
夜が朝に変わる瞬間の美しさを人々は毎日見逃している。尿意で中途覚醒した男は、排尿の最中、淡い意識の表層でそのようなことを考えていた。
寝室の掃き出し窓から覗く空はうっすらと白みはじめている。男は窓を開け、今にも浮かび上がってきそうな地平線に目を凝らした。できることなら、これを毎日眺めていられる仕事に就きたかった。夜行性の虫のように、朝日の気配を見届けながら帰路に着き、日中は人の目の届かない場所に隠れてじっとしていられるような仕事。目覚ましが鳴るまで、今日が始まるまであと二時間。今すぐに一日を終わらせてしまいたかった。
突如、男の耳元で低速のモーターのような音が鳴った。本能が危険を告げる音。男はそれがなんの音なのか瞬時に理解し、淡かった意識は濃度を取り戻す。
慌てて窓を閉めると、窓ガラスに何かが激突した振動がフレーム越しに伝わってくる。暗闇に慣れていない目ではぶつかったものの姿までは見えなかった。ごっ、ごっ、振動だけが断続的に続く。そしてモーター音は消えた。ほんの少し遅れて、ぶつかったそれが床に落ちた音が聞こえた。男は慌てて落下地点を探ろうと上半身を翻す。その瞬間によろめいた。
体を守るため、咄嗟に前に出た左足。スリッパ越しにごつごつとした手応えがあり、足の下でぱき、と小さな音が鳴った。全身に鳥肌が立ったが、同時にもう手遅れであることは明白だった。だめだ。男は咄嗟に思う。この個体はもう売り物にはならない。ならば処分するしかない。自分の手で。
男は覚悟を決めて、足の下にあるそれをさらににじり潰す。未練を断ち切るように、足先は執拗に動く。プラスチックが割れるような硬く重い音が何度か鳴る。とても命が崩壊する音だとは思えなかった。
音は徐々に軽くなっていく。大きな塊が割れて小さな欠片になり、そしてそれらがさらに砕けていく音なのだと男は察した。瞬間、男の足裏に激痛が走った。思わずその場にしゃがみ込む。スリッパを脱ぎ足の裏に触れると、指先にわずかにぬるぬるとした感触を覚えた。男の意識はさらに覚醒する。すべての感覚が研ぎ澄まされていく。
「アレクサ電気!」
男は半ば怒鳴るように声を発した。アレクサが定型文を読み上げながら寝室の電気が点く。明るさに目が眩みながらも男はなんとかまぶたをこじ開けて指先を見た。まだ酸化する前の鮮血が付着している。痛みの強さに比して、笑ってしまうくらいかわいらしい血痕だった。
おそるおそる足元を見る。今の数十秒で何が起きたかわかっていたにも拘らず、脳は目から送り込まれた光景に驚愕するように思考を放棄していた。
目の前には潰れたオオクワガタがいた。二本とも折れてしまったアゴ。片方は中ほど、もう片方は根本から。上翅は割れ、その下から下翅がぐちゃぐちゃに丸まったセロハンテープのようにだらしなく飛び出している。ちぎれて本体から外れた脚はそれ単体が意思を持っているかのようにうねうね動き、ほんの少し前までそれが確かな生体であったことを示している。ひび割れ、欠け、砕け、歪に潰れた物言わぬ本体は、生きていた頃の姿よりも生命としての生々しさを感じさせた。
微かに甘いにおいが男の鼻腔を掠める。それが毎日嗅いでいる昆虫ゼリーのにおいだと気づくまでに少し時間を要した。そして気づいた瞬間、においは土臭さに上書きされた。
本体からは黄味がかったペースト状の液体が僅かに飛び出している。破裂した消化管からそれがびゅっと噴き出す瞬間を男は想像する。イラストでしか見たことのないオオクワガタの断面図からこの生々しい液体が出てくる様子はどこまでも現実味を欠いており、現場の凄惨さを脚色するために用意された人工物のようだとさえ思えた。黄味がかったペーストの下には、透明かつ粘度の低そうな液体が薄く伸び広がっている。土臭さの奥から生臭さが立ち上る。
男は呆然としながらその光景を眺めていた。砕けた脚が完全に動きを止めてから我に帰る。後悔とも懺悔ともつかない感情が去来し、男の脳内には咄嗟に謝罪の言葉が浮かぶ。
それはこの個体を成虫まで育て上げた男自身の尽力に対する謝罪だった。この個体はあくまで男が用意した環境にただ乗りしてすくすくと育っただけなのだ。生物の本能を満たす幸福な環境は、男の時間や金や労力を犠牲にした上で成立している。与えてもらっているだけの存在が、恩を仇で返すなんて。人間の言葉も倫理も哲学も伝わらないその存在に傷つけられた足裏の痛みは増していく。
