
又吉 まあ、ただ者じゃない感じというか、親分感でしょうか(笑)。 主人公は結局、婦人科医にスパナでねじを締めて治療してもらうわけですよね。最後まで読むと、「あの最初に出てきた男もスパナを持っていたし治せたんちゃうかな」とか、想像する余地があるのがおもしろいですね。
町田 この、いかにも夢らしい展開は、蛭子能収の初期の漫画に近いですよね。
又吉 そうですね。僕は「ねじ式」を読んでいると、フランツ・カフカの「田舎医者」という短編を思い出します。猛吹雪の夜、隣町で急患が出たと呼ばれた医者が、苦労して駆けつけると、一見どこも悪くないように見える子どもがいるのですが、身体をよく調べると腰のあたりに凄まじい傷が見つかる。その後、医者自身も奇妙な状況に巻き込まれ、最後には家に帰れなくなってしまうという話です。患者が医者を探してさまよう「ねじ式」と、医者が患者のもとへ向かった末に帰れなくなる「田舎医者」に、うっすらとした共通点を感じます。
── たしかに、カフカと言われると納得できます。カフカの「城」も、いつまで経っても、行くべき城へたどり着けない話でしたし。つげ義春もカフカも不条理という点では似ているのでしょうか。
町田 うーん、それはどうでしょう。「ねじ式」に関しては、「不条理文学」とか「わかる・わからない」など理屈で理解しようとするのではなく、又吉さんがおっしゃったように「この男、スパナ持ってるな」といった、意味を超えたところを味わう作品じゃないかなと思います。
── なるほど……。意味がとれないものを「不条理」という解釈に押し込めるのではなくて、描かれた場面や細部をそのまま味わうのが、つげ作品の楽しみ方ですね。

── 「ねじ式」は、つげさんが30歳のとき(1968年)に発表されました。つげ作品には、夢のようなシュールな世界観が描かれるもののほかに、自伝的な作品や現実の旅をモチーフにした作品群もありますね。
町田 あの作品は怖かったですね、旅館に天狗のお面があって……。
又吉 ああ! 主人公が宿屋の旦那と同じ顔をしていると言われ、その宿には行くな行くなと言われる話ですよね。
── 「ゲンセンカン主人」ですね。つげさんは、日本全国の温泉宿を旅していて、そこでの体験がかなり作品に反映されていますよね。僕にとって、自伝的つげ作品で忘れられないのは、メッキ工場で働いた体験をもとにした「大場電気鍍金工業所」です。劣悪な労働環境のなかで身体を病み、死を待つばかりとなった元工場長が、床板の隙間から便を垂れ流していて、でもそれはじつは腐った内臓だった……という、恐ろしい描写があります。
町田 現代にも悲惨な状況はありますが、昔とは性質がだいぶ変わりましたね。当時は物理的な飢餓が圧倒的で、身体で引き受ける悲惨さが中心でした。
── つげ作品の怖さのひとつは、戦後直後の貧困や飢えが生み出す、身体的な恐怖がずしりと横たわっていることだと思います。それは、現代人がまた感じる精神的なキツさとは違う、生々しい怖さなんですよね。
町田 そうですね。その身体的な悲惨さを、いまの時代から遠いものとして捉えるのか、それとも、人間という存在の根底にうっすらあるものとして捉えるのかによって、つげ作品の読み方は大きく変わりますね。
── 又吉さんは「李さん一家」もお好きとうかがいました。主人公の家の2階に、鳥の言葉を話す謎の男・李さんが家族ごと住み着いてしまうという話ですね。
又吉 これは、主人公の巻き込まれ方が最高ですね。ふつうやったら、「いや、勝手に住まんといてくれ」と追い払うじゃないですか。でも、主人公はうやむやのうちに受け入れてしまう。断るのもパワーがいりますからね、「どっちでもええか」となあなあでいるうちに、どんどんおかしな状況に巻き込まれていくという。ありますよね、こういうこと。僕も、人からの誘いを断れないタイプで、「なんでオレ、こんなところにおるんやろ?」と我に返ることが多いので。
── でも、勝手に住み着かれた主人公も、意外と楽しそうにしていますよね。「李さん一家」の続編的な作品に「蟹」があります。主人公が海から遠い場所でカニを見つけ、「なんでこんなところにカニが?」と不思議に思って、鳥と話せる李さんに聞いてみる。すると、中華料理屋の排水溝にカニが住み着いているのを発見するという話。このあたりも読んでいくと、主人公は諦めながらも、どこかその状況を味わっているように見えます。
又吉 そうそう、無意味な出来事に巻き込まれることができるんですよね。これは、日常のなかに時間的な余白があるからやと思います。スケジュールがめちゃくちゃ詰まっていたら、「カニおるな」と思っても素通りしてしまう。でも、「このカニ、なんなんやろ?」って立ち止まれる。
町田 生活の余白は大事ですね。
又吉 僕は30歳くらいの頃、下北沢で先輩と待ち合わせをしていたら、僕と同じ髪型をした60代半ばのおじさんが近づいてきて、急に肩組んできて、「……やってんだろ?」って聞いてきたんです。ふつうなら無視するじゃないですか。
── そうですね、怪しすぎます。
又吉 でも、僕は急いでいるわけでもないし、特に何をするわけでもなかったから、聞き返しちゃったんですよね。「何をですか?」って。そうしたら、おじさんは「……ブルース!」って(笑)。それで「あ、やってないっす」って答えたら、「やってねえのか」って去っていきましたけれど、この「何をですか?」って一歩付き合ってしまう感じですよね。つげ義春という人も、世界の偶然性のようなものについ付き合ってしまうタイプだったんじゃないかなと思うんです。
町田 作者がそういう生き方をしているから、「李さん一家」のような作品が生まれるというのは、まさにそのとおりだと思います。一方で気になるのは、つげ作品には「主体」のようなものがないことなんです。

