
わたしたちは一人でしか夢を見れないし、一人でしか死ぬことができない。そうじゃありません? あるいは、それが嫌で男たちは戦に出るのでしょうか?
私は戦に出たことはない。無論出たいとも思わない。ここでの「男たち」というのは本作の語り手である女房の「ちゃあ」が生きた戦国時代の男たちである。当たり前であるが、戦国時代の男たちは戦に出るのが当たり前だった。その当たり前はしかし少なくとも私にとっての当たり前ではない。だから「ちゃあ」が、それが嫌で男たちは戦に出るのでしょうか? と疑問を投げかけても原理的に私には答えようがない。にもかかわらず、私はこの文章を読んだとき、「きっとそうだ」と烈しく思ったし、「ここには本当のことが書かれている」とも烈しく思った。私は普段小説を読んでいるときに、一つの文章に対してそんな風に烈しく何かを思うことはない。むしろ私はそういう読み方をアフォリズム主義というかハイライト主義というか、もっと言うと小説を読み始めた頃の、非常に青臭い読み方のように考えている。しかし鈴木結生の小説を読んでいると、そういう風に一つの文章に対して烈しく何かを思うことが、けっこう起きる。鈴木結生の小説を読んでいると、しばしば小説を読み始めた頃の、青臭い読み方に戻ってしまうのだ。なぜか? その問いには最後に答えるとして、先にこの一文の続きを考えてみたい。
男たちは戦に出る。では女たちは? 大坂、夏の陣。今にも敵が城に攻め入ってこようとしているとき、ちゃあは何をしているのか?
ちゃあは物語っている。何を? 豊臣秀吉の、さるの物語を。そうしてさるが初めは玉栄の読みに従って、途中からはちゃあの読みに従って読み、最後は生きる上での御手本を求めては失っていく“御癖”によって、やはり放り出してしまうことになる、源氏物語を。それらを物語るとき、ちゃあは自らについても物語っている。
さるは茶や美術工芸のほかに能にものめりこんだ。演目「源氏供養」もやはり好んだ。「源氏供養」では紫式部の正体は、石山寺の観世音菩薩であるとされる。なぜ観世音菩薩が源氏を書いたかと言えば、これだけの物語も所詮は夢幻に過ぎないように、この世の生もまた夢幻のごときものなのだ、ということを人々に教える方便だったという。これに対してちゃあは次のように語る。
もし、本当に菩薩が紫式部となって物語を描いたとすれば、それは多分、「これは方便だ」という方便で、地上でしか出来ない喜びを体験したかったのではないでしょうか?
なぜなら、夢や仏は浄土にもあるのだろうが、浄土に本が置いてあるという話は聞いたことがない。あの世には、苦しみも忘却もないのだから本を書く意味はない。
だからこそ、もしわたしたちが地上を生きる理由があるとすれば、それは本だけだ、とわたしは思ったのでした。
私はこの文章を読んだとき、だからチェーホフは『ワーニャ伯父さん』を書いたのだ、と思った。本当に思ったのである。
そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなにつらい一生を送って来たか、それを残らず申上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい! と思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合せな暮しを、なつかしく、ほほえましく振返って、私たち——ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの。(神西清訳 新潮文庫)
なぜそう思ったのかは話が長くなるので割愛するが、鈴木結生の小説を読んでいるとそういうことがまま起きる。私自身について言えば、別に本だけが地上に生きる理由ではない。私には家族もあれば、社会的地位もある。そのほか、馬刺し、温泉、桃鉄、フットボール、性のよろこび、日本酒、シュラスコ、昼寝、バラエティ番組、芸能ゴシップ、王将、カラオケ、なども捨てがたく、それぞれが私の地上で生きる理由である。しかしその文章を読んでいるときだけは、私にとっても本だけが地上を生きる理由になった。心底から、燃えるように、焼けつくようにそう思ったのである。
ちゃあは宗易が切腹したしばらく後の連歌会で、源氏の「紅梅巻」から着想を得て、
世の広きうちはわづらはしけれ
と詠み、なぜ歌が三十一文字であらねばならないかを悟る。
この世界があまりに大きく、見渡す限りに淼々と広がっているので、ときには狭い器に押し競饅頭したくなるからではありますまいか。
この文章にある者は大江の『水死』を、折口信夫を見出し、またある者はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』におけるドミートリーのあの有名なセリフを見出すだろうが、私はと言えば鈴木結生自身を見出した。少なくとも本作において、淼々たる世界はこの100min. NOVELLAなる狭い器に、あるいは時に一つの文章という極小の器に、見事におさまっている。
(了)