オオクワガタを踏みつけたスリッパには穴が空いていた。百円均一製の粗悪な靴底が、一匹平均一万円でペットショップに卸している自慢のオオクワガタの堅牢な体に勝てるはずもなかった。折れたアゴが縦に突き刺さったらしい。床にも抉れたような傷がついていた。
無惨な死体を男は拾い上げ、そのままゴミ箱に捨てた。男の精液を受け止めたティッシュ、惣菜パンや菓子の包装、使用済みの綿棒やフロス、汚濁にまみれたごみの上に死体は横たわる。
フローリングの継ぎ目に入り込んだ体液は、その上にウェットティッシュを滑らせるだけでは継ぎ目の上を伸びていく一方だった。男は覚悟を決め、ウェットティッシュ越しに爪を立て、継ぎ目をなぞっていく。床に顔を近づけるたびに、あの生臭いにおいが先ほどよりも強く漂う。確かな腐敗の気配。足裏に空いた穴にその液体が侵入してくる様を男は想像し、そして身震いした。傷口を中心に膿み、そして黒く壊死していく皮膚。
散らばったアゴ先や脚は指でつまんで一緒に回収した。節や棘が指先を鋭く撫でる。手は何度ハンドソープで洗ってもきれいになった気がしなかった。日々オオクワガタの生体や、彼らが溜め込んだ糞に触れているにも拘らず。目覚ましが鳴るまであと一時間。
ベッドに入った後も一度興奮した意識は落ち着かず、男は頭の中で先ほどの感触を何度も確かめていた。スリッパ越しに、命を奪った感触。バキバキと体を蹂躙する音が、足裏から骨を伝って脳にまで届いた。これまで幾度となく「不良品」を殺してきたが、自分の足で踏み潰したのは初めてだった。死体を捨てた今も、自分が殺したのだという実感は薄いのに、あの音と、感触だけは確かだった。
逃走を図ったのはAランクの個体だった。中身が空になったケースには、種類、累代、羽化日、サイズ、そして製造コードが手書きで書かれた付箋が貼られている。
ゼリーの食いつきがよく、また、食べるのも異常に早い個体だった。昨晩踏み潰したときにはまったく過らなかったオオクワガタの個性が今更男の脳裏を駆け巡る。
アゴは完全なシンメトリーかつ太く張り出し、色艶もよかった。血統的にもっと大きくなるかと期待していた。あと5ミリ大きければ、間違いなくSランクとして数万円で卸していた。ここまで形のいい個体を一万円程度で卸してしまうのはもったいなく、とりあえず繁殖に回してみようかと思案していた。
男の目に涙の膜が張る。昨日、最初に踏みつけてしまった時点で足を離していれば。傷ついた個体であったとしても、繁殖ならばできるはずだった。どうして昨晩の自分は冷静な判断ができなかったのか。どうして雑魚個体ではない可能性を考慮できなかったのか。ゴミ箱の最上部に横たわる死体。シンメトリーだったアゴは今やばらばらに折れ、縦横無尽に亀裂の走った体の色艶はもはやわからない。
外に逃げ出さなかっただけよかったと思うほかなかった。この部屋だけで完結している生態系を野に放つということは、男の矜持が許さなかった。自分には命の管理者としての責務がある。この部屋の最高責任者としての。
飼育ケースの蓋は開いていなかった。男は再度すべてのケースを確認したが、蓋を閉め忘れているものはなかった。そもそも閉め忘れるなんて初歩的なミスを本当に自分がしでかしたのか、男は今も懐疑的だった。ただあの個体が脱走したのは紛れのない事実だ。今も男の視界の端には昨夜自分がにじり殺した死体の眠るゴミ箱がある。
ダイニングの約半分を占める飼育スペースで、繁殖中のペア以外の各個体は個別のケースに収められている。オオクワガタの強固な縄張り意識では、同じケース内で複数匹を飼育することは難しかった。ほとんど同じ形のケースが縦横にずらりと並ぶそこは、男の住む単身者向けマンションを想起させる。
男は今飼育しているSランクの十匹を順番に眺めていく。アゴ、色艶、サイズ、どれをとっても外れ値で、さらに傷も凹みもひとつもない。男と奇跡が手を組んで創り出した完品。
完璧とは一種の奇形であるのだと、これらの個体をみると実感する。ショップの引き取りを待っている「商品」も中にはいる。そうだ、そいつらじゃないだけよかった。