── 主体、ですか。
町田 ある時期のつげ作品の主人公は、ほぼ作者の分身です。いつも設定は同じで、貧乏で漫画を描いていて、妻の機嫌が悪い(笑)。なのに、主人公の「顔」はぜんぜん違うんです。
── たしかに。主人公の顔の造形は作品ごとに違いますね。そして、どの顔であっても、表情がない。「オンドル小屋」では、湯治宿で宿泊客が花札をして大騒ぎしているという場面が描かれていて、主人公がものすごく嫌そうな顔をしていました(笑)。つげさんは、嫌な顔を描くときは徹底的に嫌な顔を描きますが、それ以外の作品ではほとんど無表情のままです。
町田 李さん一家が自宅2階に勝手に住み着いたら、さすがに主人公は「やっぱ出てってくれへんかな」とか「鬱陶しいな」とか思うことはあるでしょう。けれど、つげさんはそういう内面をほとんど描かない。自分自身をモデルにしながらも、主人公を自分そのものにはしないことで、少し距離を置いているんじゃないでしょうか。その距離があるからこそ、感情を説明せず、そこで起きたことを淡々と描く「報告の文体」が成立する。そのために、主人公の顔も作品ごとに変えていたのかなと思います。
又吉 なるほど。
── 主人公を自分自身から少し切り離すことで、感情を語るのではなく、目の前で起きた現象を描くことができた、と。
町田 そうですね。筒井康隆さんが昔、漫画も描いていたとき「自分は美男子すぎて描けない」と言って、顔をのっぺらぼうのように描いてたんですよね。
又吉 それでいうと「無能の人」のラストシーンがまさにそうですね。石がまったく売れなくて、売れ残った石を奥さんに半分持たせて帰る道中、箱から石をボロボロ落としながら、奥さんは「あんたにはマンガしかないのよ/マンガ描いてよ」と怒っているシーンでパツンと終わる。主人公の気持ちは描かれないからこそ、余計に切なさが生じています。
町田 そこで「ここからふたりで頑張ろう」とか「こいつを笑顔にするぞ」とかなんていうモノローグを入れたら台無しですからね。太宰治なんかは、そういうときにあえて奥さんの視点から自分を描いてみせるという卑怯なテクニックを使ったりしますけれど(笑)。つげ義春はただ作者=主人公の目から見た現象だけを描く。この距離感が見事ですね。
──つげ義春さんは、1987年、49歳のときの作品を最後に、実質的に漫画制作からは身を引きました。作中でも「漫画が描けない」「描きたくない」といった葛藤が表されていますが、おふたりは創作活動のスランプや引退を考えたことってありましたか。
町田 ・又吉 ……(しばし沈黙)。
──すみません、野暮な質問でしたでしょうか。
又吉 いえ、僕はまだ作家としてのキャリアは10年ちょっとくらいなので、本気で「辞めたい」と思ったことはまだないですね。
町田 仕事には、発注を受けて書くものと、誰からも求められずともコツコツ書いてしまうものがありますね。
── 自分でやりたい仕事なら続けられそうで、人から頼まれた仕事のほうはやめたくなる、ということでしょうか。
町田 逆ですね。人から頼まれた仕事で、ギャラをもらいつつ、なおかつ「俺の仕事」と思えるものはあるでしょう。一方で、自分の内発的な動機だけで書き続けることには限界があります。10年もそんなことをやっていたら、誰だって「もうええがな」と満足してしまう瞬間がくる。創作の限界というものは、「儲からない」とか「評価されない」とかではなく、自分自身の飽きにあると思いますね。
又吉 ああ、それはありますね。僕も「これまでとは違うことやりたい」という衝動はつねにあります。自分の場合は、お笑いも小説も遊べる余白が多い形式なので、つねに新鮮さを立ち上げやすいのかもしれません。

