
(編集部より)本作には暴力、性加害を描いた場面があり、お読みいただくにあたって、強い精神的負荷を伴う可能性がございます。
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えーすげー。ガチ? トシヤは声を上げながら、私の指示通りロープで引き寄せた船体を摑んで、桟橋からクルーザーに乗り込む。後に続くミツオも、足元を確認しながら慎重に飛び移った。ヨリが乗り込むのを手を貸して手伝うと、皆にライフジャケットを配り、エンジンをかける。
この二週間、一日に数回天気予報をチェックしていたけれど、小雨予報が直前で曇りに変わって、なんだかんだ今朝はほとんど雲のない晴天となった。
「実際乗ると結構揺れるね」
ミツオが少し不安そうな声をあげ、揺れるー! とヨリが楽しげに同調するのが聞こえた。これからもっと揺れるよと笑って、フェンダーを外すと、最後のロープを解いて、私も船に飛び乗った。移動する時は必ずどこかを摑んでとか、冷蔵庫やトイレの場所をざっくり伝えると、マリーナから飛び出した。
「いや、ニイナが船舶免許持ってるって聞いた時は噓だろって思ったけど、ガチなんだな・・・・・・」
後部のシートに腰掛けたトシヤはまだ信じられなさそうな顔で呟いて、運転する私をしみじみ見つめている。まあ、親がクルーザー持ちだから取らされたって感じだけど・・・・・・と言いながら船を操縦して海原に滑り出すと、どんどん沖に向けて加速していく。
「スピード出てる時は座っててね」
平日で、直前まで雨予報だったせいか、海に出ている船は多くない。もう陸が確認できないところまで出て、更にそこから二十分ほど走らせると、スピードを緩めてようやく一息ついた。シートに座っている三人は、早速持ち込んだビールを飲み始めていて、お疲れ! と缶を持ち上げる。
「私は飲めないけど、皆は好きに飲んでね。でもお酒は酔いが加速するから、もし乗り物酔いを感じたらその時点でやめた方がいいと思う」
「てか、乗り物酔いと酒酔いの違いわかるかな」
トシヤが余裕そうな態度で言って、「え、ニイナ全然飲んじゃいけないの?」とヨリが残念そうな声を上げる。飲酒運転と同じだからねと続けたけれど、正直こんな見渡す限り船のない海をのんびりクルージングするのと、今日車で走ってきた高速を比べるのはナンセンスだと思う。
初めてこのクルーザーに乗ったのは、小学校高学年くらいだっただろうか。二人で一緒に船舶免許を取った両親は海に出る時準備や運転を二人で手分けしていて、私が見ている限り船に乗っている間一度もお酒を飲んだことがない。帰船して帰りの車ではいつもお母さんがビールを飲んで、今日の船は、海は、と饒舌に話していたのを覚えている。そしてお父さんはいつもそのお母さんのワクワクした様子に、満足そうに相槌を打つのだった。
お父さんとお母さんは五年くらい前に突然セーリングにハマって、唐突にセールボートを買った。風を読んで帆を張って、ゆったり走り続けるのが、大人になった私たちに適した航海だと話していた。いつか仕事を辞めたら、二人でハワイ辺りまで航海しようかなとまで言い出したのだ。それで今はもうほとんど乗らないからクルーザーはニイナが乗ったらいいと、大学受験を終えてすぐ、船舶免許を取るよう勧めてくれたのだ。
「ほんとお嬢様なんだなー」
エンジン音と水の音に紛れてトシヤの言葉が届いたけれど、気づかないフリをした。トシヤだってええとこの子じゃん、とヨリが茶化す。ヨリは、自分の体は片親パンでできてる、って憚らずに言うタイプの子だけど、親から仕送りをもらっていないこと、奨学金をもらっていることも公言して、でも勉強だけはできちゃってねーなんて自虐的なことを全然自虐的じゃないテンションで言うタイプだから、皆から好かれている。
三浦の沖合十海里ほどのところ、浮島の近くまで来ると、エンジンを止めて錨を下ろす作業に入った。このアンカリングという手順は、釣りをする時や泳ぐ時など、船が流されないようにするために必要な作業だ。もう海入っていいよと声を上げると、男二人は待ってましたとばかりに服を脱ぎ始める。いくぞー! とはしゃいで船尾に立つ水着姿のトシヤをヨリが後ろからドンと押すと、「ヒャー!!」と声をあげて海に落ちた。普段だったらそういうことは・・・・・・と注意するところだけれど、思わず歓声をあげてしまった。
「見た? あの顔。ウケる!」
ヨリは笑って、ちょっと戸惑っている様子のミツオにも行け行け! と煽って飛び込ませた。男二人が海に解き放たれ、うぉー! とはしゃぐ声を聞きながら、私たちはクルーザーの船室にこもって服を脱いだ。私は家を出る前に着ていたけれど、一緒に行ったスーパー銭湯とか温泉とかでもそうだったように、ヨリは豪快に裸になって水着を身につけた。生まれて初めてのビキニだった。え、ビキニっしょ、攻めて行こうよ、これとかどうよ? と一緒に行った水着専門店でヨリが薦めてくれた水着だった。
「四年間、ヨリと一緒にいられてよかった」
「いやいや、そんなテンションなんないでよ」
「ヨリがいなかったら、大学卒業できなかったかも」
シートに座った私の前にかがんで、ヨリは私の両頰に手を当てる。
「ニイナは強い人間だよ。私がいなくたって卒業できたに決まってる。トシヤがほざいてたお嬢様とか意味わかんない。糞食らえだよ」
鼻で笑うように言うけど、顔には嫌味のない満面の笑みを浮かべていた。行こ、ヨリの手に引かれて立ち上がる。ヨリの手はふっくらしている。瘦せてて、背も高くて手足が長いのに、なんでか手だけ子供みたいに小さくて、私はこの手を握っていると小さな子供の手を握っている時のように少し不安になる。自分が離したら、永遠にその手を握れないような気がするのだ。
「よいしょお」
ハシゴを下ろすと、ヨリの手に引かれて、掛け声と共に私たちは船から海に飛び込んだ。気づくと手は離れていて、二メートルほど先にヨリがいた。水を搔いて、できるだけエネルギーを消耗しないように顔だけ水上に出して空を見上げている内、海面に浮かんでいた。力を抜いてただひたすら、自分を曝け出すような気分で空と見つめ合う。海ひさしぶりすぎる! とヨリの歓声が耳に届く。
「日本は島国だから、絶対に泳げるようにならないといけないんだよ。日本の小学校にほぼプールがあるのは島国だからで、日本ほど泳げる人が多い国はない、こんな国は他にないんだよ」