きっとあれくらいの個体ならまたすぐに羽化するだろう。Aランクなら。あの個体は、男に啓示を与えるために死んだのかもしれなかった。この副業を始めて十年になる男の無意識下で育っていた驕りや慢心を咎めるための、仕方のない犠牲だったのかもしれない。
男とオオクワガタの出会いはひどく蒸し暑い夜だった。社会人になって数年、新人と呼ばれる期間を終えて、ただ働くだけでは誰からの評価も得られなくなった頃。男にとって、労働の意味は生活の担保以外に存在し得なかった。ただ自分に与えられた席に座り、与えられた業務をこなす以外のことが自分にできるとは思えなかった。与えられる業務の量も質も変わらないのに、それでも与えられた席での肩身は狭くなっていく。
目的、やりがい、成長。あらゆる言葉を駆使して目を輝かせる同期たちに嫌気が差し、そこに同調できない自分自身にも嫌気が差し、この世界で生きているにも拘らず自分が巨大なシステムの代替可能な部品としてすら存在できていないような、そんな徒労感に苛まれた帰り道で、男はオオクワガタと出会った。
逃げ込むように入った量販店の片隅で、ゼリーにまみれて値引きされていたオオクワガタのペアを買った。仕事から逃げ込むために日々見ていたショート動画の影響で、いつかは自分も飼ってみたいと考えていた。最初は、ただままならない現実から目を逸らすための手慰みでしかなかった。小さな命を手中に収めることで、気のせいかと思うほど小さな自己効力感を得られていれば、それでよかった。
仕事から帰ってきては、オスがメスに襲いかかる様を眺めていた。強靭なアゴで挟まれて体にいくつもの傷をつけたメスは、やがて満足に動き回ることすらできなくなり、オスの暴力を受け入れるしかなくなっていった。オスは近い未来にこのメスを殺してしまうだろう。子孫を残す前に。でもそれでよかった。今その瞬間だけでも現実から逃避できていればよかった。
だが、メスはそのような状況下でも産卵木にいくつもの卵を産み付けた。この番いがいつ生殖に及んでいたのか男には見当もつかなかった。男が暴力だと認識していたものの中に、生殖が紛れ込んでいたのかもしれない。
メスがとうとう暴力に耐えきれず絶命した後、行き場をなくしたオスはケースの中を暴れ回り、何度も飛翔を試みてはケースの天井にぶつかり墜落していた。力の矛先が潰えた無力感を、そして喪失の悲しみを全身で体現するように。オスはオスなりの愛し方で、メスと向き合っていたのかもしれない。飽和した愛がその輪郭に暴力を宿したのかもしれない。男に見えていたのは外側だけなのだ。生殖本能と慕情を結びつけることほどばかげたことはないとわかりながら、それでも男はオスに愛を見出す。自己責任論に満ちたこの世界で、他者を都合よく支配し、所有することを愛だと呼んでみせる。それが蹂躙なのだとは考えもせず。愛とはおしなべて他者への侮りであるのだと、男はオスに出会って思い至った。
白いBB弾のような卵から孵った幼虫たちを菌糸ビンに入れる。菌糸で覆われた真っ白な人工子宮の中、幼虫たちは菌糸が分解した朽木を口に運ぶ。躯体の周りは高粘度の茶色い糞でべたべたに汚れていく。幼虫たちは行き場のないビンの中でその身をうねらせながら、ただ貪り、排泄し、そして肥え太る。
男は菌糸と幼虫が共生するために力の限りを尽くした。エアコンと温室を駆使し、温度を0.1度単位で統制した。湿度を一定に保ち、光を遮断し、徹底的に環境を管理した。そこには目的があった。やりがいがあった。成長があった。現実世界で男が手に入れられなかったすべてがあった。男は幼虫たちを愛でながら、同時に自分自身に初めて生まれた自主性と、魂の底から湧き出すような自信を愛でていた。
やがて羽化を迎えた日、男は人工蛹室の中で黒く色づいていく成虫を見て、背筋に電流が走るような感覚を覚えた。画面の向こうでしか見たことがなかった、80ミリを超える暴力的なまでのサイズに、傷一つない漆黒の装甲。父親の形質をよく受け継ぎながら、父親のすべてを上回った個体。
男はケースの中に奇跡を見た。
しかも自分は奇跡の観測者ではなく、引き起こした創造主だった。
そう気づいた瞬間、男はかつてない全能感に支配された。
以来、男はオオクワガタを愛でることをやめた。観察は確認となり、自主性は義務に姿を変えた。スプレッドシートを開き、オスとメスの交配を「ライン」と呼び、親のサイズと累代のアルファベットを血統コードとして記録し始めた。
