
アワーミュージック
金原ひとみ
(編集部より)本作には暴力、性加害を描いた場面があり、お読みいただくにあたって、強い精神的負荷を伴う可能性がございます。 ****** えーすげー。ガチ? トシヤは声を上げながら、私の指示通りロープで引き寄せた船体を摑んで、桟橋からクルーザーに乗り込む。後に続くミツオも、足元を確認しながら慎重に飛び移った。ヨリが乗り込むのを手を貸して手伝うと、皆にライフジャケットを配り、エンジンをかける。

おまえ絶対ろくな死に方しないよ、というのは環太が兄に言われた言葉だ。
二つ年上の兄は環太を傷つけるためにそれを口にしたのだけど、野球部の先輩から借りた漫画で覚えたばかりの台詞を使ってみたいという気持ちもあり、というかむしろ声が口から発される時にはそちらの方が大きくなっていた。それはどこか誇らしげでもある態度から見て取れて、環太は投げつけられた言葉の中身よりも、兄のフンッといった表情の方に腹が立ち「死ね」と短く吐き捨てた。そのタイミングで缶ビールとイカ刺しのパックを手にした父が台所から入ってきて、「あにきに向かって死ねとか言うな、あほ」と環太の後頭部をはたいた。
決して強い力ではなかったものの、風呂上がりに乾かした髪の下にうっすら汗をかいていた、その頭皮をべろりとなでつけられるような叩き方は、手を出した父や傍から見ていた兄が思う何倍も不快で、環太はあの気持ち悪さを大人になった今でも許していない。(——わざわざイカ刺しのパックをテーブルに置いてから叩いたな。)
環太は他にも様々なことを根に持っていたから、自身でも苦しかったろうと思う。それにしたって絶対ろくな死に方しないよ、などと言われるような極悪非道を働いたことはなく、捻くれつつも平凡などこにでもいる子として育ち、大人になり、まあ大人になっても捻くれたままではあったのだけど、所詮関わった人を軽く苛立たせる程度の捻くれで、殺意と結びつくような憎悪をかき立てるほどの無茶を言う人間ではなかった。
だから環太が本当にろくな死に方をしなかったのはたまたまであり、実際生き様との因果関係はほとんどなかった。ある意味で兄の憎まれ口が予言になってしまったわけなのだけど、環太享年二十五歳のその時、兄は自分が十代の頃に発した憎まれ口などとうに忘れ、若くしてこの世を去った弟の死に涙を浮かべ……ようとして自然には浮かばず、薄情な自分の心に恥じ入り目と耳と頰を赤く染めていたのを、葬儀に集まった親族らが認めて感情の内訳を勘違いし、ますますの涙を誘った。環太の雇い主である社長も、へえー兄弟仲がよかったんだな、と思い同情した。
というのを私は卓上から眺めていた。通夜振る舞いで供された寿司桶の中から。
環太はイカを喉に詰まらせて死んだ。窒息死だった。そして私が、そのイカだ。
イカには幼生がない。卵の外へ出てきた初めから、親と同じ姿かたちをしている。ウニやカニのようにプランクトンとして海を漂う期間はなく、初めからイカはイカとしてある。それはどうやら人間も同じらしく、環太も母の股から産み落とされた時から人間の形をしていた。頭がひとつあって腕が二本あって脚も二本あった。随分と小さかったが。
私は環太が産み落とされたその瞬間を目撃したわけではないが、四日の入院を終え、新生児の環太を真白い布に包んだ母親が帰宅した、その時にも冷蔵庫にはイカ刺しが入っていたため、まあほとんど誕生した当初から見ていたと言える。寿命一年のイカにとっての四日と違い、長命な人間にとっての四日など誤差だろう。
イカ刺しは父親の好物であるし、母親は海鮮全般が好きであって、魚屋から発展したスーパーが近所にあり海鮮全般が新鮮で安いために、環太の家というかこの近所一帯の各家庭の冷蔵庫にはいつもなにかしら入っていて、この家ではそれがイカ刺しであることが多かった。毎日途切れなくというわけではないし時期にもよるが、七日と空けずにイカ刺しやイカリングが食卓に上った。私が環太を見ていた頻度も、だからそのくらいの間隔だった。とはいえ人間が人間の暮らしをしていただけなので、特筆すべき出来事などせいぜい一つしかない。
環太がアルバイトとして働いていた居酒屋は海鮮が売りで、入口に大きな水槽が置かれ、おすすめの魚やカニや貝が入れられていた。私は入っていない。イカというのはよほど適切に管理された水槽でなければすぐ死んでしまうからだ。常時イカの死体が浮いた水槽など印象が悪い。私は水揚げからすぐ、港にいるうちに死んで、居酒屋では発泡スチロールの箱に詰められ冷蔵庫に入っていた。一度も冷凍されていない生イカを常備しているのも、店のこだわりのひとつだった。環太の家の冷蔵庫に納められていたイカ刺しはだいたいチリ産か中国産で、冷凍で輸入され、売り場に出す前に解凍されたものだった。
初夏のある日、店長がタコを大量に仕入れてきた。まだ若いタコたちだった。卵から出て二週間か三週間か。ひと月は経っていないだろうという大きさ。人間の大人の握りこぶしからややはみ出る程度の体長。それが二十八匹。
「市場にいったらタコが大量に獲れたっていうんで、状態もいいし安かったし、とりあえず買ってきたんだけど」
状態がいい、というか生きていた。全員。うねうねと、発泡スチロールの中で密着し絡み合ってくたくたと。そのうち五匹は入口の水槽に入れられ、客の目に「あ、タコ!」と留まる役を申し付けられたが、二十八匹全部を入れられる広さはない。何匹かは冷凍するとして、せっかくだから新鮮なうちに客に食べてもらいたい、と考えた店長が限定メニューとして打ち出したのが、タコの踊り食いだった。
皿の上にワイングラスを載せ、中に若タコを押し込んだ。タコはまだ細い腕を四方八方へ突っ張り、ガラス越しに吸盤の吸いつきを見せつける。客にはトングと調理用ハサミが提供され、ワイングラスから天に向かってそろそろと伸ばされたタコの腕を、客自らが切り落として食す。
「これ絶対評判になるよね!」
得意げに〈数量限定!なくなり次第終了!新鮮タコの踊り食い!〉と値札を手書きした店長は、こんな店に勤めていながら自身は海鮮があまり好きではなく、居酒屋やファミレスやカフェなど複数の飲食店チェーンを経営する会社に就職したところたまたま割り当てられたのがこの店というだけで、魚が食べられないというわけではないのだけど好みではないため、まかないにはからあげやポテトサラダを選んで食べていた。
環太たちアルバイトに余りものの海鮮を好きなだけ持ち帰らせてくれたし、おおらかで威圧的ではなかったし、辞めるバイトが少ないためにシフト調整も融通が利いた。いいバイト先だった。
一本、また一本と腕を切り落とされていく度、タコはワイングラスの中で身をよじった。どこかへ隠れたがっているようにも、遠くへ逃げたそうにしているようにも見えたが、透明なグラスの中でタコはどこにも行けず、どこにも隠れることはできなかった。切り落とされた腕の長さはまちまちで、人間でイメージするならば手首から先だけを切り落とされた腕もあれば、肩の付け根、というよりほとんど肩ごと切り落とされた腕もあった。