父親は幼い私に何度も同じことを言った。何かトラウマでもあるのか、泳げなければ死ぬと言い出しそうなほどの切実さで、幼稚園生の頃からスイミングスクールに通わされていたから、ずっと水泳は得意だった。
トシヤとミツオのクロールで競争しようってやりとりがかすかに聞こえて、続けてねえニイナ、ライフジャケット脱いでもいい? ってミツオに呼びかけられたから、そちらを見ないままいーよーと返事をする。しばらくして、よーい、ドン! というのどかな声が、何の障害物もない空間に綺麗に響き渡る。海に出てエンジンを消すと、いつも水の音の美しさに気付かされる。私たちは普段、あまりにも多くのものものに囲まれすぎている。ものだけじゃなくて人も、概念も、思いも、感情も、地上ではあまりに渋滞し過ぎている。海の上という、なにものにも邪魔されない阻まれない場所にきてようやく、自分は自分の純粋な思いを、願いを知れるような気がする。
気がつくと、ヨリが私の隣に、同じようにポカンと浮かんでいた。
「あいつら競争してる」
「ね。ほんと、ミツオよくトシヤとあんな仲良くなれたよね」
「それな。ちょっとびっくり。絶対無理だと思ってた」
「ミツオって、一年の頃すごく暗かったよね?」
「暗かった。私覚えてるもん。一年の頃授業一緒でさ、絡みにいったらめっちゃビビってて、あ、はい、あ、いいえ、みたいな。いやお前ガチコミュ障やんって笑ったら泣きそうな顔するから、焦って謝ったことある」
「ガチコミュ障。ミツオ本気で泣きそう」
入学当時の金髪のヨリの姿を思い出して、ミツオのビビりきった様子を想像して、思わず笑ってしまう。それと同時に、大学に入学した頃の記憶が蘇り、私は勢いよく溢れ出る源泉に蓋をしたような息苦しさを感じる。
ミツオは存在感が薄くて、教室にいても目立たないから、入学当初の記憶はほとんど残ってない。背が高くて美人で顔面にピアスがバチバチに開いてて声も大きくて誰しもがその存在を認識せずにはいられないヨリの真逆の存在、って感じだった。
入学してすぐの頃、楽単だと言われていたキリスト教の授業で、神はいる派と神はいない派でディスカッションをすることになった時、私はヨリが神はいる派にいることを少し不思議に思った。なんとなくリアリストで、一元的なものの見方をするような気がしたからだ。
神という存在は非現実的である。多くの宗教が争いを生んできた。そもそも神の定義は宗教によって、文化によってまちまちであり、多神教はまだしも一神教は人の世界を狭めてしまうだけの害悪。自分はキリスト教の家庭で育ってきて、それなりに懐疑的な思いも持ってきたが、宗教や経典が人間の価値観や生活を一定以上のものに支えてくれる存在であると感じてきた。
各々がそうして自分の考えや価値観を語る中、なぜ神がいると思うのかと問われたヨリは「だってその方が面白いから」と答えた。自分はこれまでの人生で宗教に触れたことはないし神について本気で考えたことはないけど、ないよりはある方が面白いに決まってるし、神頼みとかもなるべくガチのテンションでしたいから。と続けたヨリに笑い出す人もいたし、馬鹿にしたような表情を浮かべる人もいたけど、私はしんと、ただただそうだよねって思った。どうせ神様なんていないんだと思いながらお参りをするよりも、本気で、お願いです願いを叶えてくださいあなたの力を信じてます、って思える方が、絶対にいいよねって。
私はちょっとずつでもヨリに顔を覚えてもらえるように、学校で見つけると必ず挨拶を交わすようにして、入学から二週間が経った頃、ちょっと勇気を出してDMを送った。いつも可愛いなって思って見てますって伝えたら、どの子か分かんないから声かけて! って返ってきて、次に会った時、DM送ったニイナです、って思い切って話しかけると、えー嬉しい、私あんたのことラプンツェルって名付けてたんだよ心の中で、って大きな声で言うからちょっと恥ずかしかった。髪の毛が長くて、さらさらだからってことらしくて、舞い上がりそうだったけど、さすがに気持ち悪いかなと思って喜びを加減して伝えようとした瞬間「仲良くしよーね」って言われて、もう溢れ出すように「嬉しくて空飛べそう」って本心を溢した。
ヨリに誘われて、いくつかのインカレとサークルの見学に行って、私たちはあんまりガチじゃないバドミントンのサークル、スマッシングに入ることにした。ヨリはちょうど彼氏がいなくて男探ししたいからって理由だったし、私もなるべく一年のうちに交友関係を広げておきたいから、っていう理由だったから、ゆるくて、それなりの人数が所属してるサークルなら、別にどこでも良かったのだ。そしてそこで出会ったのがトシヤだった。イケイケって感じではないけど、それなりに世馴れてる感じはして、イケメンって感じではないけど、雰囲気的にイケてる感じはする。みたいな人で、それなりにモテてたし、ヨリも少人数で一緒に飲みに行ったりしてて、もしかしてヨリはトシヤが好きなのかなって思うこともあった。
夏の伊豆合宿に参加するかどうか悩んで、まあヨリが行くならと思って申し込んだ後に、ごめんバイト二人飛んじゃって店長に泣きつかれちゃって、って割と直前にヨリが謝ってきた。ヨリはあちこちのバイトにタイミーで入ってて、タイミーなのに店長とか社員に頼りにされててうちの専属バイトになってくれって引く手数多なのは聞いてたから、仕方ないねって笑って、他にも友達いるし、ヨリがいないと不安なんて子供みたいだし、って自分に言い聞かせてバスに乗り込んだ。それなりに仲良くしてるユイちゃんを見つけて隣座っていい? って聞いたら、ごめんここあとでハナが来るんだって断られて、恥ずかしくなって一人で空いている席に座っていると、トシヤが何も聞かずに「おーっす」って隣に座った。
トシヤはよく話した。ニイナとちゃんと話してみたかったんだよね。いつもヨリとかユイハナと一緒だから二人で話す機会あんまなかったし、って言うから、私もちょっと嬉しくなって色々話した。まじで俺に懐いてて、可愛いんだよねって、六歳年下だという弟の話をしてる様子が幸せそうで、家族についてそうやって話す彼を見てる内に、なんとなく胸が温かくなってきて、もしかしたらこの人を好きになるんじゃないかって、私は思い始めていた。