劣った個体は間引き、優秀な遺伝子だけを純粋培養していく。男は自分が作った箱庭に神として君臨した。そこでは優生思想こそが正義だと讃えられた。人間の世界では決して口に出せない思想。
職場の隣席でいつも電話番をしている障碍者雇用の先輩の姿が、そして彼女に押し付けられてきた数々の雑事が頭に浮かんだ。「あたしそれできひん、ショーガイ者やもん」が口癖だった彼女。そのような怠慢は人間にしか許されない。彼女は自分がそこに座っていることに最大の価値があるのだと理解していた。人間の世界にしか存在し得ない価値。彼女がこの箱庭に生まれてしまえば最後、男の手によって処分されていただろう。しかし当時の男は自分に仕事を与えてくれる彼女に感謝していた。彼女がもたらす利益にも不利益にも男は何の関心も持たず、だからこそ職場の誰よりも平坦な姿勢で彼女と向き合っていた。
彼女は数年前に「家庭の事情」で退職していった。送別会で男は部署一同のものとは別に、個別の贈り物をした。一切他意のない、心からの謝意だったにも拘らず、彼女はあけすけなため息を吐いた後、「障碍者ってほんま舐められんねんな」と受け取りを拒否した。障碍者、という言葉がその日だけは凛然としていた。「非モテ拗らせてる男ほんまキモい」と吐き捨てて去っていく彼女の、右足を引きずって歩く姿を男はぼんやり眺めていた。その視線に男の意図は何もなかった。ただ目の前で動くものを、追っていただけ。彼女が振り返ることはなかった。
男はその日の帰宅後も、いつもと同じようにオオクワガタの世話に勤しんだ。数世代にわたるインブリードによって誕生してしまった奇形個体を処分し、空いたケースに羽化したばかりの定型個体をあてがった。彼女が食べるはずだった焼き菓子はその日のうちに完食した。ビニールに包まれた奇形個体の死体とともに、焼き菓子の包装をゴミ箱に押し込んだ。
命の選別の果てにあったのは青天井の承認だった。数々のコンテストに出場し、いつしか男はブリーダー界隈で一目置かれる存在となっていた。自分の生み出した命に値段がつき、価値がつき、それはやがて創造主である男の価値そのものと化した。
久々の深酒だった。大学の同窓会で、男以外はみな結婚し、子を為していた。久々に家庭から離れられたとめいめいに声を上げ、そして会合は終電まで引き延ばされた。育児や結婚生活の愚痴は止まらず、決まってそれら話題は男への「おまえはええよな」で締めくくられた。
しかし、濃淡はあれど、みなが本気で結婚や育児を後悔したり、妻や子を憎んでいるわけでないことはすぐにわかった。マウントのために男を話のオチに使ったわけでないことも。男の子が欲しいと宣言していた同級生は、娘が生まれてからその子を「うちの姫」と呼び溺愛していた。三歳になっても発話しない子供についに発達障害の診断が下りた同級生は、「それでも自分のかわいい子に変わりないからな」とうそぶいてみせた。誰よりも眩しい顔で。その同級生のスマートフォンのホーム画面に設定されていた子供の顔は、男の頭の中で次に見せられた別の同級生の子供の顔に即座に上書きされた。
「大学んときはみんなおまえが一番早く結婚すると思ってたのに、人生何があるかわからんよな」
在学中、男はずっと一人の女と付き合っていた。男と彼女、二人に関わるすべての人間が二人の関係を知っていた。彼女は男との結婚を切望していた。二人の間に起こるすべてのできごとが、結婚へ向けた通過点であるかのように彼女は振る舞った。
卒業が近づくにつれ、彼女の情緒は激化していった。早く結婚したいと泣き喚き、部屋中のものを破壊し尽くし、そして男にまで容赦のない暴力を浴びせてきた彼女を男が張り手で止めたときの、彼女の信じられないものを見るような目を男は久々に思い出した。見開かれた白目に走る、毛細血管の一本一本が男を責め立てていた。男が彼女をDVしていたという噂は一日で回った。彼女の知り合いは彼女を信じ、そして男の知り合いは男を信じた。
「まさかまだ引きずってるわけちゃうよな? あのメンヘラ」