── 町田さんが小説を書き続けるエンジンって、何でしょうか?
町田 エンジンはただひとつ、「快楽」ですね。文字を書くこと自体に快楽がある。みなさんがカラオケ行くのって、声を出す快楽があるからでしょう。それとまったく同じです。
又吉 そうですね。小説を書いている瞬間、コントのネタをつくっている瞬間は快楽があります。ただ、そのための打ち合わせとか事務作業は、同じ熱量では絶対にできません(笑)。
町田 最近、文芸誌の新人賞への応募が飛躍的に増えました。なぜかというと、AIに書かせる人が増えたから。アイデアを得るためにAIを使うならまだ理解ができますが、執筆という「書く快楽」を手放してどうするんだと思うわけです。
又吉 言うなれば、それは「サッカーの試合や練習を一切せずに、サッカーのプロと認められたい人」ですね(笑)。
町田 なんやそいつは。走るのがしんどいんかな(笑)。
――本来は、ボールを蹴ったりする時間こそが楽しいはずなのに。
又吉 そんなやつサッカー好きにはいない。でも、小説界隈にはいますね。不思議です。
── 俵万智さんも似たようなことをおっしゃっています。いまは、人間よりもAIのほうが短歌の出力スピードはずっと速い。けれど、短歌をつくっていていちばん楽しいのは、一首ができあがるまでの時間だと。てにをはを直したりしながら、ああでもない、こうでもないと悩む時間が喜びなのだ、と。
町田 そう、それが創作のいちばんええところですよね。つげさんが筆を折ったのは、漫画を描くこと自体の快楽が失われたからなのかな、と想像しています。
── 作品やインタビューなどを読んでいると、周囲からの「描け」というプレッシャーがどんどん強くなっていった印象がありました。「ねじ式」があまりにも反響があったことへの戸惑いも吐露されていました。本人としては、夢の話を描いただけなのに、「芸術」と評価され、ねじ式的なものを求められたり……。
町田 それは「野口五郎の悲しみ」ですね。
── ……野口五郎?
町田 野口五郎って、デビュー初期に「私鉄沿線」という曲でヒットしたら、その後もずっと駅の歌ばかり歌わされたじゃないですか(笑)。
又吉 わかります。ピースというお笑いコンビが駆け出しの頃、たまたま「サッカー少年」というコントでテレビ出演が叶ったんです。オンエアを見たら「スポーツコント師・ピース」というキャッチコピーが付けられていて、「あ、これはもう2回しかテレビ出られへんな」と思ったことを思い出しました(笑)。
町田 世間は同じような「代表作」を期待するけれど、そのイメージで縛られるのは窮屈ですよね。本人はもっと別のことをしたいのだから。20年前におもろかった漫才を、もう一度やってくれと言われても無理なように。
── お笑いの場合、テレビで披露して有名になったネタを、劇場でも期待されたりしないんですか。
又吉 テレビでやったネタは、劇場ではあまりやりませんね。お笑いって基本的には「裏切り」の要素が必要なので。
町田 そこが音楽とは正反対ですよね。音楽ライブだと、お客さんは「知ってる曲」をやってもらわないと納得しないじゃないですか。誰も知らない新曲をえんえん演奏されても困る(笑)。
又吉 そうなんですよね、ただ、お笑いの中でもギャグだけは別なんです。新喜劇みたいに、予定調和の笑いもある。
町田 ああ、新喜劇って、ジャズなのかプロレスなのかよく分からない部分がありますよね(笑)。
── そう考えると、お笑いのなかでも落語はオチをわかっていて聞きにいくから不思議ですね。
町田 作品のおもしろさというのは、観客側がどれだけいろいろなものを感じ取れるかにかかっていますね。たとえば、ゾンビ映画を観ているときに観客が感じるのは「頼むからこいつは生き残ってくれ!」というハラハラ感でしょう。そのスリルを味わえたら十分で、1回観れば満足する。でも、ゾンビ映画だって100回観たら、まったく違う楽しみ方ができるはず。何度も味わいたくなる作品には、受け手が楽しめる余白がたくさんあるということじゃないでしょうか。