人を好きになったことはあったけど、好きな人にちゃんとアプローチをしたことはなくて、デートしたいって言われてしたことは数回あったけど、なんとなく二回目とか三回目くらいに気が向かなくなってなし崩し的に会わなくなった。どうやったら恋愛できるかヨリに聞いたら、いろんなセクシャリティがあるんだし別に恋愛しようと思ってする必要ないよって蠅を払うような仕草と共に言われた。自分はイケメンがいるとすぐに騒ぐし、どうやって繫がろう? ってキャッキャしてるくせにって、ヘテロで自己認識に全くズレがなくて開けっ広げなヨリが、ずっと羨ましかった。
「トシヤはヨリのことどう思ってるの?」
「ん? 気のいいやつ」
開けっ広げなヨリだから、特に付き合ってるとか聞いてない以上多分ないだろうけど、もしかしたら二人は恋愛関係に陥ってるんじゃないかと思ったことがあったから一応聞いてみたけど、返ってきたのは私と完全一致の認識で、思わず二人で声を合わせて笑う。
「ほんと、ヨリっていい子だよね。私大好き」
「ちょっと意外だったけどね。ニイナみたいな子がヨリと仲良くするの」
「それって、私が根暗だからってこと?」
「違う違う。なんかニイナって、ちょっと話しかけたりしづらいっていうか。高嶺の花感? あるじゃん。だからちょっと、ああいうフレンドリーな庶民代表! みたいなヨリとはテンション感違うんじゃないかなって」
庶民代表? 私はヨリは一生に一度会えるか会えないかの美しさと最高の感性の持ち主だと思ってて、そういう意味では神様みたいな存在だと思ってたから、トシヤの中でヨリがそういう存在であることに驚きを隠せなかった。私の神様を見下されたような気さえしたけど、そのショックを曖昧な微笑みで覆い隠した。
「ニイナってお酒飲めるの?」
「強くないけど、飲めるよ」
なんとなく舐められたくなくて、食い気味に答えた。
「普段あんま飲み会来ないからさ。じゃ今晩の飲み楽しみにしてる」
トシヤはそう言って、ヨリも来ればよかったのになー、と続けた。ね、と同意した瞬間、バス内のカラオケで$mmの「↓Vanity」が流れ始めて、下手くそなラップに皆が歓声を上げた。金子ミリだから$mm、というエピソードが有名なラッパーの代表曲だった。そしてこの時に皆が大笑いしながら合唱していた$mmが、"オラオラのVanity暴いてやる"が、あれから三年経った今も、私の頭には響き続けている。
ウチら、がんばったよね。ぷかぷか浮かんだままヨリが言う。
「がんばった。まじでがんばった」
「あの時、最初の時、DMくれてありがとね。あのDMがなかったら、私ら仲良くなれなかったかもしれないんだし」
「勇気出した。でもヨリは・・・・・・」
「うん」
「後悔してない?」
「するわけないじゃん。ニイナに出会わない人生はなかった」
よかった、私も。と言うと、ヨリが私の手を握った。大好きな友達と手を繫いで、体を太陽に曝け出しながら、胸の中で心臓が脈打っているのを感じる。今の私たちを、天空から撮影してもらいたい。うぉーい! ってミツオの声がして、はしゃぐトシヤの声がして、その声が近づいてきても、私たちは手を握ったままぷかぷかゆらめいている。冷たさと同時に、一点に温かさと確かな愛情があって、ここが世界で一番安全な気がした。
「ねえヨリ! ヨリも競争しようよ」
ミツオの言葉に、しょうがないなーと大きな声をあげて、ヨリは手を離す。大丈夫? と聞くと、大丈夫、と本当になんでもない感じでヨリは笑って、ライフジャケットを外してクルーザー上に放るとミツオに向かってクロールで泳いでいく。ヨリ、バタフライできる? バタフライで競争しようよ、ってミツオがけしかけて、ヨリがお前後悔すんなよって挑発した。私は少しだけすんと熱が下がるような思いがして、少し風が出てきたなと、二人に向けていた視線を西の方に向けて思う。
「なあニイナ」
声をかけてきたトシヤは眉間に皺が寄っている。
「うん?」
「なんか俺ちょっと酔ったかも。ちょっと上がるわ」
言い終える前に、トシヤは背を向けクルーザーに平泳ぎで向かっていく。そこにハシゴがあるから、滑らないように気をつけてね。私の声に弱く答える声がして、そのままハシゴから滑り落ちるトシヤの姿が見えた気がしたけど、実際にはトシヤは意外にしっかりした足取りでクルーザーに足を掛けていた。
「トシヤ、大丈夫?」
トシヤがクルーザーに戻ってからしばらくして、片足を八の字にくるくるさせてその場に留まりながら声をかけたけれど、答えはない。私はゆっくり泳いで、ハシゴに手を掛ける。登っている途中で、肩にバスタオルをかけ、座席で半分に折れるように項垂れているトシヤが目に入った。自分も上がってバスタオルで軽く髪と足元を拭いつつ、トシヤ、と声を掛ける。んは、と返事なのかどうか分からない声がして、私は立ち尽くす。トシヤは海パンを身につけて、バスタオルを肩にかけている以外、全てむき出しだ。その姿に、私まで心許ない思いがしてくる。
「トシヤ、大丈夫? ちょっと横になる?」
「んー・・・・・・んと」
うーん、ありがとう、と自分で通訳する。二人がけの席に横になるのを、軽くサポートしてやると、泳いだせいかな、めっちゃ酔ったかも、とトシヤは私の腕を握った。全然いいよ、結構初めてだと酔う人多いんだよね。あ、もしかして昨日夜更かしした? 寝不足だと慣れてる人でも酔うんだよね。そう言いながら手を振り払い、苦しそうなトシヤの頭に手を当てる。髪が濡れていて、ぬるっとした手触りが走る。何かワックスやスプレーを使っているのだろう。気色悪い害虫のくせに、この美しい海を汚しやがって。
えー酔った? 大丈夫? 私はその言葉に、できるだけ毅然と答えようと、大丈夫、と繰り返していた気がする。多分、大丈夫かどうかはどうでもよくて、大丈夫と言うことに意味があった。生まれて初めて、自分の意思で自分が動かせなかった。視界がぐるぐるして、四肢に力が入らない。飲んでいる時にはなんともなかったのに、立ち上がった瞬間にぐらんときて、五メートル歩いたところで諦めるように「これが酔うってことなんだ」と認めた。視界が回ってまともに歩けなくても、意外に意識が鮮明なことも、発見だった。
トイレに行っても吐きたいのに吐けず、個室の中で潰れていたところに、様子を見に来たのがトシヤだった。心配するのは当たり前だ。さっきまで隣に座って、私にあれこれお酒を薦めていたのだから。
「ごめんね俺が飲ませすぎちゃったせいだ」
ううん、大丈夫だから。私はまた繰り返して、大丈夫なところを見せたいのに、手足に力が入らずトシヤに肩を貸されてしまう。
肩を貸されただけで寝落ちたのかそうではなくて記憶が飛んだだけか、気がつくと私は布団の中にいた。ふかふかの布団に入ったんだと思うとホッとしたけどまだまだ今にも吐きそうで、私は気持ち悪さから逃げるように横向きになる。