笑み混じりに窺ってきた同級生に「まさか」と男は返した。「でも俺には向いてなかったんやと思うわ。結婚とか。そもそも誰かと付き合うとか」そう呟く男に向けられる目は、笑みの形をしながらもその奥に微かな憐憫を湛えていた。そのことに気づいてしまった男は自分を責める。せめて鈍感でいられたらよかったのに。
「まあおまえが今幸せなんやったらそれでええわ。今の時代、結婚やって嗜好品のいっこやしな。子育てもか」
あの場に悪意はまったくなかった。ただ幸福の相互確認だけがあった。結婚することも、子を為すことも、独り身でいることも、何もかも当人の認識次第で幸福たり得るのだと。
そうだとわかっていても、最終電車に乗りながら、男の胃の中では酒以上のものが今にも暴れ出しそうだった。結婚するのもしないのも、子を持つのも持たないのも、選択の結果としてそうなっただけだと言い切ることができればこんな思いはせずに済んだのかもしれない。しかし、個人の選択によって変わる未来には限界があるのだと男はいやというほど思い知らされている。そう思い知ることで、ようやく自分は大人になれたのだとも思っている。
だから男はこうなるべくしてなっていた。そこに幸福などというおちゃらけたものが介在する余地はなかった。世間が喧伝する多様な幸福の形は、男にとってもはや現実味を欠いたファンタジーだとしか思えなかった。
スマートフォンを開き、同級生の子に下った診断名を検索する。癇癪を起こして暴れ回る未就学児のショート動画は、あの日男の下宿先を破壊し尽くした彼女の姿にも、あの日ケースの中を飛び回っては墜落していたオスの姿にも重なった。愛。男は酔っ払いのごった返す車内で小さく呟く。自分には愛が足りないのか。愛が足りないから、幸福を感じ取ることができないのか。愛とは決して画一的なものではないだろうと、そううそぶく権利さえ自分にはないように思えた。
帰宅して、寝室の電気を点けると視界の端に黒いものが見えた。またか、瞬時に男は悟る。脳の表面を覆っていたアルコールの膜が一気に剝がれ落ちていく。男は目を血走らせ、視界の端を捉えた。今度は瞬時にどの個体かわかった。
深緑の園芸用ワイヤーでアゴを縛られたオスの個体が、掃き出し窓に向かって歩を進めていた。早くも遅くもなく、ケージ内を歩くときと同じような足取りで。そこには脱走の後ろめたさも焦りも感じさせない。男が近づいても歩く速度は変わらなかった。
特別攻撃的な個体だった。最初のペアリングのときからメスに摑み掛かり、男が無理やり引き剝がしても全身の関節を可動域の限りうねらせて抵抗していた。メスに危害を与えないようワイヤーで縛るときにも随分と暴れ回り、油断した男は人差し指を挟まれて流血した。男は二度とそのアゴが使えなくなってもいい、折れてしまってもいい、という心持ちで縛った。
根本からがっちりと縛られたアゴを持て余すように、オスは男の手の中で上半身をのけぞらせながら抵抗の意を示した。
男はオスの異変に気づいた。脚が二本欠けている。左の前脚と右の中脚。付け根だけ残して折れたそれらを、オスは不器用そうに振り回す。それが自然に折れたものでも何かに引っ掛けたものでもないだろうことは容易に想像がついた。
きっとメスにやられたのだ。メスが持つペンチのような短いアゴは脚を断ち切るのに最適な形をしている。今までも何度か脚を切られたオスを見たことがあった。
あのメスは男の前ではほとんど攻撃性を見せていなかったはずだが、所詮は男が観測した範囲での認識に過ぎない。メスを追い回しすぎた結果、このオスは手痛い反撃を喰らったのかもしれなかった。
男は飼育スペースへオスを連れ戻した。やはりケースの蓋は開いていない。この部屋に誰かが侵入して、故意にこのオスを逃したのだろうか。状況証拠からはそうとしか思えなかった。しかし、それが現実味を欠いた想像であることもまた確かだった。
最近自分は疲れているのかもしれない。胃に溜まったアルコールは男から思考力を奪っていく。男はケースの蓋を開け、そこにオスを戻した。蓋を開けた感触は確かで、やはり完全に閉まっていた。ケースの隅でじっとしていたメスは侵入者の存在に一瞬だけ反応したものの、またすぐに動かなくなった。
脚が欠けたところで生殖能力に変わりはない。交尾は問題なくできるだろう。このままオスのすべての脚が切断される様を男は一瞬想像したものの、そうなれば別のオスをあてがうまでだった。どうなろうと、傷物になったこのオスはもう売り物にはならない。ならば次世代に命を繫いでいってもらうしかない。繫げなくなったら死んでもらうしかない。