又吉 僕は、子どもの頃から吉本新喜劇を何百回と見てきたんですけれど、大人が何人も同じタイミングできれいに転ぶじゃないですか。誰かが変なことを言ったら、全員でズッコケる。何回も見ているうちに、「あの転ぶ意味ってなんなんやろう?」って真剣に考え始めたことがあって……。
町田 転ぶ意味を(笑)?
又吉 あれは、誰かが強烈に突飛なことを言ったことで、その場にいる全員の認知が一瞬で崩壊している状態である、と。頭のなかでの認知の崩壊を、視覚的に再現したものが「コケる」という行為なんじゃないか、と解釈してみるとか。でも、それにしては、みんなきれいにコケているな、コケ方も似てるな、とか。何度も見ていると、感じることはいっぱいありますよね。
町田 それはいい鑑賞法ですね(笑)。でも、まさに観客が勝手に解釈を広げて楽しめるようなスペースが残されていることが、表現のおもしろい部分なんでしょうね。
── つげ作品がいまもなお読み継がれているのも、その「受け手が楽しむ余白」が大きく残されているからなのかもしれませんね。
── つげ義春さんは今年2026年に惜しくも亡くなられました。現代の読者は、つげ作品とどう付き合っていけばいいのか、おふたりの考えを聞かせてください。
又吉 つげ作品には、反語としての「無駄」がありますね。世間では「タイパ」という言葉がありますが、僕の感覚では、それはいちばん時間を無駄にする行為です。体験する時間を短くして、概要だけを集めていくのは、栄養分を一切摂らずに、時間だけを費やす行為のように見えます。つげさんの作品のなかにあるのは、「なんなんやろ、これ?」という説明のできないおもしろさです。解釈できない、なんのためにあるかわからない、でもおもしろい。そういうものを味わう時間って、無駄なように見えて、いちばん豊かなものやと僕は思います。
町田 まさにそうですね。つげさんの作品に描かれているのは、意味や文脈、価値とは接続していない時間です。現代って、誰かのちょっとした行動も偶然の出来事も、すぐに意味づけされたり、解釈されたりしてしまう。けれど、つげ作品を読んでいると、そこにあるのは多摩川にただ石を拾いにいって、とくに何が起こるわけでもなく帰ってくるとか、わけのわからない旅館に行ったら嫌な思いをしたとか、そういうことだけです。
何でもかんでも文脈や意味と接続されてしまう現代において、そこから解き放たれた時間があると知ること。そして、それを描いた作品がいまも読めるということは、ものすごく贅沢なことやと思いますね。いまの読者のなかには、つげ義春とは時代が違うと思う人もいるのかもしれませんが、時代が変わっても、人間の根底にある情動は変わりませんから。
つげ作品を読むと、「こういうときって、こういう顔するよな」と、納得します。いいか悪いかという判断を超えて、どうしようもなく出てしまう人間の反応。そういうものが、そのまま描かれている。つげ義春を読んで「人間ってこうやな」と思えるのはすばらしいことだと思いますね。
構成:梅澤奈央
(了)

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つげさんの日々
藤野千夜
三年前に買ったつげTシャツをよく着ている。「紅い花」のキクチサヨコとシンデンのマサジ、釣り人の男の顔が、グレイの地に黒でプリントされている。 つげさんが長く暮らす東京都調布市の文化会館(たづくり)で最初の「つげ義春展」が開催されたときの記念グッズだ。一度、それを着て近所のコンビニに寄ったら、同世代(六十代前半)くらいのレジの女性に、 「あ。つげ義春」 と言われて、結構びっくりしたけれど嬉しかった。

小説と漫画、交点と差異
町屋良平
現在においてマンガというのは世代論と心中するような文化だと思う。いまの二十代が『ドラゴンボール』を読んでいないように、私は『魁!!男塾』を読んでいない。エンターテインメント小説に比べてもその傾向は顕著であるようにおもう。私は三十代序盤の作家に、『アイシールド21』と『金色のガッシュ』が自分たちの共通言語ですと言われて驚いた。『アイシールド21』に関しては読んでいたが、じつは冒頭以外の内容をサッパリ

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忘れられない尻と便
小山田浩子
いまも昔も私はたくさん漫画を読む方ではなくて、特に子供時代は家にほとんど漫画がなかった。学習漫画とか従兄か誰かが忘れていったせいで第13巻だけあるミスター味っ子のコミックスとか進研ゼミのDM小冊子とかそんな限られた漫画ばかり読んでいた私は、あるとき親に届いた『通販生活』でつげ義春の漫画を見つけた。カタログハウス刊行の『通販生活』には、当時もいまも商品ページ以外に読み物のページがたくさんあって、その