〈残りは唐揚げにして提供します!〉
と最初に説明していたとおり、客たちは思い思いに好きなだけ腕を切り落とした後、胴体は唐揚げにして楽しんだ。厨房に入っていた環太は、本体に生え残った長短さまざまな八本の腕の残りを付けた、なり損ないの達磨のようなタコにトドメを刺して殺した後、その胴体を切り分けて片栗粉をまぶし、油へ投入していった。
腕をもがれたタコの中には、環太がトドメを刺すまでもなく息絶えているものもいたし、腕の全てを綺麗にもがれてもなお逃げ出そうと胴体を膨らませるものもいた。
その膨らんだ胴体に、深々と調理ばさみが刺された状態で戻ってきた一体がいて、あからさまな残忍さに、運んできたフロアスタッフも気まずい顔で「お願いします」と短く言い残して去って行った。そういえばさっきフロアスタッフが回収に行った時「やべーって、これはやべーって!」とやたら騒がしかったがこのせいか、と環太は遅れて納得した。調理ばさみはタコの目と目の間に刺さっていた。
きちいな、と環太が声に出してつぶやくのが聞こえた。キッチンには環太の他に二人のバイトが入っていたけど、タコを揚げる油の音でかき消されるくらいの声量だったために、私しか聞いていなかった。
環太は、翌日はなんとか出勤したものの翌々日は出勤しようとすると頭が痛くなり、部屋から出ることができず、無断欠勤した。そしてそのまま、連絡を絶ってバイトを辞めた。
私はそれらを冷蔵庫から見ていた。タコの踊り食いフェアがその店で行われたのは二日間だけで、その間イカ刺しもイカ焼きもイカの唐揚げもほとんど注文されず暇だったので、じっくり眺めることができた。
イカタコ、とまとめられることが多いが似て非なる。ドイツでは「イカ」「タコ」と分けずに「ティンテンフィッシュ」と呼ぶらしい。イカもティンテンフィッシュ、タコもティンテンフィッシュだ。見た目も味も一括りにされるほど同じではないと思うのだが。
同じではない、と思いつつも、やはりある程度のシンパシーは感じていたのだろう。若タコたちの腕が次々切り落とされていく様、そしてそれをニチャニチャした笑いと共に口に運ぶ人間たちの醜悪さは、見ていて心が潰されていくようだった。いくら冷蔵庫の中できんと冷やされた心臓だとしてもだ。
そういうわけで、環太にまつわる記憶としてタコの踊り食いエピソードを引き出してきたのはやはり、人間や犬や蟬と比べれば、同胞の括りにぎりぎり入るかもしれないタコという種に関する痛みだったからなのだろう。環太の家族との不和や受験、就職の失敗、他の人間も見ているイカからするとそう悲観することもないだろうという人生なのだけど、妙に落ち込み続けている精神状態、続かない恋愛、途切れがちな友情、とまあ明るくはないそれらを、詳細に語る必要はないように思われる。
環太の話は一気に彼の青年期へと飛ぶ。二十五歳になった環太は船に乗っている。帆船だ。
昔の海賊船のイメージ。エンジンではなく帆で風を受けて進む船。その小さい版、といっても最大で八人の大人が寝泊まりできる空間を帆の根本に持っている船だ。アメリカ製のこの船は福岡の販売店が輸入し、動作確認や全体清掃を経て出荷された。それを購入者がいる和歌山まで運ぶのが、環太の仕事だった。
サイズにもよるが、帆船は陸路で運べないことが多い。トラックに載せたところで、縦にしても斜めにしても船体がはみ出てしまうし底が平らではないのでバランスを取るのも難しい。だから海を通って運ぶ。船に積むのではない。航海して自らを運ぶのだ。
乗組員は環太の他にもう一人、櫂という男がいた。環太と櫂は船運びの仕事をする時よくペアを組まされる。櫂自身にも櫂の出生家にも定期的にイカを食べる習慣はなかったために、私は彼のことをあまりよく知らない。彼が大人になってから時折、暗い表情で目玉だけを光らせてスーパーで買った三割引きのパック寿司を食べる、その中の一貫としてその目を見つめ返すことがあるだけだ。歳は環太とそう変わらない。パック寿司を食べる時の目の暗さは、彼が一人だけの時にしか発現しないもので、環太と一緒に船を繰る彼はむしろ磊落とした底抜けの明るさが目にも頰にも宿って見えた。陸よりも海上にいる時の方が力みなぎる人間、というのはこれまでにも見たことがある。珍しくはない。
「やっぱ船はいいなあ」
二日目の航行を終え、港近くのスーパーで買ったおにぎりと唐揚げを頰張りながら、しみじみと櫂が言った。福岡を出発してまだ百海里も進んでおらず、船はようやく下関を抜け瀬戸内海へと進んで行くところだった。環太はパック寿司(私はここだ)へ箸を伸ばし、「かな」と頷く。一見同意しているふうであったが、
「でも、この船はなんだか固い感じがしない? シートを繰る感覚も、舵の回り方も」
と続け、畳んだ帆が垂れるマストを見上げる。
「そうか? おれは別に気にならないけど」
櫂はいい放ち、環太は細かいことを気にする自分の脆弱な性質を否定されたような気持ちになって黙った。櫂が鮭の入ったおにぎりにかぶりつく。口の端からこぼれた米粒が下に落ちる。航行中は毎日コクピットと船内の床や水回りを軽く清掃することになっていたが、昨日も今日もコクピットやコクピットベンチの水撒きまではしていない。寿司を食べる前に手を拭いたのと同じ除菌シートで、目についた箇所を軽く拭いただけで済ませている。環太と櫂が組んで船を運ぶ時は、私が見る限りたいていそうした手抜きがある。環太というよりも櫂がさぼりがちで、けれど環太はそれを咎めるのではなく、体色を変えて敵から身を守る生き物のように櫂の無責任さを擬態した。
環太が就職したのは家具や食器を輸入販売する会社だったが、そこの社長が神戸の船販売店の店長と懇意にしており、新しい船を購入者自らが販売店まで引き取りに来られない場合、こうして船を運ぶ仕事を環太たちにまわしてくる。環太の他にも小型船舶操縦士免許を持っている従業員が何人かいて、というのも社長の趣味がセーリングと釣りで、従業員募集のページにもそれをでかでかと書いてあるから、同好の士が集まっているのだった。社長は五十歳を過ぎているが、週末ごと自分の帆船を動かしている体は引き締まり焼けていて、環太よりはるかに活力があった。自ら船運びの仕事を請け負うこともあり、社長と組む時の環太は掃除も丹念に行う。