オスはまた縛られたアゴを振り上げながら、果敢にメスの方へ歩き始める。自らが暴力の手段を奪われていることに気づいていないのかもしれなかった。
カチャカチャと体同士がぶつかる音が断続的に鳴り、男は数日前に自分が踏み潰したあの感触を思い出す。その中に命が入っているとはとても思えない、プラスチック同士がぶつかりあうような軽い音。それは交尾の音にも似ていた。人間の交尾も、オオクワガタの交尾も、音の質が異なるだけで内実はそう変わらない。外から観察しているだけでは、それが暴行なのか生殖なのかわからないのと同じで。
攻撃性の高いオスとメスの産んだ子供が果たしてどうなるのか、これまで男は考えたことがなかった。遺伝について考えるのはあくまで形質的な特徴だけだったが、気質の遺伝だって当然あるだろうに。今日何度も聞かされた、かつての同級生たちの子供の話を思い出しながら男は布団を被る。沈黙に支配された寝室の中で、暴れ回る子供の映像と、背筋をなぞるような甲高い叫び声が男の脳内を駆け巡り、男の入眠を妨げた。
まただ。今度は男の目の前で事件が起きた。いよいよ第三者のせいにはできなくなった。深夜残業を終えて帰宅した男がダイニングでコンビニ弁当を搔き込んでいたそのとき、ケースの上から飛び立とうとするメスと目が合った。目など合うはずがないとわかっている。白濁したビーズのような目に、これまで意図や意志を見出したことなどなかった。それでも目が合ったと感じた。
メスの羽ばたきには気まずさすら宿っていた。数度の羽ばたきを経て、本格的にメスは飛翔する。男に尻を向けて羽ばたくその姿は、逃亡の切迫を感じさせた。
ダイニングと寝室を分つ引き戸は閉ざされている。二度のヒヤリハットを経て男は学んでいた。ほどなくして引き戸の上に着地したメスは、想定していた逃走経路が断たれていることに気づいたのかそこを右往左往する。
どういうわけか、逃走を試みる個体群は逃走経路を把握しているようだった。ダイニングで生まれ、ダイニングで育った個体群。何世代にも亘ってダイニングで命を繫ぎ、寝室の存在など知りもしないだろうになぜまっすぐそこへ向かおうとするのか。メスは諦めたように動きを止めていた。男に捕獲されるのを待っているようでもあった。
やはりケースの蓋は開いていない。男はケースを持ち上げて、四方をくまなく観察する。どこにも、穴はおろか傷ひとつ付いていない。ケースの中でアゴを縛られたオスが暴れ始めた。
今日のメスも、先日のオスも、一体どこから抜け出したのか。まさか、蓋をすり抜けでもしたのだろうか。馬鹿馬鹿しい想像を、男は鼻で笑う。もしもそんな能力を持つ個体を自分が生み出せたのだとしたら。
男はケース越しにオスを爪で叩く。かつかつ、という軽い音。オスは男の指先に向かって威嚇の動作をし、動かせないアゴを叩きつけ、それが意味をなさないことを悟ると飛翔を始めた。すぐにケースの天井にぶつかって落下する。それを何度も繰り返す。男が爪でケースを叩いたのとは比べものにならないくらい激しい音が鳴る。
オスが何度試みようが蓋をすり抜けることはできなかった。男はつまらない気持ちでケースを定位置に戻した。オスが動きを止めたので中を覗き込むと、ゼリーの上に墜落したオスの両アゴが根本を残してぽっきりと折れてしまっていた。
まるでメスのような姿になってしまったオスはよろよろと歩き始め、自分の足元にあるのがゼリーだと気づくや否や、それを啜り始めた。不恰好に折れたアゴがゼリーに沈んでいく。
何年もオオクワガタのブリードを続けてきて、こんなことが起こったのは当然初めてだった。
ケースに戻したメスは、一目散にメスの似姿となったオスに近づき、その脚を挟んだ。オスは自身の体に起きた異変に気づいていないのか、ゼリーに顔を沈めたまま動かない。あっけなくオスの脚は切り落とされた。
残りの脚も次々と落とされていく。切り落とされた脚がうねうねと動く。執拗な嗜虐は、メスの逃亡を阻止した男への当てつけのようにも思えた。
完全に動けなくなったオスの周囲をメスは這い回る。やがてオスの下に潜り込んだメスは、そのままオスをひっくり返し、装甲の切れ目にアゴを突き立てた。関節の膜が断ち切れる音を男は初めて知った。為す術のないオスの触覚だけが抵抗するように土の上を這いずる。
