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Cover Illustration: ©Shishi YamazakiCharacter Illustration: ©DAISUKE KONDO

つげさんの日々
#つげ義春#読み切り#漫画#創作
エッセイ2026/09/24

つげさんの日々

藤野千夜

三年前に買ったつげTシャツをよく着ている。「紅い花」のキクチサヨコとシンデンのマサジ、釣り人の男の顔が、グレイの地に黒でプリントされている。
つげさんが長く暮らす東京都調布市の文化会館(たづくり)で最初の「つげ義春展」が開催されたときの記念グッズだ。一度、それを着て近所のコンビニに寄ったら、同世代(六十代前半)くらいのレジの女性に、
「あ。つげ義春」
と言われて、結構びっくりしたけれど嬉しかった。近くに本屋もないような、地味な町のコンビニなのでなおさらだった。
『つげ義春日記』(講談社文芸文庫)によれば、昭和五十一年(一九七六年)に小学館から出た文庫版の『ねじ式』『紅い花』の二冊はよく売れたらしい(私も買った)。三月に発売された文庫が、ふた月ほどで、合わせて十三万部の刷り部数になったとか。
当然、他社からもたくさん作品が出し直され、取材や対談、イラストの依頼も殺到。すでに寡作で、なかなか新作を描かず、生活費に乏しいといつも嘆いていたつげさんの預金残高が、翌年十二月には一千万円を越え、それが二度目のつげブームだったそうだから、おそらく私やコンビニのレジの女性は、その第二世代のファンなのだろう。
第一世代は、つげさんがガロにつぎつぎと新作を発表した直後、一九七〇年頃に起こったブームの読者のようだ。
令和の今となっては、おそらく世間からはまったく同じに見えるに違いないが。

三年前の「つげ義春展」は、正確には「マンガ家・つげ義春と調布展」と題されていて、内覧日にはつげさんご本人もいらしたらしい。
最後に漫画を発表したのが一九八七年。その時点で三十六年ほど新作を描いていなかったから、すでに伝説の存在だろう。
ただ、つげさんが「過去の人」だった印象は、私にはまったくない。むしろ、どうにか作品を描かずに暮らしていけないか、苦悩する繊細なマンガ家の姿をずっと見せてくれている。
中古カメラや古マンガなど、副業を模索した時代から、年齢を重ね、なんだか綱渡りのように上品に「つげ義春」でありつづけているようにも見えた。
そういったつげさんの作品と、存在を愛する人が増えたのだろう。
会期は二十日足らずだったけれど、日によっては入場制限がかけられるほど来場者があり、なかなかの盛況だったと聞いた。
私は親しい友人が調布育ちなので一緒に行った。『つげ義春日記』でつげさんが買い物をする「後楽園」(ショッピングセンター。キャラはドンチャック)の花屋で友人は大昔にバイトをしていたし、医者探しに訪れる駅前の「ロゴス」(医院)も長くかかりつけだったが、待合室などで見かけたことはなかったらしい。
会場のたづくりの展示室には、調布を舞台にした作品を中心に複製原画が多く並んでいた。
八〇年代半ばに描かれた「石を売る」のシリーズも展示されていて嬉しかった。私はその作品が掲載された雑誌(COMICばく)の版元で働いていて、違う雑誌の所属だったが、「ばく」の編集長(夜久やくさん)にこっそり入稿前の原稿を読ませてもらったり、ときどき写植貼りを手伝わせてもらったりした。夜久さんにくっついて謎の「つげ義春研究会」に参加したこともある。
なんとなく自分が写植を貼ったかな、と覚しき原画(複製)があったので、
「このちょっと左に傾いた写植の貼り方が、私の癖かな」
もう一人同行した、調布市で学芸員をしている友人にそんなどうでもいい適当なことを教えると、それが伝わったのか、二回目の「つげ義春展」では原稿を依頼された。
といっても関わりは、とても薄い。
つげ作品のいくつかに写植を貼ったことと、一度だけ、京プラでの新年会でつげさんご本人にお目にかかって、ファンです、と熱く伝えて困った顔をされたことを記した。