自分の体を弄っている手があることに気づいたのは、布団に入ってることに気づいてからどれくらい経った頃なのか、もう分からなかった。触られてすぐに気がついた気もしたし、もう長いこと触られているような気もした。
「やめて」
私の言葉がどれだけ大きく響いたか分からない。返ってきた言葉は「大丈夫だよ」という声で、私は絶望する。私の大丈夫じゃなさを分かってない人が、いま私を触っているのだという事実に。お願い、と呟いたけど、私が言葉を発せば発するほど手の力が強まることに気づいて、口を閉じた。スマホで誰かに連絡しようと思いながら、ポケットの辺りを手で確かめるけれど、それらしき感触はなくて、私は枕元の辺りや掛け布団の中を弄る。
「なに、触りたいの?」
手首が摑まれて恐らく彼の性器を押し付けられる。ムワッとした湿気とムシャッとした隠毛の感触が走った。気持ち悪くてえずきそうになって、咳き込むと吐き気が高まった。気持ち悪い、吐く、と切れ切れに言ったけど、男はまだ私の手に性器をぐいぐいと押し付けてくる。
「吐く」
「大丈夫だよ。ビニールあるよ」
男の声と共にクシャッとしたビニール袋の音が聞こえてくる。この人は私が吐こうが急アルになろうが死のうがどうでもいいどうにかして今すぐセックスをしたいってことなんだ。死ぬかもしれない危機と、犯される危機に、同時に直面した私は混乱していた。死にたくない。犯されたくない。今すぐここから逃げて家に帰りたい。この三つの思いが、流れの穏やかな川くらいのところで、ゆったりと混ぜ合わさっていくような感覚の中で、急速に死にたくないが全てを染めていくのが分かった。犯されたくないが赤。帰りたいが緑。死にたくないは真っ白。赤も緑も消えてもう見渡す限り白。私は死にたくない。死にたくないと強く思えば思うほど胸が締め付けられて、涙が込み上げた。死にたくない。絶対に死にたくない。強く願いながら子供のようにしゃくりあげていると、「えー? ニイナってもしかして初めて?」と揶揄うような声が聞こえてくる。グルングルン回る視界の中で、トシヤの嬉しそうな顔が歪んで見えた。私が泣いているのに、嬉しそうな顔をして、パンツの中に手を入れてくる。
ニイナが泣いてたらママも泣いちゃうよ。
ニイナが悲しそうだったら私も悲しい。
ニイナのそんな顔初めて見たよ、私もそいつ許せない。
友達と喧嘩をして泣いていた時、一緒に泣いて、泣き疲れてから一緒に対策を考えてくれたママ。生まれて初めて提出物の遅れを注意されて、ショックを受けてクラスに戻ったら寄り添ってくれた友達。電車の中で盗撮してる人を見つけて、注意したら犯人が逆ギレして喚き散らした挙句停まった駅で逃げられてしまった時、悔しさと怒りと悲しさでめちゃくちゃになっていたら、事情を聞いて一緒に駅員に報告しに行ってくれた友達。皆が皆、私の気持ちに共感してくれた。そして私の力になろうとしてくれた。
でもこの人は違う。私が泣いても、ニヤニヤして手を止めない。自分に共感しない人がいるのは分かっている。ぶつかりおじさんとか、コンビニとか駅とかで怒鳴り散らしてるおじさんとか、小さい子供とか、そういう人たちは私がどんな顔をしていようがお構いなしだ。でも相手はトシヤだ。君を否定しない、君と仲良くなりたいと思ってる、そういう顔をして近づいてきた人が、さっきまで仲良くしていた人が今、泣く私を笑っている。全てが夢なんじゃないかという疑いを拭いきれないまま、私は涙を流すことが無駄だと気づいて両手で顔を覆う。指が入ってきて、叫び声を上げたいのに声が出なくて恐ろしくなる。夢の中で声を出そうとしても出せないみたいな、声帯が機能しなくなっている感じだった。でも硬く閉じていた足から無理やり下着を剝ぎ取られた時、反射的に「助けて!」と大きな声が出て、きっと誰かが助けにきてくれるはずと思った瞬間私は潰れた。生まれてから今まで経験したことのない重量がのしかかってきて、私は息さえできなくなる。ただでさえ息ができないのに、口が手で塞がれた。それと同時に、性器にナイフを刺されたような痛みが走る。その瞬間、頭の中に流れていた$mmの曲が音量を増し、こんなに大きな音で$mmが流れるのは、そうすることで現実感を薄れさせて自分を守るため? という冷静な解釈が浮かんで、それと同時に口を塞いでいた手が離れて、あっ、という漏れ出た声に続いて、私は大量の吐瀉物を吐き出した。
完全に意識を失っているように見えるトシヤの脇にしゃがみ込んで、平手で叩こうかと思ったけど、思いとどまって再び立ち上がると、彼の横面を足で踏みつけた。足の裏に濡れた髪の感触が走って気持ち悪い。強く踏みつけると、トシヤは呻いて体を拗らせる。あの時の私も、こんなふうに無様だったんだろうか。思い通りにならない体を持て余して、吐き気と男から逃れようとしていた私は。
あの後のことをよく覚えていない。トシヤが最後までしたのか、それとも吐いた瞬間に萎えたのか、あるいはなにかしらの理由で最後までできなかったのか。パンツとジャージの上だけを身につけた姿で早朝に目覚めると、あの時の部屋とは別の部屋に移動させられてたのかもう吐瀉物はなく、周りにはサークルの皆が寝てて、私はフラつく体を無理やり起こすと取るものも取りあえず旅館を出た。怖かった。自分が何もかもを勘違いしてたのかもしれないってことが。もしかして、このサークルはそういうサークルなんだろうか。いわゆるヤリサー的な。あるいはそういうサークルではなくとも、フリーセックス的な人たちが一定数いるんだろうか。いや、でも、そんな。
私は自分の信じてきた世界が本当に本物の世界なのか、分からなくなっていた。そもそも大学っていうのは、相手を酔っ払わせてセックスをするっていうことが、普通にある世界なのかもしれない。というよりもこの国は、この世界は、自分が知らなかっただけで、元々そういうものだったのかもしれない。私の認知はどんどん歪んでいって、でも歪んでるのかどうかも分からなくて、何もかもが信じられなくなった。
ふざけんな。足の裏を再び頭に振り下ろすと、トシヤは嫌そうな顔で呻いた。目は開いていないけど、どこまで意識があるのか分からない。
「どう? ニイナ」
声と共に、ヨリがクルーザーに乗り込んでくる。
「寝た」
「ウケる。本当に寝るんだ」
そりゃ、睡眠薬だからね。笑いながら答えて、再びトシヤに視線を落とす。
「どうするニイナ」