メスはこじ開けたオスの傷口に頭を突っ込み、今度は膜の内側にある組織を嚙み砕き始めた。じわじわと滲み出てくる、澄んだ色の体液に、黄味がかった脂肪。今し方オスがゼリーに対してそうしていたように、メスはそこに顔を沈めて啜る。
男は総毛立ちながらも、その光景から目を逸らせずにいた。自分が育てているのは、とんでもない生き物なのかもしれない。あの日、自分が初めてオオクワガタを踏み殺した日に嗅いだ死臭がまた漂ってきて、男は食べたばかりのコンビニ弁当を吐き戻した。粘度の高い嘔吐物が便器の水をかき分けて落ちていく。ぐずぐずになった茶色い塊が、それでもとんかつの衣だとわかる。親の味よりも慣れ親しんだパーム油の味が喉の裏に蘇る。流しても底にべったりと張り付いたそれは僅かばかり水面に浮き出すのみで、完全には流れてくれない。
一体何が起こっているのか。生殺与奪を握っているのは自分だけであるはずだったのに。鼻の中にこびりついた死臭が、自分の意思抜きに死んでいったものの気配が、何度でも男をえずかせた。
翌朝、ケースを開けた男は、幻臭で幾度も嗅いでいた死臭よりも何倍も濃縮された臭いを直に食らってまた吐いた。胃の中は空で、黄ばんだ苦い液体だけが男の喉を通過していった。
眠りに就くメスの隣で、惨殺されたオスは体から僅かな体液を垂れ流したまま放置されていた。男は昨晩使ったコンビニの割り箸で死体を摑む。どうしても直接触れることはできなかった。コンビニ弁当の殻に死体を入れ、ビニール袋に入れてすぐ口を閉じた。
ケースの隅に設置している産卵木に産卵痕を見つけた。痕は等間隔に十箇所ついていた。男はケースから産卵木を取り出し、表皮を剝していく。メスが木の中に埋めた卵をひとつひとつ掘り返し、そして孵化用のケースに移していく。
おがくずで均されたケースの中央にぽつんと卵が佇む。ケースの側面にライン名のラベルを貼っているとき、男はあることに気づいた。
卵の両親と、先日男が踏み殺した個体は、すべて同じ血筋を持っていた。外からの血を入れるために、男が知り合いのブリーダーから譲ってもらったオス個体の血筋。性欲旺盛で、どんなメスとでもペアリングが成立した個体だった。男が今育てている個体の半数近くがその一匹の血筋を持っていた。
だからなんだというのだろう。その遺伝子に逃走本能が組み込まれていると考えるのはあまりにも安直だった。それでも、理性とは離れた場所で男の本能が危機を告げていた。
孵化用のケースの中央に鎮座した、白いBB弾のような卵に男は親指を立てる。そのままぐっと押し込んでも大した感触はなかった。おがくずとともに沈んだ卵からはじんわりと液体が滲み出る。液体は周囲のおがくずに吸われていく。命になるはずだった液体。
他の卵も次々に潰していく。指先を濡らす感触すら定かではなくなり、そうして昨晩死んだオスの遺伝子は完全に途切れた。それでも男の動悸は治まらなかった。
産んだばかりの卵を奪われたメスは、それでも眠りこけていた。だらしなく横たわる躯体に男は手を伸ばす。この体の中に、二匹分の体液が収まっている。あのとてつもない死臭を放っていた体液が。そう考えるとにじり殺す気は起きなかった。
目を覚ましたメスは男の手の中で暴れ回る。男はトイレへ向かい、先ほど吐いた胃液と昨晩の嘔吐物が残るそこにメスを放り投げた。白い陶器と黒い装甲がぶつかる鋭い音が鳴った後、メスは入水した。水飛沫とともに嘔吐物の臭いが立ち上る。羽ばたく気配を察知した男は慌ててレバーを回す。嘔吐物は一晩経って随分とふやけていたのか、メスを巻き込みながらあっけなく流れていった。
命が目の前で絶えようが、見えないところで絶えようが、もはや男にとって大きな違いはなかった。
あれからも逃走を図る個体が出続けた。そして、やはりそれらはすべて外様のオス個体の遺伝子を受け継いでいた。男にそれを譲ってきたブリーダーに連絡をする気は起きなかった。連絡したところで、何をどう伝えればいいのかわからないし、自分が狂人だと認定されるのは絶対に避けたかった。
あのブリーダーはどこまで知っていたのか。知っているも何も、このような不可思議な現象、説明されたところで当然信じられるはずもない。こんなことになった今でも男は信じられなかった。