二人は日が沈むまで船上で食べたり飲んだりして過ごした。客の船で酒飲んでるなんてバレたら社長に殴られるだろうなと環太は考えはするが、次々にアルコールの缶を開ける櫂を見ているのは、妙に心地よくもあった。暗くなると船内へ入って船尾と船首に分かれた低いロフト式のベッドに入った。この船のベッドは二台あって、それぞれ大人が二人ずつ寝られるくらい広い。今は備え付けのマットレスに持参したシーツを広げた上に寝袋を置き、その中で寝ていた。寝ている間に涎など垂らさぬよう、環太は首を縮めるようにして寝袋へ沈み込んでいたが、ちらと櫂の方を見ると枕元にペットボトルのお茶を置いている。蓋は閉めているようだが、寝ぼけてこぼしてしまわないか、ということが心配にはならない人間なのだった。
仕事でも櫂の方が力の抜き方を知っている。環太が自分にはないゆるめる力を羨ましく思っていることも、私は彼の胃で消化されながら体じゅうの音に耳を澄ませていたから知っている。櫂がてきとうなことを言うと、環太の丹田も促されるようにゆるむのだ。てきとうなことばっかしてんなよ、と口をとがらせて言うこともあったが、心底からの非難をしたことはなく、櫂の方もはははと笑って受け流していた。
そういうわけだから、問題があったその日も環太は強く止めたわけではなかった。直接的に止めてさえいないかもしれない。おまえそれはまずいって、止めとけよ、だめだって——ひとつでも口にしていたか? よくないんじゃないかな、という顔をしていたことは覚えている。
日の出とともに出発の準備を進めていた環太の横で、
「無理だって今日は。午前中ほとんど無風だってよ」
とラジオの天候予報を聞いておおあくびする櫂が手遊びで垂らした釣り糸に引っかかって、私もこの船に乗り込んだ。漁港には釣り禁止の看板があり、それは二人の目にも映ったはずだが無視され、代わりにその目でうるさく注意してきそうな人間がいないかをざっと見渡していた。お、コウイカじゃん。小さいな。後で食お。そんなふうに二人がわたしを囲んで話している最中に、かの女は姿を現した。
女は、どこからか歩いてきたようだった。白地に青のストライプが入った日傘が、漁船ばかりの港に不釣り合いだった。半袖の白いシャツに白いスカートをはいた全身白の姿はイカのようだ——というのは自己顕示欲が出すぎた表現か。そもそも生きているイカはそこまで真っ白でもないので、イカのようだというならば死んだイカの色合いだと言うのが正確だ。
死にイカ姿の女はきょろきょろと辺りを見渡し、一方向に進みながらも右へ左へ体を向けながら、不安げな印象を与える歩き方で近寄ってきた。互いの表情が見える距離まで近付くと、環太と櫂に会釈をした。頭の後ろの高い位置で結んだ髪が大げさに揺れる。二人よりも年若い女だった。
「なにしてんのそんなとこで」
と声をかけたのは櫂だった。
「ちょっと散歩に。旅行に来たんですけど、一緒に来た友だちがまだ寝てるので」
と答える女は、櫂と環太の顔を交互に見ていたが、環太は無視するほどではないもののやや俯いて頷くだけだった。環太は頭上の風見鶏を見上げる。相変わらずの無風。港の入口に掲げられた風見の旗も木立の新緑も、まるで室内に入れられたみたいに大人しい。これは確かに今日の、少なくとも午前中は船を走らせられないかもしれない。元々天候に恵まれなかった場合に備えて、余裕のある航行計画を立てているから半日や一日の足止めは問題ないが、環太が面倒がっているのは櫂のことだった。櫂は女が好きだった。下心から悪さをしようとするのではない。ただただ、女がいると無条件で愛想よく、親切に、優しくしてしまうのだ。
「ホテルって、このへんにあるんだっけ?」
櫂が周辺を見渡す。南には海と漁船、北には古い民家と畑が続く。ホテルどころか商店のひとつも見当たらない。
「あ、駅前のホテルです」
「えーそこから歩いてきたの? 三十分くらいかかるんじゃない」
「そうですね。ぽてぽてと」
「へえ。ね、これ見てよ、イカ」
「え? わっ、イカだ! 釣ったんですか」
「そう。ついさっきここで。コウイカっていうの。うまいんだよ」
櫂が私を高々と掲げ、船のすぐそばまで寄ってきた女に見せる。女は堤防の際に置かれた黄色と黒の縞模様の車止めに片足をかけ、まるでそれだけで身長を伸ばすことができるとでもいうように、顔をつんと上に向けて「すごい」と言った。
気をよくした櫂が「食べる?」とはしゃいだ声をあげ、女は「いや、それは大丈夫です」と笑って断る。ふと背後を気にするそぶりを見せた。女が歩いてきた道には誰もいない。漁師はとっくに海へ出ているし、戻ってくるにはまだ時間が早い。漁船中心の港にとって中途半端な朝の時間だった。
女は目を覚ました友だちが港にやって来ないか気になったのではないか、と私は思った。女はわざわざ「友だち」と言ったが、その実まだ寝ているというその相手は恋人なのではないかという気もした。そういうのは古今東西たくさん見てきたので知っている。自分に興味がある繁殖個体を瞬時に見分け、それに対してほとんど無意識のサービスのように自分はフリーでパートナーを探していると、実際にはそうではないのに、その場限りであればあるほど、振る舞ってしまう。人間の女でも男でもそういうやつは大勢見てきた。もちろん逆もある。聞かれてもいないうちに自分には決まったパートナーがいますと主張する人。変なトラブルを回避するための行動なのだろうけれど、さりげなさが伴わないとその場が急に緊張するというか、白けた感じになるのは、あれなんなんだろうな。
と、イカなりに想像してみたところで本当のところは知りようがないが、女は背後を一瞥しただけで元来た道を戻りはせず、鼻から抜けたような高い声で櫂と話を続けた。
「そういうわけで、これはおれたちの船じゃないの。これから七日かけて和歌山まで運ぶ。和歌山の那智勝浦っていうとこ。知ってる?」
「熊野古道ですね」
「熊野? 山の方の話? そっちはおれあんまり詳しくないけど、多分そう。あ、ていうか上がりなよ。座って話そ」
環太が止める間もなく、「いいんですか!」と女が上がり込んでくる。櫂の手を支えにしつつも、堤防から船へ伸ばされた脚にためらいはなく、白いスカートがはたとなびいた。船が一人分重たくなる。
コクピットベンチに環太と櫂が向かい合って座っていたのを、櫂が環太の隣に移動して場所を空ける。女はゆったりとした姿勢で座り、顔を左右へ振って船内を物珍しそうに見渡した。私は墨対策のためジップロックに密封され、櫂の足元に置かれたクーラーボックスの中に横たえられた。
「わたし、クルーズ船に乗ったのって初めてです」
満足げに言ったのを環太が思わず、
「この船はクルーズ船ていうか、帆船です。セーリング。今は畳んでるけど、帆があるでしょ。エンジンじゃなくて帆で風を受けて走るんです」
と訂正する。ずっと黙っていた環太が急に声を出したので、女は少し驚いた顔のまま「そうなんですね」と頷く。船を見るために乗り込んできたわりに、あまり興味がない様子だった。
「クルージングは旅行とかでするかもしれないけど、セーリングは珍しいでしょ。こっちの方が貴重だと思うよ!」