ヨリは私の肩を抱く。冷え始めていた体がヨリの体温にホッとしたのが分かった。濡れたヨリの体も髪も全然嫌じゃない。本当に美しい人だ。それに比べて、とトシヤを見下ろす。なんで生まれてきたんだろうこの害虫は。
合宿から戻ると、私は前と同じように生活した。サークルには行かなくなったけど、普通に学校にも行って、家族とも友達とも仲良く過ごした。あのサークルの人たちは皆、全部知ってるのかもしれないと思っていた。私が酔い潰れて、レイプされて、嘔吐して、一人で逃げ帰ったことを。でもヨリは特に何も言ってこなくて、じゃあもしかして、トシヤ以外は知らないのかなと思ったり、でもやっぱりトシヤの周りの友達とかはやっぱり知ってるのかなと思ったり、でも何も言わずに逃げ帰ってきたんだから何かあったのは皆察するだろうとも思ったりして、頭の中はぐちゃぐちゃだったけど、外面は平然としていた。
あの翌日にお酒が抜けるとすぐにモーニングアフターピルをもらいに行ったし、その一週間後には生理がきた。ホッとして涙が出た。私はちゃんと対処した。痛い目を見たけど、なんとか乗り切った。そう思っていた。あの日のことを、忘れてる時もあった。あと数年もすれば、失敗談としてすごく仲のいい人とかには話せるのかななんて思ったりもした。あの合宿以来初めてトシヤに声をかけられた時はビクッとしたけど、なんでサークル来ないのと聞くトシヤにも、思ったよりナチュラルに課題が遅れててと答えることができた。
異変が起こったのは、あの日から一年が経ち、沖縄の平和教育の授業に出た時だった。先生が米兵による性加害の問題についてサラッと触れ、現在の基地辺野古移設問題についてスライドを使って話し始めた時、頭の中で$mmが流れ始めた。いや、違う。あれから一年、ずっと小音で流れていた曲のボリュームが、唐突に上がったのだ。バシンバシンとカメラのシャッターを切るときのような軽い振動と共にあの布団の中で見た静止画が次々蘇って、どんどん息が上がっていく。だめだ。そう思った瞬間には息が吸えなくなっていた。
医務室で目を覚ました私の横にはヨリがいて、いいよゆっくり寝て、先生は貧血だろうって言ってたよ、って私の頭を撫でてくれてた。初めて酔っ払った日、見慣れない場所で目を覚ましてあんなことをされたから、っていう明確な意識はなかったけど、あの日から私は旅行に行っていなかった。あの日以来家以外の場所で初めて目覚めた私の目の前にヨリがいてくれたことに安堵して、布団の中が安全であることにホッとして、私は目を閉じたまま涙を流した。頭を撫でていたヨリの手が一瞬戸惑ったのが分かったけど、何も言わずにずっと撫で続けていてくれた。
どうしたのってヨリは聞かなかったけど、その翌日のカフェテラスで、呼び出したヨリと向き合った私は、全てを話し始めた。あの合宿で何があったのか。バスに乗り込んで、ユイちゃんに隣の席を断られて一気に心細くなったところから、トシヤに煽られていろんなお酒を飲んだこと、どれも美味しくなかったけど頑張って飲んだこと、トイレの中で体が動かせなくなったこと、早朝旅館を抜け出して、まだ送迎バスが出てない時間だったからタクシーで駅まで戻ったこと、これも悪意ある人にはお嬢様ムーブと言われてしまうのかなと漠然と不安に思ったこと、アフターピルを飲んだこと、初めてで恐かったからネットで慎重に検討して選んだ産婦人科の女性医師に、コンドームはしてましたかと聞かれて、分からないと答えたら軽蔑の目を向けられたこと、生理がきてホッとして駅のトイレで泣いたこと、全然すっかり忘れてる時間もあること、でも昨日初めて、突然フラッシュバックしたこと、でもずっと苦しかったような気もするということ。全てを話した。ヨリは全てを静かに聞いた後、警察に行く気はあるか聞いた。
「いやそんな、証拠もないし、自分のせいでもあるんだし、それになんか馬鹿みたいな話でしょ。遊び慣れてない女子大生がサークルの合宿で酔っ払ってそういうことされちゃうとか。なんか、さすがに恥ずかしいじゃん」
あの時のトシヤみたいに、私は私を揶揄った。馬鹿みたい。そんなんヤられて当然じゃん。馬鹿じゃん。ただのよくあるバカとバカが起こす学内のトラブル。くだんな。本当にそういう気持ちだった。私は自分のされたことも、自分がされたことに本気で苦しんでいたことも、くだらないと思っていた。
「恥ずかしくないよ」
ヨリの言葉で、私は黙った。私が恥ずかしくないことは、私だって分かってたはずだった。でも恥ずかしいくだらないって思わないと、生きてこれなかった。私はヨリが自分を救おうとしてるのか、それとも殺そうとしてるのか分からなかった。危機感が湧き上がった。
「恥ずかしくないし、馬鹿みたいな話でもないよ。これは重大な話だよ。私はニイナがされたことを知って、息が止まりそうなほど苦しい。ていうかどうして私一緒に行かなかったんだろう」
ヨリはしっかりとした口調で毅然と話しているのに、静かに涙だけ流していた。ヨリがどっちなのか分からなかった。敵なのか味方なのか。だって私がなんでもないことって思ってやり過ごそうとしてることを、荒立ててる。私がもう終わったと思って流してたことをメリメリと引き剝がして掘り起こしてる。私はもう、苦しみたくない。適当にアスファルト加工でもして自分の人生の地層の一部分にできたら、それでいいんだ。埋葬したかったんだ。あの記憶は、黒歴史みたいなものとして、思い出したくない恥ずい大学デビューの失敗エピ的なものとして、奥深くに隠していたかったんだ。
「ニイナがもうなかったことにしたいんだったらそれでいいんだよ。私も今日聞いたことを全部忘れる。でもニイナは本当に忘れられるの。今はたまにフラバするだけかもしれない。でもいつか許せなくなって溢れ出す時が、くると思わない? その時は絶対にくると思うんだよ私は。経験上」
ヨリはそう言ったきり黙り込んで、もう何も話さなかった。ただ私の隣にずっと座っていてくれた。ちゃんと考えるね、とだけ言って立ち上がると、ヨリは私の背中に手を当てた。あの日から$mmが流れ続けている体内に、そのヨリの手の温かさ、体温が同じように通底し始めた。帰り道でヨリの手の触れた背中の暖かさが、帰宅してもヨリの暖かさがまだ体の中に走っていることに気づいて、一瞬でもそれが奥深くに刺さると、その曲だったり暖かさだったり思いだったり言葉だったり愛だったりが体内に走り続ける人間ってすごいなと思って、そういえば何度も私に共感して一緒に怒ったり泣いたり笑ったりしてくれたお母さんとか友達の暖かさだって私の中には今も残ってるんだと気がついて、そんな人間だったらそれなりのことは乗り越えられる気がして、そんな気がしたと同時にヨリに電話を掛けていた。ヨリが電話に出る前に涙が溢れていた。