男は殺し続けた。逃走を図った個体のランクが何であろうと関係なかった。殺した後で手応えを確かめるうにその個体のランクを確認した。ランクが高ければ高いほど後悔はかさみ、そして後悔がかさめばかさむほど快楽は増した。取り返しのつかなさは、男の暴力が確かに機能していることの裏返しでもあった。後悔こそが男に確かな愛が宿っていることを証明してくれているようでもあった。
その場ではたき落とした個体は、靴底がゴムでできた頑健なスリッパでにじり殺した。反発の感触はなく、ただただゴムがゆっくりと装甲を侵食し、内臓を穿っていく感触に男は虜になった。
タッパーに入れて冷凍庫に放り込むこともあったし、ケトルで沸かした熱湯をかけることもあった。殺虫剤ではなかなか死なず、粘度の高い排水溝クリーナーがもっとも効率的に死に至らしめられることを知った。空になったケースに逃走した個体を入れ、そこに排水溝クリーナーを浸していく。体の裏側にぴたりと張りついて離れない粘液が、呼吸を侵食し、体を内側から溶かす様を男は恍惚としながら観察した。
しかし、男がもっとも好んだのは、生きたままビニール袋に閉じ込め、そのビニール袋を振り回して壁に叩きつける殺害だった。遠心力と衝撃に敗北した装甲があっけなく崩壊していく手応えと、それでも自分の手は汚さずに済む気楽さ。賃貸の壁紙にどれだけ傷がつこうが構わなかった。破れたビニール袋から体液まじりの装甲や脚が部屋中に飛び散って散々な目にあってからは、何重にも包んで殺した。
ダイニングと寝室を分つ引き戸は常に閉じられていて、もうその道は逃げられないと悟ったのか、逃走個体の標的はダイニングの換気口に移った。換気扇の手前に張り巡らされた防虫網は幾代にも亘りついに食い破られ、とうとう男は逃走を許してしまった。
逃してしまった、という後悔はそう長くは続かなかった。殺せなかった、という後悔がそれを上書きした。殺したかった。自分の手で殺したという事実がほしかった。手応えがほしかった。愛を証明したかった。逃亡は、最も男の尊厳に傷をつける謀反だった。人間の施しを受け取るだけ受け取って、何も返さずに第二の生を歩むなど許されない。生も死も、すべて人間の傍でなされるべきだ。
しかし、オオクワガタなど到底住みようもないこの街で、一匹が野に放たれたところで何かができるはずもない。一生番いになれないまま、子供も持てないまま、野垂れ死んでしまえばいい。
殺して殺して殺して、ひとつの血筋はやっと潰えた。もう殺す必要はなくなった。なくなってしまった。
男は寝室とダイニングの間の引き戸を再び開け放した。殺戮が日常から消えて自分がどうなってしまうのか、男の怯えに反して安穏はあっけなく生活に馴染んだ。
部屋中にうっすらと馴染んでいた死臭が換気されきった頃、男は自分の中に根付いた殺戮の衝動を完全に忘れた。男の履くゴム製のスリッパの底に溜まった夥しい数の魂を、壁紙に刻み込まれた永遠のような断末魔を、男が顧みることはもうなかった。
日々はしたり顔で過ぎていく。男は今日もメスが産卵木に産みつけた卵を採取していた。白いBB弾のようなそれを、逆作用ピンセットでつまんでそっと孵化用のケースに移す。少しでも力を込めたら壊れてしまう卵。こんなにも脆弱な存在が、二年という時間をかけて屈強な体を手にいれるその神秘。自分がその創造主であることに、男は今も新鮮に酔いしれることができる。逃走など考えつきもしない、ケースの中が自分の世界のすべてだと信じきっている個体群の前でなら。
窓ガラスに何かが激突した振動が部屋中に響く。驚いた男が寝室に目を向けても、電気の点いていないそこに変わった様子は見つけられなかった。再び振動が響く。暗がりに目をこらすと、窓ガラスに重なって何かが蠢く影が見えた。それが部屋の外なのか内なのかはまだわからない。男はおそるおそる立ち上がる。
男の手から離れたピンセットはゆっくりと落下し、そして先端がケースの中央に突き刺さった。卵を貫通し、おがくずを貫通し、そしてプラスチックの底面に到達し、弱々しい音が鳴る。貫かれた柔い膜からおがくずに滲みていく体液。これから男の絶え間ない愛を受け取るはずだった、ひとつの命。
(了)