
連載
つげさんの日々
藤野千夜
三年前に買ったつげTシャツをよく着ている。「紅い花」のキクチサヨコとシンデンのマサジ、釣り人の男の顔が、グレイの地に黒でプリントされている。 つげさんが長く暮らす東京都調布市の文化会館(たづくり)で最初の「つげ義春展」が開催されたときの記念グッズだ。一度、それを着て近所のコンビニに寄ったら、同世代(六十代前半)くらいのレジの女性に、 「あ。つげ義春」 と言われて、結構びっくりしたけれど嬉しかった。

いまも昔も私はたくさん漫画を読む方ではなくて、特に子供時代は家にほとんど漫画がなかった。学習漫画とか従兄か誰かが忘れていったせいで第13巻だけあるミスター味っ子のコミックスとか進研ゼミのDM小冊子とかそんな限られた漫画ばかり読んでいた私は、あるとき親に届いた『通販生活』でつげ義春の漫画を見つけた。カタログハウス刊行の『通販生活』には、当時もいまも商品ページ以外に読み物のページがたくさんあって、そのいち企画として毎号一作だったかあるいは複数作まとめてだったか、つげ義春作品が再録されていた時期があったのだ。調べると、それらをまとめた小冊子『つげ義春アンコール劇場』が本誌付録として配布されたのが1998年らしく、雑誌掲載はそれより前、90年代半ばから後半のことだろう。私は小六とか中学生とかくらいだったことになる。読んでだいぶ困惑した。作中でなにが起こっているのかは概ねわかるのだが登場人物がなぜそういうふうに行動するのかはよくわからなくて、それを読んでどう思っていいのかもわからない、恐ろしいような悲しいようなみじめなような……特に印象的で、前後の文脈というかあらすじはすっかり忘れたのにずっと覚えていた場面がふたつある。ひとつは裸の女性の後ろ姿で、その背中からお尻、太ももが斜線で描かれた影に覆われていて、黒くて暗くて怖かった。全裸の大人の女性を漫画で見たのもそれが初めてだったのではないかと思う。女性は寝転んでいる夫(こちらは着衣)を見下ろしているのだが、夫が彼女の裸を見て嫌そうな顔をしているのにも胸がざわついた。単に性的だということではなく見てはいけないものを見たような、そしてもうひとつは飲食店の場面、店の幼児が室内で脱糞し床に転げ落ちた小さい大便を母親がつまみ上げて捨て、そして、その指を簡単に水ですすいだだけで主人公に提供するそばをつかんでザルに盛るところ。私はその絵に、排泄後急速に下がっていく大便の表面温度とそれをつまんだ指のぬめりを感じ気分が悪くなった。それまでアニメや漫画の絵で見たことのある大便はいわゆるマキグソで、朗らかに軽くわかりやすい笑いの記号だったのに……いま思うと読者に商品購入を促す通販雑誌に、消費の快楽とはある意味対極にあるようなつげ義春の作品が掲載されていたということ自体がかなり異様な編集だったのではと思うのだが、当時はそんなことは全然わからないままその暗さとぬめりに戸惑った。おもしろいかつまらないか決めろと言われたら多分つまらないと答えたと思う。でも親が雑誌を古紙として処分するまでの間に何度も読み返した。
つげ義春が、寡作ながらとんでもないカルト的な人気を持つ漫画家なのだ、と知ったのは大人になって、小説家になってからのことだった。夫が文庫版の選集を持っていて借りて読んだ。おもしろくてびっくりした。もちろん暗いしみじめだが、でもおかしみや軽さもあって、エッ、こんな感じだったっけ、子供のころはひたすら不可解だった人々の顔つきや言動に身につまされる感じもあり、それでもやっぱりわからないところはわからない。
私は主人公が田舎へ行く〈旅もの〉が特によくて、人々の会話や動き、例えば「西部田村事件」の、山狩りに浮き足立つ村民の会話などユーモラスで怖いし、「枯野の宿」の客室に描かれた絵を見て、そこに「当館子息画く」とサインされているのに「子息⁉︎」と思うのではなく言うところとかドキッとする。旅人と田舎の人が関わるときにお互い相手をうっすら軽んじている感じ、描きこまれた自然の質感、山や川、動植物、枝葉を通して見える太陽の光、陰や澱みの黒さ……日記などのエッセイも好もしく、旅日記に書かれた事物が数年後漫画の細部となっているのに気づくのもうれしい。そうやって作品の幹だけではなくて先っちょの小さい虫喰いみたいなところが現実に繫がっている感じは(おこがましいのはわかっているが)私が小説を書くときにいつも意識していることで、共感を覚える。
ところで、子供のころから印象に残っていたふたつの場面をちくま文庫の選集で探してみると前者は「退屈な部屋」(『つげ義春コレクション ねじ式/夜が摑む』)、後者は「探石行」(『同 近所の景色/無能の人』)だった。例の女性の裸の後ろ姿のお尻のところはむしろ光が当たっているように白く描かれていてそこまで陰惨な絵ではなく拍子抜けした。「探石行」は拾った石を売ろうとする漫画家の男が主人公の連作のひとつなのだが、主人公の子供が作中ずっと泣き顔のようなクマができたような暗くやつれた顔をしていて、ああそうだ、この顔もみじめで露悪的な感じがしていていやだなと思っていたのだがいま読むとかわいいし愛着ある描かれ方をしていて、珍しい遠出に浮き足立ちすぎて不安になって混乱しているところなどすごくリアルな子供だなと思う。
(了)

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つげさんの日々
藤野千夜
三年前に買ったつげTシャツをよく着ている。「紅い花」のキクチサヨコとシンデンのマサジ、釣り人の男の顔が、グレイの地に黒でプリントされている。 つげさんが長く暮らす東京都調布市の文化会館(たづくり)で最初の「つげ義春展」が開催されたときの記念グッズだ。一度、それを着て近所のコンビニに寄ったら、同世代(六十代前半)くらいのレジの女性に、 「あ。つげ義春」 と言われて、結構びっくりしたけれど嬉しかった。