「忘れない。忘れられない。許せない。絶対に許せない。あいつが憎い。大っ嫌い。絶対に許さない。あいつを殺してやりたい!」
その瞬間ヨリはこれまでの人生で一度も聞いたことのない歓声を上げた。ヒャッホーでも、ウェーイでもイェーイでもなくて、キャーとも違う。例えるならヒョリッハーー!! みたいな感じ。私はその声にゲラゲラ笑ってしまって、怒りが沸いてたのに一気に愛に変わった。愛せる人が側にいることに、安堵していた。怒れた時に愛情を抱ける人がいたことに、心から感謝していた。
どう? 寝た? 言いながら上がってきたミツオに、私とヨリは寝てるよと同時に答えて、同時に見つめあって、同時に噴き出した。
「すごいな。ぐっすりだね」
ミツオは素朴に呟いて、トシヤの脳天をこづく。
「まあ三錠分飲ませたわけだから」
そりゃそうかとミツオはしゃがみこんで、トシヤを覗き込む。どうしようか。どうしてやろうか。ヨリの軽やかな言葉が晴天の元ゆらめく船の上に投げ出された。
「とりあえず、私お酒のんじゃおうかな」
おー? とうとうニイナが飲酒?! とヨリが盛り上がって、すぐに冷蔵庫からチューハイを持ってきた。三人で乾杯すると、私は三年ぶりのお酒を飲んだ。あの日以来だった。三年ぶりのお酒は相変わらず別に美味しくなくて、半分くらい飲んだところで嫌になって飲むのを止めた。
「こうしてやる」
ヨリがレモンチューハイをトシヤにビシャッとかけると、ミツオもいいね、と同調してドボドボとマスカットチューハイをかける。トシヤはうめき声を上げて身を捩󠄃ったけど、うっすら目を開けただけで起きそうになかった。私もホワイトソーダハイをかけてみた。
「朝までいたファミレスで、ドリンクバーで遊んだよね」
「遊んだ遊んだ。優勝はメロンソーダとホワイトソーダと、ちょこっとオレンジジュースだっけ」
サークルに入ってすぐの頃、飲み会に参加して終電を逃した日、カラオケ行こうよーとしつこい男たちから逃げて、私たちは二人でファミレスに入ったのだ。ファミレスに来るのは初めてだと言うと、ファミレスは飲み物飲み放題なんだよってヨリは自慢げに教えてくれた。そして二人であらゆる組み合わせのジュースを作って、お腹がタポタポになるまで飲み続けたのだ。でもあの時ヨリがドリンクバーのシステムをちゃんと教えてくれなかったから、その後他の子たちとファミレスに行った時、ドリンクバーを注文せずにドリンクバーを使いまくって注意される羽目になった。
じゃあもしかして𠮷野家も? もしかしてケンタも? ってどこにも行ったことのない私を、ヨリは面白がって連れ出してくれた。ここの福神漬けはただなんだよ。紅生姜は大量に載せた方がいいよただなんだから。プラス五十円の豚汁変更はマスト。なんだかんだ安いだけが全てじゃない。って、色んなことを教えてくれた。
「ニイナってほんと、これまでなに食って生きてきたの」
ヨリは私が世間知らずなことを笑ったりしなかったけど、よくそんな風に驚いた。普通のご飯だよって言い返したけど、そうやって外の世界の美味しいものを知っていくにつれて、確かに私は家に閉じこもり過ぎてたなって思った。ヨリは世界に通じる窓みたいな存在だった。全てがそこから開いた。そのことを正直に話すと、リアルラプンツェルやん、私ユージーンやん、ってヨリは笑った。
三種のチューハイを浴びたトシヤは身を捩ったあとまたぐにゃりとして、死んでいるようにも見えた。
「ここで海に放り込んだら、多分死ぬよ」
ミツオはバスタオルで髪の毛を拭うと外していたメガネをかけ直して、いつものミツオに戻った。
「死ぬだろうね」
海に入ったトシヤを見ていた限り、ちゃんと水泳を習ったことはなさそうで、一応平泳ぎとクロールで泳いではいたけれど、小学校で及第点をもらってたレベルに見えた。
「こいつは死んだ方がいいと思う」
ミツオは真剣な表情で、私を真っ直ぐに見つめて言う。害虫だからね、と答えるとヨリは笑ったけど、ミツオは笑わなかった。
「俺たちがこいつを捻り潰さないと」
彼が初めてこの真っ直ぐな目を向けてきたのは、一年前のことだ。
ミツオとは一年の頃いくつかの授業が一緒で、ちらほらと言葉を交わすこともあったけど、いまいち顔と名前が一致しないレベルのクラスメイトだった。入学当初から本気で狙っていた交換留学の選考を通らず落ち込んでいた時、ミツオがその選考に通っていたことを知って、私の中で初めて優秀なんだと印象が残った。そして一年の不在の後に戻ってきたミツオは、少しだけ垢抜けていたけれど、そこまで明るくなったとかコミュニカティブになったということもなくて、でも少しだけ強さが備わったように感じられた。発言する時、交渉する時、反論された時、怯えがなくなって、意志の強さが滲み出るようになった。
三年生になった頃から、カフェテリアにいると、時々ミツオがやってくるようになった。勉強のこと、授業のこと、ゼミや卒論のこと、共通の友達のこと、なんの変哲もない会話の中に、少しずつパーソナルなことに踏み込むような内容が挟まれていくことに、私は戸惑った。もちろん失礼にあたるようなことじゃない。でも、付き合ってる人いるのとか、恋愛に興味があるかどうかとか、どういう人が好きなのかとか、そういう話にスムーズに答えることができなくて、戸惑った。笑って誤魔化すような流し方しかできなくて迷ってた時、やっぱり初めてのしゃぶ葉に連れて行ってくれたヨリに相談したら、トシヤの一件がなかったらどう答えてたと思う? ってヨリは不思議そうに言って、私は考え込んだ。でも考えている内、あの一件がなかった自分には戻れないのに、あの一件がなかったらって想像をすることになんの意味もないのにと思って、少しイラッとした。
「もう戻れない自分を思い出して何になるの?」
ヨリは少し考えたあと、思い直したように微笑んだ。
「あれ以前のニイナは、別に消えたわけじゃないよ。ニイナは別人になったわけじゃない。知り合った頃の優しさも思いやりも私への愛情も、何もかも残ってる。消えてなくなったわけじゃなくて、恋愛に対して純粋な思いを持ってた自分を受け入れられなくなってるだけなんじゃないかな。きっとニイナはこれからどんどん自分を取り戻していくよ。そのためだったら私はなんでもするよ。あいつのこと殺したっていい」