櫂がせっかくだからいろいろ見ていってよ、と説明を始める。なんですかこの太い棒、ブームって言って帆柱につながってるから帆を操作するのに使って、へー舵で操作するんじゃないんですね、いや舵も使うけどまあでも風任せなところはあるから、などと話しながらコクピットや甲板を見渡した後は、靴脱いでくれたら全然船室も入っちゃっていいし! と短いはしご式の階段を二人で下りていく。環太は外で一人待っていた。開け放たれたままの扉の向こうから響く声を、聞くともなしに耳に入れながら、目は未練がましく無風を示す沈黙の旗に注いでいる。
——ここがキッチン、冷蔵庫も小さいけどついてて、ガスコンロで料理も、あ、で、トイレで、えーシャワーも付いてるんですね、ちゃんとお湯も出るよ、ああそこ頭ぶつけないように気を付けて、ベッドだけっこう大きい、そう寝心地もよくって、小さい窓もついてる、寝転んで星を見上げたり、すっごいロマンティックですね——
「ちょっと寝てみる?」
「えー、いいんですか!」
わーい、と一際はしゃいだ声が上がる。えっそれは、と環太が口の中で小さくつぶやいて船室の中へ首を伸ばす。それからはあと溜息をつき、なにも言わずにデッキに戻り座り直した。さすがにどうなんだそれ、と思ったくせに環太は結局こうなのだ。
——わーふかふか。ていうか広いですね。思ったより奥に……足伸ばしてもまだまだ先があって、沈む感じ……。窓、開けてみていいですか。あ、すみません開けてもらって、わあー。空。空ですね。これは……いいなあ……。
櫂なんていないみたいに、ほとんど全部が女の声だった。
「よ」
と櫂が船室から顔を出す。短い梯子を上って出てきて、環太の隣に座る。一人だった。
「あの子は?」
「なんか一人で、ベッドで目え瞑ってみたいんだって」
「はあ。一人で? なに、寝不足ってこと」
「じゃなくて、雰囲気を味わいたいんじゃない、船の。ちょっとの間だけでいいって言ってたから、多分すぐに……あっ、もういいの? どうだった? な、気持ちいいよなー」
後半は梯子に足をかけ首から上を出した女の方に向かって言った。女はニコニコ笑いながら出てきて、
「すっごくおもしろかったです!」
と満足気に息を吐くと、環太と櫂の向かいの席に座る間もなく、スカートのポケットからスマホを取り出し、
「友だち、起きたみたいなので帰りますー」
と言い残して、元来た道を歩き去って行った。行っちゃったなー、なー、惜しかったな、いやなんも惜しくないだろ、ていうか惜しいってなんだよ、と環太と櫂が言い合い、けれど昼前に無風の予報が外れてわずかながら風が出てきたので急ぎ船を出してからは、そんな朝があったことすら忘れた様子で航行に集中した。櫂は翌日もコウイカを釣った。
なに女連れ込んでんだよふざけんな! と、怒鳴り声の社長から電話がかかってきたのは、この二日後のことだ。
女の名前はタマミというらしい。環太はそれをインスタのアカウントで知った。
〈Tamamiです。趣味*旅行〉
というシンプルなプロフィールで、フォロワーは253人。プロフィール画像はタマミの後ろ姿だった。青い空に白い服が映えている。あの日見たのと同じ上下白の服。死んだイカと同じ彩色のセット。
タマミが現れたあの日釣りあげられたコウイカは、その日のうちに環太と櫂の二人においしくいただかれた。櫂はイカを捌くのは初めてだったが、釣った魚を捌くのは慣れているので、スマホで検索した動画を見ながら迷いのない手つきで包丁を入れた。さすがに血や墨で汚すとまずいと思ったのか、船内ではなく堤防にしゃがみ込み作業した。環太に手伝えることはなく、櫂の頭に注がれる強い日差しを眺めていた。
太めの素麺状にした身を箸で口に運んだ櫂が、「久しぶりに食ったけどイカ、うまいな」としみじみ感動し、その感動のまま翌日もイカを釣り上げた。そちらは一気に食べずに半分残して冷蔵庫に仕舞った。櫂の胃と環太の胃と新品の匂いがする冷蔵庫の中で、それぞれの私が感覚を研ぎ澄ませている。
聞こえるのは呻き交じりの溜息ばかりだ。
「どうするよこれ、どうする……」
「どうするったって、なんもないのにこんな、一方的にキレられて」
「なんもないけど、まじでなんもないけど、証明できないだろそんなの」
タマミがインスタにアップしたのはこの船のベッドで寝そべる姿の自撮りだった。足元へ丸めて押し込んでいたはずの寝袋を折り畳んで枕にし、ゆったりと頭を乗せたタマミは目をつむり、心地よく寝ている、ように見える。
フレームの外にぐんと伸ばした腕で斜めから寝たふりしている自分自身を撮っているだけなのだけど、説明なしに受け取れば、船内にいる別の誰かがタマミの寝顔を隠し撮りしたふうにも見える。タマミの偽の寝顔は開かれた小窓から差す日の光でぴかぴかと輝いていた。投稿には、
〈散歩中にたまたまお友だちの船に遭遇! お邪魔しちゃいました。ベッドふかふか! 船にはお風呂もキッチンもついていて豪華。わたしもこんな船でクルージングしたいー〉
とキャプチャが添えられている。だからクルージングじゃなくてセーリングだよ、と環太は苛立ち、腹の中の温度が上がる。いくつかついている返信の中には、
〈見たところ帆船みたいだから、クルージングじゃなくてセーリングね〉
と指摘しているコメントもあるが、タマミからは無視されていた。それよりも、
〈船持ってる友だちいるとかやばい。〉
〈散歩中にたまたま遭遇は噓過ぎる〉
〈彼氏の船? ばっちり寝てるやん〉
〈散歩中にたまたま会ってベッドで寝るってどういう関係……?〉
とタマミの噓に対してのツッコミの方が多い。
フォロワー数はたいして多くないものの、鍵をかけずオープンにしているため世界中誰でも見られる状態だった。タマミに興味がある人たちが見たというより、投稿に付けていた〈#海 #クルーズ船 #船 #航海〉のハッシュタグをたどってきた誰かが撮った画面ショットが、別のSNSに再投稿され、帆船なのにクルーズ船とか言ってるばかがいる、という調子で拡散された。
何千人、何万人が見たわけではないのだけど、何人目かの拡散に関わったのが、帆船界隈のユーザーの大勢からフォローされているアカウントだったため、この船って和歌山のあの人が買うって言ってた船と同じ型のやつだな、と気付いた人がおり、そこから情報は和歌山へ、そして船販売店や社長へと巡り、タマミが投稿したいくつかの写真のうち、堤防から引きで船の全体を撮った一枚の中に環太と櫂が映り込んでいたことが決定打となりばれた、というのが騒動のあらましらしい。
私は環太と櫂の会話からそれだけのことを理解し、ばかばかしさに溜息をつきたくなったが、口に当たる部分は昨夜食べられてしまったので沈黙しているほかない。
「まじでなんもないのに、こんなキレられて」
と櫂は繰り返すけれど、買主側からしたら信じられるわけないだろう。