小説家として、強くつげさんの影響を受けたところはあるかといえば、ない、と答えるのが凡才として妥当なところだろう。
あるいは好きで、読んでいた、としか答えられない。
つげさんやJ・D・サリンジャーのように、何十年も描かず/書かずに、しかも作家でいるなんて奇跡。
もちろんできないし、憧れるだけだ。

調布での二回目の展示(「マンガ家・つげ義春のいるところ展」)は今年、二〇二六年の一月、同じたづくりでも前回より広い展示室で開催され、会期も三月終わりまで、二ヶ月近くあった。
それでもやはり入場制限のかかる日がたびたびあったようだ。
入口には、河原で石を売るマンガ家「助川助三」の姿が看板で再現され、手前にはこの展示のために関係者が本当に多摩川で拾ってきたという、大きめの石が陳列されている。その横の椅子に腰かけて、記念写真を撮れるスポットになっていた。
六〇年代後半の快作「海辺の叙景」の複製原画が全ページ展示されていたのは、同時期の傑作「ほんやら洞のべんさん」と合わせて、二部構成にした三宅唱監督の『旅と日々』が去年公開され、評判だったからだろう(つげさん原作の映画はだいたい観ているが、つげさんご本人がちゃっかり写っていると嬉しくなる。『旅と日々』には写っていなかったが映画は面白かった)。
展示会場の手前、物販ブースの一角に、つげさんご一家が七八年から九三年まで暮らしたマンモス団地、多摩川住宅の「多摩川団地音頭復元プロジェクト」の机があり(つげさんは文庫でもうかったお金で団地の分譲物件を買い、それからまた生活が徐々に苦しくなったらしい)、そこで説明をしていたのがつげさんのご子息・正しょう助すけさんの地元の同級生という方だったので、
「やっぱりつげさんのことは、つげ君のお父さんっていう印象?」
と、本当にどうでもいい質問をしながら(答えは「はい」だった)、多摩川住宅の給水塔のアクリルスタンドを買った。
ふだんは台座に給水塔を立てて飾ってあるが、説明書にあるQRコードをスマホで読み込んで、台座を指定の位置に合わせると、そこににょきにょきと給水塔が浮かび上がり、多摩川住宅の歴史のナレーションと、一度は失われ、数年前に復元が叶ったという「多摩川団地音頭」が流れる。
盆踊りにぴったりの、のどかな音頭だ。
その音頭が流れる夏祭りで、焼きそばの屋台を手伝うマンガ家が、売り上げからいくらかくすねたのではなかったか(「散歩の日々」)。
さらには多摩川の川べりで、誰にも見向きもされない石を売るマンガ家を、幼い息子が迎えに来て、
「父ちゃん/虫けらって/どんな虫」
そんな話をしながら多摩川住宅に帰るのだ(「石を売る」)。
「団地音頭」を聴きながら、そんなことをしみじみ思い出した。

さて、調布育ちの親しい友人の話だけれど、その界隈に住んでいた短大時代、うつ病にかかって日々の支えが『つげ義春日記』(と武田鉄矢の本と『おとぼけ課長』)だったそうだが、その後、うつ病を克服して旧甲州街道を元気に自転車で走っていると、国領の側から調布駅方向へ、自転車の前カゴに原稿を入れて走って来るつげさんとすれ違い、単行本版の『日記』でたくさん写真を見ていたので「つげさん!」と気づいたら、それに気づいたつげさんが顔を伏せたそうだ。
彼女も三年前の「つげ義春展」のとき、記念に「ねじ式」のTシャツを買った。
そして先日、うちに遊びに来たときそれを着ていたのだけれど、ふらっとコンビニに出かけ、戻ると、レジの女性に声をかけられたと教えてくれた。
おそらく私のときと同じ方だろう。
「つげさん、亡くなっちゃって!」
と残念そうだったと言った。
つげさんの訃報は、今年の展覧会が終わったあとに聞いた。
会期中に亡くなっていたそうで、もちろん残念で仕方がないのだけれど、ご本人が亡くなっても、作品がずっとある、というのはやはり素晴らしいことだ。
みんなが繊細で疲れやすい時代、若い読者がますます増える予感しかしない。

(了)

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#つげ義春#読み切り#漫画#創作