「そんなこと言わないでよ。私はヨリにそんなものを背負わせたいと思わないよ」
「私だって背負いたくないよ。でも背負わなきゃいけない時はあるんだよ。世界に神様がいるなら、私たちのこの殺意は認めてくれると思う」
「キリストは殺人を認めないよ」
「悔い改めれば許しは得られるでしょ」
「そんな簡単なことじゃない。殺人なんてしたら、ヨリの人生も私の人生もめちゃくちゃになる。冗談でもそんなこと言わないで」
「私の人生はめちゃくちゃだよ。信頼してた先輩にも、お母さんの彼氏にもレイプされた。ずっと前から終わってるんだよ。終わってないフリしてがむしゃらに頑張ってきたけど、奨学金だってもう二百万背負ってる。生まれてからずっと引かれ続けてもうマイナス千くらい。ニイナの悲しみは私の悲しみだし、ニイナの苦しみは私の苦しみ。ニイナの仇をうつことは、私の仇をうつことでもあるんだよ」
そこまで言われて、私は何だか返す言葉が見つからなくて、ごめんって気持ちでヨリの取り皿にお肉を取り分けた。トシヤにレイプされたことを話した時、ヨリは自分の意思でトシヤとセックスしたことがあると教えてくれた。自分は母親にひどい養育をされたせいか、過去のレイプのせいか、それとも単なるそういう資質の持ち主なのか分からないけど、自分は自分を大切にしない傾向があって、自虐的にセックスをする癖があるということも。
「想像してみてよ。大学に入学して、これからたくさん新しいことに挑んでいこうっていう一年の春、超かわいい親友ができてバラ色の毎日。そんな時ミツオっていうちょっと静かめの陰キャ男子が言い寄ってきました。そんな彼が勇気を振り絞って、恋人いるの? 恋愛したいと思ってる? って聞いてきました。なんて答える?」
「うーん、とりあえず彼氏はいない。いたことない。でも恋愛はしたいと思ってる。好きなタイプは落ち着いてる人。大人っぽくて、ちゃんと話ができる人、かな」
「じゃ、俺は圏外じゃないってこと?」
やめてよと呆れながら、ネギと豚バラを湯搔く。
「えどうなの? 俺はあり? なし?」
「いや、そんななしなんてことないよ。てかミツオそんな言い方絶対しないし」
「ありなんだ?」
「なしなんてことないって言ったの」
「じゃああるでしょ」
「それはどうだろう」
ヨリと私はそんな馬鹿話をして、散々盛り上がったあと、ミツオのハイライトを見て、これはセンスがいいとか、自分を大きく見せてないところがいいねとか、自己評価が正確だとか、ヨリはめちゃくちゃ上から目線で批評してて、でも私はヨリと同じことを思ってたから本当はちょっと安心した。
「まあとりあえずデートしてみなよ」
「ミツオと? 二人で?」
「いやそんな、私行ったら私ヤバい奴やん」
「いやなんか、四人とか」
「私いま彼氏おらんし」
「彼氏候補とか」
「いま彼氏作るのやめてるからなー。セフレしかいないわ」
「えー。セフレですって紹介するの?」
「セフレのこと彼氏ですって言ったら逆にヤバない?」
そうだけどと笑っていると、二人で行っておいでとヨリは笑った。それで私はようやく腹を決めてミツオとデートに行って、嫌いじゃないっていうか、好きなタイプだなと思ったから、デートを重ねた。それでもやっぱりなんとなく恋愛というか男の人への苦手意識が拭いきれなくて、五回目のデートで告白された時はちょっと待ってほしいと保留にして、また数ヶ月後に告白された時は、自分の意思だけではなく色々な理由があって芳しい答えを出せないと有耶無耶に濁して、また数ヶ月後に告白されて、観念したように私はトシヤの話をした。ヨリと違ってミツオにこの話をするのは、あまりにも恐ろしい決断だったけど、断り続けている自分が壊れそうで、もう言わずにはいられなかった。
ミツオは黙って真剣に聞いていてくれたけれど、ニイナの気持ちも考えずに何度も告白するなんて無神経だったと謝罪した後、自分になにができるだろうかと悩んでいたから、ヨリは殺してやるって言ってたよと冗談で言ったら、俺も殺したいと彼は独りごちるように呟いた。
一回ヨリちゃんと会わせてよと言われて三人で会うと、雪だるま式に話は膨れ上がった。最初はドラッグのオーバードーズで死なせる案が出て、その次は交通事故に見せかけた殺人、その次はめっちゃ飲ませて急アルで死亡させる案、二人は急アル案にかなり盛り上がってこれしかない! ってくらい意気込んでいたけど、酒に弱い訳でもない大の大人の男を死ぬほどの急アルにさせるのは難しいんじゃないかという私の冷静な意見に、黙り込んだ。
「なんかないのかな。私たちにしかできない殺人。私たちだからこそできる殺人。なんかさ、殺人に最適な特技とかないの?」
スタバで割と大きい声で言うヨリに焦って口に指を当ててシーってする。ミツオは空手初段だと話したけど、それはあまりにも直接的すぎて使えない、ってヨリが却下した。私船舶免許だったら持ってるけどねと言うと、一瞬黙り込んだ後に二人は「えそれじゃない?」「それだよね」「それしかない」って盛り上がってクルーザーを使った殺人方法を考え始めた。クルーザーで岸壁に突っ込んで転覆、三つ浮き輪があったから三人だけ助かるっていうのは? でも岸壁にぶつかったら全部ニイナの責任になっちゃわない? 過失致死だよね? 確かに。じゃあクルーザーの底の部分に爆弾物をつけて、三人が海にいる間に起爆させて、無差別テロを装ってトシヤを殺す。三人は偶然海で泳いでたから被害に遭わずなんとか生還っていうのは? いやいや無差別テロでクルーザーに爆発物しかけるやついないっしょ。絶対怨恨筋で捜査される。
「一番簡単なのは、一人で溺れてもらうことなんだけどね」
私の言葉に、二人は黙り込む。
「例えばだけど、睡眠薬を飲ませてお酒を飲ませる。そのまま海に入って溺れてもらう。あるいは、クルーザー内で眠ったところを海に投げ込む」
すごい。完璧じゃん。私の超雑な案に二人は感心して、準備になにが必要か書き出し始めた。とにかく、あんまり泳げないヨリにはとりあえずスイミングスクールで特訓してもらうこと。四人で行くため、ミツオにマブとまでは言わずともトシヤと仲良くなってもらうこと。あと酔い止めに見せかけたカプセルに詰めるための睡眠薬を手に入れること。私は、出港には問題ない程度の、でも若干荒れそうな日程を探しだすこと。準備は着々と進められて、ミツオにはトシヤが取っている後期の授業に合わせて少しずつ仲を深めてもらって、精神科に通って眠剤を手に入れてもらった。都合のいいことに、最近あんまり眠れないんだよねと眠れない自慢を繰り広げたトシヤに、少しあげようかと分けてもらうことにも成功した。これによって、自分の意志でクルージングの前の晩に一人で飲んだと思わせられる。ヨリは就活と同時にスイミングの特訓。ミツオも就活と同時にトシヤ活。私はソロで、たまにヨリを乗せてクルーザーの運転を何度か繰り返して、運転の勘を取り戻した。