自分が手に入れた船、恐らく高額で、そして金額以上に「自分の船」を持つために、多くの労力をかけたはずだ。中古とはいえわざわざアメリカから取り寄せ、福岡から和歌山まで運ばせて手に入れる。金も手間も時間もかかっている、まだ自分では一度も乗り込んでいない船。
そんな大切な船に、孫請けのよく知らないスタッフが女を連れ込んだ。まだ買主が触れてもいないベッドに寝かせた。いや寝かせただけで済んでいるわけがない。具体的になど考えたくもないが、友人とたまたま(偶然会ったわけなどないが。地元の人間でもないのに港に偶然にいるわけがない)会ったとして、デッキに上がらせるくらいはまだ分かる。嫌だが。すごいね船乗せてよと頼まれても、本来であればこれは人の船で仕事で運んでいるから乗せられないと断固として退けるべきだが、その場のノリでデッキまで上げてしまって写真を撮った、ということなら理解はできる。許す余地がある。しかし船室は? 靴を脱いではしごを下りなければ入れない、台所にトイレにシャワー、ベッドがあるプライベートな居住空間。本来であれば船運びスタッフにも入ってほしくないが甲板で寝ろというわけにもいかないから仕方なく使わせている、あそこに他人を入れるなど、ありえるか? ——買主がそう考えるのは自然だった。
「おまえらが弁償しろ」
社長の声はスピーカーにしてもいないスマホから、だけど環太にも私にもはっきりと聞こえた。スマホを耳に押し当てているのは櫂の方で、強く強く握っていれば「大丈夫」になると信じているような力の入れ方だった。環太は呆然と俯く櫂の横顔とその手に握られたスマホを見つめていた。
買主はたいそうお怒りで、誰かの手垢のついた、ましてや見知らぬ女を連れ込んだような船は汚らわしく、自分や家族が夢の船として乗るわけにはいかないと話していること、そのため船を購入し直す方向で話が進んでいること、幸いにもアメリカ本国の方に同じ型の中古船が色違いではあるけれど残っており、来月にも輸入の手配が可能と確認できたこと。社長が怒りをはらんだ声で説明する。
「そういうわけだから、今運んでる船はいらなくなった。というかおまえたちに買ってもらうから、おまえらの船にしろ」
いくらですか、と尋ねる櫂の声が震えている。告げられた額は、二人の一年分の給料を足してもとうてい足りない。
電話を切ってすぐ、櫂が「貯金、ねえよ」とつぶやいた。環太は実は堅実なのでまとまった額の貯金を持っており、とはいえその全額を出しても船の金額には全く届かないし、そもそも、これって俺も金出さなきゃいけない話なの? と思っていた。それを私は栄養として吸収された彼の体内で感じる。女を、タマミを船に乗せたのは櫂だ。目を離した隙にベッドに上がられて、写真を撮られたのも櫂のせいだ。止めなかったおれも悪い? 悪い、かもしれない。だけどそれって、金を根こそぎ取られるほどの悪さなのか?
その日は停泊した港から動かなかった。風は気持ちよく吹いていて快晴。航海すれば、うんと距離が稼げたはずの日だった。
櫂がまたコウイカを釣った。私を見た環太は顔をしかめて、
「釣りなんかしてる場合かよ」
と苦々し気に吐き捨てたけれど、この後環太だって私を食べる。櫂は不機嫌そうに「だって暇だろ」とつぶやき、しかし睨み続ける環太の視線を気にして、釣り道具を足元に置いた。
タマミと会った日の午後、僅かながら戻った風を使って短い航海をしたのと、翌日は朝から快風でよく進んだのと、合わせて一日半で六十海里進み、今ここは瀬戸内海のちょうど真ん中辺りの島だった。本州にも四国本土にもしまなみ海道にも瀬戸大橋にも接していない、船でしか行けない島なので、人間が少ない。こういうところに船を浮かべると、コウイカはおもしろいほど釣れる。釣られた私だけではない、無数の私たちが海の中から表情をなくして佇む環太と櫂を見つめていた。
「とりあえず和歌山まで行くしかないんじゃないか」
環太が言った。本当にとりあえず言ってみた、という自信なげな口調だった。
「ここで連絡を待ってても仕方ないし。とにかく和歌山まで行って、買主の人に謝って、まじでなんもないんだって、一瞬船に乗せて写真撮られただけだって説明して、許してもらって」
「でももし許してもらえなかったら?」
「なに?」
「説明しても、信じられないし絶対許さないって言われたらこの船は? おれらの船になるんだろ。こんな高い船。金もないのに。社長は多分給料から天引きしていくよな、払わなかったら。ていうか仕事? 続けられんのかな仕事。まさかクビとか」
「そんな話にまでは、なってなかったと思うけど」
「今のところだろ。まだクビって言われてないだけでこの後言われるのかも。で、船。いらないって言われたら、和歌山から福岡までまた運んで帰るわけ? 何日かかるんだよ。しかもそれって業務扱いにならないだろうから有休? そんな何日も取れねえよ。てことはやっぱりクビ?」
櫂は環太に向かってというより自分自身に問いかけては答えるようにして話し、環太も途中から口をつぐんでいた。はああああっ、と大きく音を立てて櫂が溜息を吐く。
これは環太から聞いたわけではなく、食卓から眺めたり環太の体内で消化されながら見聞きし感じたりしたことの蓄積なのだが、環太は櫂のことがわりと好きなのだ。二人は歳が近いが、先に会社に入っていたのは櫂の方で、というのも櫂は大学には行っておらず高校を卒業してすぐ働きだしたからだった。四年制大学を出た後別の会社に一年勤めてから転職してきた環太より、五年も先輩になる。
櫂は優しかった。仕事を教えるのは上手くなかったが根気強く励ましてくれたし、船運びの仕事でタッグを組むようになってからは、五年の経験の差はだんだんとほどけてなかったことになり、ため口でいいよと許されてからは話し方の緩さから、態度も緩和されてますます親しく近しい。
だから知っている。櫂はタマミが自分好みの女だったから親し気に声をかけ、船に乗せたわけではない。櫂は女が好きだけど、タマミが自分より若い女じゃなくて、例えば近所を散歩に来た年寄りや中年の女でも「こんにちは」と声をかけたはずなのだ。港の朝。その場にいた人だったら誰でも。
その先に下心が一切なかったかというとそういうわけではなく、あーこの子かわいいな、あわよくば仲良くなりたいな、も恐らくあった。けれど一歩目は櫂の通常どおりの親しみやすさからスタートしていた。そのことを環太だけは理解している。
櫂と親しくなり二人で飲みに行くようになったが、環太はビールの味も焼酎の喉にくる感じも苦手で、飲めないことはないけど苦手だという顔をしていたらあっさり見抜かれ、無理して飲まなくていいからとウーロン茶を頼まれるようになった。環太はなぜかワインだったらおいしく飲める舌の持ち主なのだけど、酒はワインしか飲まないと言うと、お高くとまっていると思われそうなので、滅多に口にすることはなかった。ワインなら安かろうが高かろうが全部おいしく飲めるので、時々コンビニで千円もしないボトルワインを買って船に持ち込むことはあった。櫂の方は逆にビールも焼酎も日本酒も好きだがワインだけは飲めなかった……と、なんの話だったか。そうだ。環太が櫂を嫌いではなかったという話。
好き、という環太の感情は親しくなればなるほどに雑多な不純物を含むようになった。それは単に海で会う時間よりも通常の仕事を共にする時間の方が長くあったから仕方ないのだけど、櫂の親切なところよりも、その場の人の良さを優先した結果まわってくる些末なミスや尻ぬぐい、ちょっとした不協和音の方が鼻につくようになってしまったからだった。
櫂は港でよく女の子に声をかけた。タマミにしたように、なにしてんのこんなところで、と気軽に。よく、と言っても女の子がそうしょっちゅう港にいるわけじゃないから、もれなく、と言い直した方がいいかもしれない。港に女の子がいたらもれなく、櫂は声をかけた。だから今回の事件は遅かれ早かれ起こっていたことなのかもしれない。
結局どこにも船を出さないまま、二人は瀬戸内海の島に留まった。夜遅くになって、社長からタマミのインスタのスクリーンショットが送られてきた。
〈Tamami 先日の船の件、大事になっていると聞いて驚いています。お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした。わたしはあの船が友だちの船ではなく、お仕事で運んでいる売り物の船だということは知りませんでした。船の中に入ったのも、友だちの方から「よかったら中見ていく?」と誘われたからで、決して勝手に侵入したわけではありません。こんな素敵な船持ってるなんてすごいな、と友だちを自慢する気持ちで投稿してしまいました。すみませんでした。〉
添えられた社長のメッセージはこう。
〈かっこつけて自分の船だって言ったんだってな。この子炎上してるぞおまえらのせいで〉
環太と櫂は同時にスマホの画面を切って、ポケットに入れた。とっくに日は落ちて、二人は船室にこもっていた。食べ残された私は冷蔵庫に入れられていた。
「おまえインスタやってる?」
櫂が環太に尋ね、環太が「やってない」と答える。おれも、と櫂がつぶやいた。
「連絡先も知らないやつが、おまえらのせいで炎上してるぞって責められてもな」
事実その炎上とやらを櫂も環太も直接には目撃していないが、社長からの情報で、商品の船のベッドに勝手に入って撮った写真をアップするなんて、という流れで責められていると分かる。ベッドに勝手に入ったのはタマミだから自業自得だ、と櫂は言ったけれど、でもそのベッドがある船室に勝手に入れたのは櫂だ、と環太は思う。そしておれはそれを止めなかったという罪がある。
罪の色は昨日より濃ゆい。不思議なもので、おまえらのせいだと言われて初めはそんなわけあるかと思ったのに、時間が経ち日をまたぎ、繰り返し責められるうち、だんだんとそのとおりだおれたちのせいだ、と思うようになってきた。口ではまだ「なんでおれたちが悪いってことになってんだよ、意味分かんねえ」と悪態をついていながらでもだ。
櫂の方はどうなのだろう。環太は櫂の横顔を盗み見る。今日の櫂は昨日よりさらに不貞腐れた顔をしている。あるいはいつ見られてもいいように不貞腐れた表情をキープしている。見られてもいい? 誰に?
環太ははっとして観察者である自分自身に思い至る。だってそうだろう。コウイカに見られるために不貞腐れる人間はいない。人間が不貞腐れて見せるのは人間に対してだけだ。ふと、環太は自分の給与が櫂よりも高いことを思い出す。高いといったって誤差みたいな違いではあるけれど、高いのは高い。五年も後輩なのに。櫂が高卒で環太が大卒だからだった。そして環太には簿記ができ櫂は数字が苦手だからだった。
今そんなことは関係ないのに、環太はしみじみと自身の給与のことを考えてしまった。櫂より給料がいいことは、櫂の給与明細を見て知った。会社の給与は銀行に振り込まれるが、明細は毎月紙で渡される。細長い短冊形に切られた紙が一枚、人事担当社員から配られるのだ。特別に残業が多かった月以外は、だいたい似たような金額なのでさして興味もわかないそれを、櫂が机に放り出したまま退社したことがあった。五年先輩の給与明細かあ、と深く考えず手に取った。そうしたら金額が環太より低くて、なにかの間違いかと疑ったけど違った。なんとなくこんな小さい会社じゃ、高卒も大卒も関係ないのかと思っていたが、そうじゃなかった。そりゃそうか。同じだったらじゃあなんで大学出たって話。そりゃそうか、でいいんだよな。
単純でありきたりだけどこの頃から環太は櫂の指示に従うのがなんとなく嫌になった。嫌だけど仕事だから当然従うのだけど、気持ちとして。櫂が自分より学歴が低いことなど初めから分かっていたのに、その上で彼を好きだと思っていたのに、給与明細を見てから急に下げて見るようになった。その自覚があり、好きのままでいたいと思うのにうまくできない、自分に対する嫌悪感もまぜ合わさって、今はとにかく櫂と関わっているのが嫌、という思いが私たちの軟骨のように一本通っている。
父や兄も自分に対してこういう気持ちだったんだろうか——思考を伸ばしかけて、いやそれは全然違うだろ、学歴、という一点だけで引っ張られ過ぎだし、そもそもそれだって積み重ねた結果であって原因をひとつに集約する気はない、というか今は家族のことなんて関係ないし、と環太の胸中はうるさかった。私と一緒に安いワインを呷る頻度も増えていた。
そんな状態の中で今回の船運びがあった。櫂はなんにも気付いていない様子で「またペア、うれしいな」と言ってきた。環太はそれも嫌だった。
櫂のことを嫌になっていなければ環太はタマミが船に乗るのを止めたか? まずいって、人の船だろ止めといた方がいいって、と。
今思うとあの時、心の片隅にどうとでもなれよ知らねえぞ、と投げやりな気持ちがあったのだ。タマミを船に招き入れたその時はこんなふうにネット上で炎上したり買主にバレたりするなんて想像もしてなかったのに、悪い予感はうっすらとあって、結局はこうして環太も困っているのにあの時は櫂一人だけが困った状況になるような予感をしていた。変な話だけど。
言葉に落ちてくる前の雰囲気すら摑めないくらいかすかな予感でしかなかったから、以前の環太でもわざわざ声に出して止めはしなかったかもしれない。けれど、どうしても思ってしまうのだ。そんな不確かな予感であっても、「止めろ」と口に出すことでノリが悪いとこちらが責められる空気になったとしても、それでも不安から止める——それは相手を大切に思って尊重している時にだけ発揮され、そういういわば知られざる奇跡の積み重ねで、この世界の平穏の一端が保たれているんじゃないか?