船舶免許を取ってからほとんどクルーザーに乗ることのなかった私が突然海に繰り出し始めたのだから当たり前かもしれないけど、就活に疲れて病んでるんじゃないかと疑いをかけられたりもした。
でも私はどこかで、ミツオが就職が決まったタイミング、ヨリが就職が決まったタイミングなんかで、皆我に返るんじゃないかなとも思っていた。だって、犯罪者になるってことだ。もし溺死と認定されたとしても、殺人は重たい罪だ。就職っていう未来が見えた瞬間に怖気付くんじゃないかって、私は思っていた。
でもヨリが一番に、ミツオが二番目に、私が三番目に就職が決まると、二人はいつ決行するか相談し始めた。意外にもトシヤの就職が全く決まらず、トシヤ曰くショボい会社にしか受かってないため就活を終わらせられないようで、二人はかなりヤキモキしていたようだった。
夏が終わる前にようやく納得のいく内定が出たと聞いて、二人はトシヤを誘い出した。大学最後の夏の思い出+就職祝いにパーっとクルージングをしようと言うと、文字通りノリノリで乗ってきた。私はあれ以来、トシヤとは普通の友達として接してきた。殺したいほど憎まれているなんて、きっと思いもしないだろう。飛んで火に入る夏の虫。という言葉を思い浮かべたのは生まれて初めてかもしれないと思いながら、なに、ニイナってクルーザー運転できんの? 貴族じゃん! とはしゃぐトシヤに目を細めた。
陽が落ちて、辺りは真っ暗だった。風が強まる中、航路レーダーを見ながら運転を続けて、ようやく岸が見えてきたところで振り返ると、すぐ後ろの席にいるヨリとミツオが完全に疲弊した表情で脱力していた。
「あそこが最初に出たマリーナ?」
「うん。結構長旅になったね」
「なんか昼とは全然雰囲気違うね。てか真っ暗だと海って怖いよね。上下左右とかが分からなくなる感じ」
空も海も黒くて、空くらいしか色がないから、夜の航海が不安を搔き立てるのは分かるけど、殺人を企てていた人が海を怖がるなんてなんかおかしくてクスクス笑っていると、ヨリがなに? と少し不貞腐れたように言う。ううん、と誤魔化して、運転に集中してるフリをする。実際は障害物があるわけじゃなし、運転なんてマリーナを出る時とマリーナに入る時くらいしか気をつけることはない。スムーズにいつものスリップに入ると、私は最後の片付けを始めた。あまりにも疲れていたから最低限のことだけ済ませると、降りようと声をかけた。
「トシヤ、行くよ」
ミツオが頰を叩いてトシヤを起こす。うーんと歯切れの悪い声をあげて、トシヤは起き上がった。何度かちらほら目を覚ましたかと思ってはまた寝てを繰り返していたから、二時間以上寝ていたんじゃないだろうか。船体を摑んで降りるよう皆に伝えると、私が先にお手本を見せる。船体に手をかけたトシヤが、ちょ、危ないだろ、と声をあげた。ヨリが小突いたらしい。ヨリは黙ったまま、なにも答えなかった。三人とも降りてマリーンセンターに向かって歩いていく途中で、ヤバいと呟いたトシヤが桟橋から身を乗り出して嘔吐した。びちゃびちゃびちゃと音がして、まだえずいているトシヤを背後から突き落とそうとするヨリを止めて、その小さな手を取って足早にマリーンセンターに向かった。出発してすぐに食べた、GURURIのベーグルが、今また海を汚している。友達らとクルージングに行くと言ったら、お父さんが朝イチで車を走らせて買ってきてくれた人気店のベーグルだった。お父さんもお母さんも、私が何も言わなかったから何も知らないはずだけど、何かがあったことには気づいてたはずで、内省的かつ内向的な娘が就職祝いに友達とクルージングに行くと言い出したのだから、よっぽど嬉しかったのだろう。マリーンセンターはもう営業時間を終えてて、帰還リストに名前だけ書くと、よしと声をあげた。トシヤはまだ桟橋で潰れているのか、マリーナとセンターをつなぐ電子ドアが開いた音もしない。
「いこっか」
「ニイナはいいの?」
「いい」
「私は嫌だ。あいつには死んでもらいたい」
「俺も、絶対に許せない」
「私今日さ、トシヤが死んだような気がするんだ」
「比喩的に? もう過去のことを忘れられるってこと?」
「過去は無くならないし、多分$mmは流れ続けるんだけど、二人が一緒に殺そうとしてくれたことも流れ続けるし、今日にかけた二人の思いみたいなものも、多分流れ続ける。それで私を追い詰める何かの一部分は、死んだ気がする」
「それにしたって。私スパルタスイミングコーチにめちゃくちゃしごかれたのに」
「俺も、大嫌いなトシヤにめっちゃ媚び売ったんだよ。ノートも見せてやったし」
言いながら二人は笑ってた。つられて笑って、「あいつ置いてこ」と顎でマリーナの方を指す。だな、まあそれくらいしないと、ミツオは珍しく冷たい顔で言って、「見てこれ」ってスマホを差し出す。
「あいつのポケットから抜いといた」
「まじ? どこに捨てよっか。轢く?」
「や、実は俺あいつのパスコわかんだよね」
「えっ、ガチかお前優秀すぎる。え、色々ヤバい情報あるに決まってるよね」
「なんとなく、ニイナはなんだかんだ殺したくないんだろうなって分かってたから、社会的に殺す手段も考えてたんだよね」
「え、ミツオやば! お前ほんと頼りになる! 掘って掘って掘りまくって内定先に送りつけようぜ! とりまGPSオフろう!」
はしゃぐ二人と一緒に駐車場に向かって車に乗り込むと、私はエンジンをかけた。二人は後部席で、すでにLINEのやりとりをチェックしてるみたいで、えぐ、うわきっしょ、と声をあげている。ねえねえニイナ! って声をかけてくるヨリをはいはいあとでねっていなすと、スマホを操作してスピーカーに繫いで、思い切り爆音で$m mを流す。ヨリはイェーイと声を上げて三人で思い切り歌うけど、下手くそすぎて全然誰も歌えてない。これ誰か完璧に歌える人いんのって言いながら駐車場から車を出した瞬間、バックミラー越しにヨタヨタと歩くトシヤの姿が目に入った。ハハッと笑ったけど、その声は爆音の“オラオラのVanity暴いてやる”にかき消された。
(了)