環太が「奇跡」と大仰に呼ぶそれは、人間が好んで使うビジネス用語に置き換えるとただのヒヤリハットというやつで——自動車を「誰か飛び出してくるかもしれない」と慎重に運転したり、あそこ陰になっててなんか嫌な感じする気を付けよう……あっほらやっぱり子どもがしゃがみ込んでた! なにもなかったけど気を付けといてよかったーといった——現実にあることなのだけど、相手を舐めたことでヒヤリハットを無視する、この世から奇跡がなくなる、その先にはなにが起こるのだろうか。
予報によると明日は雨らしい。雨でも風さえ吹いていれば航行できないわけではないが、環太は単純に濡れるのが嫌だった。防水服を着るから全く平気という人もいるけれど、そうではない環太のような人たちは、泳いだわけでもないのに頭からびしょ濡れになるのが不快なのだ。この辺りの感覚は私には分からない。ただ環太はそう感じていて、だからできれば今日中に航行しておきたかった。少なくとも、今いる瀬戸内海の中心から福岡へ戻るのか、和歌山へ進むのか。西か東か。進むべき進路を定めてしまいたいと思っているのが腹圧からも感じられた。
「いいかげん決めようぜ、どうするのか」
環太が声をかけた時、甲板に腰を下ろして海を見下ろす櫂の手にはまた釣り竿があった。今日の分のコウイカを釣っていた。
連日、環太だけでなく櫂にも消化されている私は知っているが、櫂は久しぶりに食べたらイカってこんなにうまかったんだな、という感動から釣りを続けているように見えて、実のところ、そういえば環太ってイカ好きだったよな、と思い出してもいた。わざわざ口に出して確認はしていないが、前にパック寿司を食べていた時にイカを最後まで残しているのが見えて、おれはパック寿司だと一番最初と一番最後に好きなネタを食べるんだと話したら環太は自分もそうで、イカが一番好きなのだと言ったから、いろんなネタがある中でイカが一番なんてちょっと変わってるなと思って覚えていたのだった。私もその会話は覚えている。しょっちゅう食べるなとは思っていたが、まさか一番好きだとは、と我ながら驚いた。
環太の問いかけに、櫂は返事をしなかった。ちょうどコウイカが釣り針に引っかかりそうな気配があったからだ。無視をしたわけではなく、少し後で返事をするつもりだった。環太だって釣りをしたことがあるから、釣りの最中のリズムは了解してくれるものだと思っていた。しかし数秒の後、舌打ちが聞こえた。
櫂は驚いて顔を上げ、その振動でコウイカが逃げてしまうかと思いきやうまいこと針にかかって釣れた。舌打ち……したなあ。苛立ちがふつふつと湧いてくる。同じ苛立ちを環太の方も抱えているのはよく分かった。それで、
「じゃ、もう出そうぜ」
と、いつもなら船の整備を再確認しお互いの状態にも目配せしてから出航するところ、するすると流れ作業のように船のエンジンをつけた。
密集する他の船にぶつからないよう港を出るまではエンジン走行する。船が岸から十分離れたところでフェンダーを外し、エンジンを止めた。帆を張っていない船はただ浮かんでいる。このまま放っておけば波に流される。今日は南からほどよい風が吹いている。そのわりに波は穏やかで、曇りがちだが雨が降りそうというわけでもない。朝七時の澄んだ陽光。いいコンディション。
「どうする」
と環太が問う。
「おまえ聞いてばっかりだな」
櫂が不機嫌な声で言い放つ。環太はぐっと詰まった顔をしたが一瞬で表情を解き、
「だっておまえのせいじゃん」
と言った。その顔も声もまっすぐ櫂に向かっており、櫂には避けようもなかった。
「全部おれのせいかよ。環太だってその場にいたのに」
「おれが止めなきゃ、止まれないのかよ。おかしいだろ」
「おい、なんだよその口の利き方」
「おれがどんな口の利き方しようと勝手だ」
「わけわかんないキレ方すんなよ」
ぎっ、と櫂が環太を睨みつけた。手はなにかを殴りたそうに握りしめられていたが、櫂は人間を殴れる人ではないし、船を殴って当たれる人でもない。そういう人間でも殴りたいという衝動自体は身体に現れるというのは興味深い。
「和歌山に行く」
宣言したのは櫂だった。
「おれが決めなきゃいけないんだろ。じゃ、和歌山に行く。このまま福岡に帰ったらまじでこの船押し付けられそうだし。和歌山に置いてけば、どうにか、なるだろ。おれたちは福岡に帰るんだし」
和歌山に船を届けたら、電車で福岡まで帰ることになっていた。当初の予定では現地に一泊してから在来線で大阪まで出て、そこから新幹線に乗るつもりでいたが、状況は変わった。ぐずぐず留まっていたらややこしくなるから、港に船を置いたら泊まらずにさっさと帰った方がいいかもしれない。それとも買主に会いに行って「なんでもなかった」のだと改めて説明するべきか。そんなことに意味があるんだろうか。どうしたら他人に信じてもらえるんだ。
その時の櫂と環太の思考は似通っていて、互いに口には出さなかったために共有されることはなかったけれど、だいたい同じことを考えていた。だからこの時点では二人とも無事に和歌山へたどり着くつもりだったのだ。
ぐらりと船体が揺れたのは正午。
船は瀬戸内海を東に向かって航行中。今日は岡山県内まで行けたら十分だろうと環太は思っていた。宮浦や日生に停泊できたらいい。風も朝から変わらずいいしこの調子なら日が暮れるまでに余裕で入港できるだろう。そう考えながら、コクピットを櫂と互い違いになりながら行き来し、シートを引き帆に受ける風の角度や量を調整していた。
一時間ほど航行を進めたところでコクピットベンチに置いていたボトルの水が空になり、環太は給水のために梯子を下りて船室へ入った。ついでにトイレも済ませたが、船上へ戻るまで三分もかかっていなかったと思う。
座って放尿している時(この船のトイレでは必ず座って用を足すように言われていた)、なんだか嫌な予感がした。船に乗っていると時折訪れる、自分ではうまく説明できない感覚。それこそ奇跡の手前の経験からくるヒヤリハットなのだろう。ほんのわずかな波の感覚、耳の奥がきんとなる空気のしびれ、肌の表面にぞわりと膨らむ気圧の変化。うぶ毛がピンと張るような。環太の体内で私もそれを感じた。
急かされるように尿を出しきって、手洗いもそこそこに梯子に足をかけ、顔だけを外へ出したまさにその時、ぐらりと船が揺れた。
櫂はコックピットベンチに立っていた。シートを何本かたぐって帆を調整していたが、船室からひょっと顔を出した環太に気を取られたのか視線を一度下に向け、その瞬間頭に衝撃を受けた。
一瞬の向かい風に煽られた。メインセールが一瞬で反対側へ押され、セールのフットを支える太いアルミニウムの棒——ブームが勢いよくスイングした。
ぶんっと空気を切り裂くスピードの打撃をまっすぐに頭で受けた櫂は、「あ」の口の形のまま倒れてライフラインの上から転がり、ちょうど風で船体が傾いた角度に沿って、海へ落下した。
環太は梯子の手すりに両手でしがみついて揺れに耐え、一連の出来事を目撃していた。とっさのことで喉を絞められているみたいに声が出せず、櫂が転がり落ちた水面からちゃぽんと、それは櫂が立てた音なのか通常の波音なのかは分からなかったけれど、そういう水音を耳にしてようやく「あ」と声に出して言った。
梯子を駆け上がる。風上に巻き上がり大きく傾く船上を大股に横切り、ぼんやりした頭のまま体が覚えているだけの素早さで、メインシートをめいっぱい緩めた。舵を限界まで左に回してロックする。船が動きを止めると同時に、環太も体の動きを止めた。メインシートを少し引いて、まじまじと水面を見下ろす。
前後左右が海だ。全部が海で、近くに別の船はいなくて、ここにはおれだけだ。
環太は上りかけていた梯子を下まで下りて、ゆっくり手を洗い、冷蔵庫で冷やした二リットルペットボトルから自分のボトルへ水を移し替え、トイレの鏡でちょいと乱れた前髪を直すという意味のない行為までした。それから梯子を上ってコクピットに戻り、櫂の姿がないのを再び確認した。
スイングした状態のまま風に抑えられ静止しているブームが目に入り、初めて船に乗った時こんな太い棒があんな勢いで頭をヒットしたら海に沈まなくたってそれだけで死んでしまいそうだ、と恐ろしかったことを思い出した。
無人のデッキで前帆は逆になり、裏風でぴんと張られたまま、船はゆるゆると航行を続けている。
環太は船の後ろに残る航行の跡を見つめる。その波間の中に櫂の姿は見えなかった。目を凝らす。赤茶に染めた彼の髪が、よく日に焼けた腕が、好きでライブにも行くのだというバンドのロゴが入ったグレーのTシャツの端が、海面に見えやしないかと。
船は今どちらへ進むでもなくただ浮かび、風の指示を待っている。戻るべきだった。すぐに来た海を戻って櫂を探す。海上保安庁やしかるべき場所に救助を求める。そしてなにより、まずは大声で彼を呼ぶべきだった。環太から見えていないだけで、上がり下がりする波に隠れて、櫂からはこちらが見えているかもしれないのだから。
「櫂、どこだ」
環太はそうつぶやいてみる。義務的に出したというような極小さな声だった。そろそろとコクピットの端に寄り、水面を覗き込む。なにか光るものが見えた。目だ。櫂のじゃない。私の目だ。私は海の中から環太の目を、私を、じっと見つめ返した。
この後のことは説明が難しい。私はまだ理解ができていない。
冷蔵庫の私や、海の中の私や、環太の中で消化されかかっていた私。複数の私たちが見ていた情報をまとめたところによるとこうだ。
船を止めた環太は救助の連絡をしないで、しばらくコクピットに立ち尽くしていて、数十分すると疲れたのかコクピットベンチに座った。時々水を飲んで、目は海に向けていた。そして夜になって——櫂が海に落ちたのは正午だったから随分時間が経っていたことになる——日がとっぷり暮れて、真っ暗な海面を漂った後、環太はふと思い出したように一度船室に戻り、冷蔵庫に仕舞われていた私が入ったジップロックを手に戻ってきた。前日に櫂が釣ったコウイカだった。
櫂は昨日コウイカを二匹釣って、一匹は櫂が焼いて食べた。洗い物が面倒だと言ってほとんどキッチンを使うことはなかったのに、一昨日とその前日のコウイカは刺身で食べていたので、よほど生食に飽きていたのかもしれない。環太は毎日刺身で食べていた。この船の冷蔵庫には醬油も入っている。
環太はどうやら今日も刺身でいただくつもりのようだったが、ジッパーを開けたはいいものの私はまだ捌かれていない。釣られたままの姿、海で生きていた時の姿形をしている。時間が経ちすっかり白い。包丁もまな板も醬油も船室にあり、コクピットにはない。
どうするつもりかと見ていたら、環太はむんずと私を摑み、私を口に放り込んだ。頭の先から嚙みしめる。醬油をかけなくとも、冷蔵庫で冷やされた私は美味しいが、人間が切り分けもせず口に含むものではない。そんなにたくさん口に含むものではない。軟骨もワタも取っていないのにどうして、と訝しむ間に、環太は私を喉に詰まらせた。随分苦しんだが、数分の後絶命した。
船は翌々日、漂流しているところを岡山の漁船に発見された。船には喉にイカを詰まらせて死んだ男が一人乗っており、男の服のポケットに入っていたスマホから、勤務先の社長と連絡がついた。社長の話ではもう一人別の男が乗っているはずということだったが姿はなく、しかし荷物は確かに二人分あったため、恐らくは事故で転落したのだろうという話になったが、死体は見つからず行方不明の扱いとなった。
そのため葬儀は環太一人のために開かれた。実家のある山口県で執り行われた葬儀に、社長も福岡から駆けつけて参列した。両親と兄は「生前本当にお世話になって」と何度も頭を下げた。社長は焼香を済ませたらすぐに帰るつもりだったがどうしてもと乞われて通夜振る舞いの席についた。葬儀会館の妙に清潔感がありすぎる部屋に通され、知る人もおらぬ中で居心地悪く料理に手をつけた。
テーブルの上に四人掛けごと一つずつ春巻きや天ぷらといったオードブルの大皿と、丸い桶に入った寿司が並べられていた。寿司の中にはイカもあった。私を認めた社長は、死因が死因なのだから寿司をとるにしてもせめてイカは抜いてもらえば良いものを、と苦々しく思った。ということが分かるのは、私が社長の胃の中で消化されているからで、とはいっても食べ物に罪はないのだしイカはうまいな、と彼は私を味わいつつ二貫目に箸を伸ばした。
その後の船だが、なぜか和歌山の買主が「仕方ない」と納得して予定どおりに引き取ることになった。女を連れ込んだという軽薄な不快とは比にならない、人死にが出た船となったわけだけれど、買主は「船の事故は気を付けていても起こる。こればっかりは海相手のことだから、仕方ない」と頷き、環太の通夜や葬儀には出なかったものの、社長に言付けを頼んで香典を出した。
社長は内心まるく収まったことに安堵しつつ、従業員を一度に二人も失ったことで今後の人事採用に頭を巡らせていた。そしてなぜだか急速に船への熱が冷めていくのを、自分の心を見通して感じていた。事故によって海が恐ろしくなったわけではない。これまでも知り合いが海の事故に遭って命を落としたことはあった。自身も船を繰る者として海の恐ろしさは今知ったばかりのことではない。ただ、女を連れ込んだという仕様もない騒動の対応に時間を取られ、かと思うと渦中にいた従業員が二人とも——一人は見つかっていないが恐らくは二人とも、事故で死んだ。海難事故のことは地元紙に小さく載ったが広く知られてはおらず、〈売り物の船に女連れ込み事件〉で炎上させていたネットの者たちにはバレていないらしい。あの件も追加情報がないため忘れ去られようとしている。元々大した話ではないのだから、近いうちになにもなかったみたいに元通りになるだろう。
そんな見通しを含め全部が、ぼんやりと味を欠いているような、まるでイカを飲み込めないまま嚙み続けているような、顎がだるくなる感覚。そんな疲れにどっぷり浸かってしまった。
社長の足が海から遠ざかった頃、環太とも櫂ともつながっていなかったはずのタマミが、知り合いの知り合いの知り合いから、たまたま今回の事故の話を聞いた。驚きのショックはそのまま単純な悲しみになり、タマミは涙こそ流さなかったものの表面に薄く膜を張るくらいには目を潤ませ、その目が乾かないうちに、インスタにあの日撮った海の写真をアップした。〈R.I.P.〉と添えて。
タマミが撮った海の写真。風のない穏やかな日だった。突き抜けるような青さの空に光を遮る雲もなく、太陽の光を受けてきらきら輝く水面の下には、彼女は知りようもないのだけど、無数の私たちが泳ぎ漂い、気持ちのいい陽光を浴びている。
(了)

アワーミュージック
金原ひとみ
(編集部より)本作には暴力、性加害を描いた場面があり、お読みいただくにあたって、強い精神的負荷を伴う可能性がございます。 ****** えーすげー。ガチ? トシヤは声を上げながら、私の指示通りロープで引き寄せた船体を摑んで、桟橋からクルーザーに乗り込む。後に続くミツオも、足元を確認しながら慎重に飛び移った。ヨリが乗り込むのを手を貸して手伝うと、皆にライフジャケットを配り、エンジンをかける。