
朝、目が醒めて鏡を見ると、やっぱり私の頭の右側の髪はごっそり抜けていた。耳の後ろから頭頂までが、半分すっかり禿げあがっている。
私の長い髪が抜け始めたのは、冬のことだった。なんとなしに身体がだるい。起きあがるのが辛いことも多かったから、更年期かも知れないと考えた。しかし、あまりにも髪がごっそりと抜け落ちるようになったから、さすがに不安になった。病院を幾つも回っても、原因は不明。すっかり困り果て、禿げたところを隠すためにも髪を切ろうと美容師さんに相談したら、同じ症状のお客さんがいると教えてくれた。話によれば、どうやらコロナ後遺症らしい、ということだった。
確かに、ネットを検索してみると、コロナ後に髪が抜けた、というポストが幾つも見つかった。すがるような気持ちで、美容師さんが教えてくれた病院を受診し、ようやく自己免疫疾患という診断を得た。
すぐに入院が必要ということで、3日間のステロイドパルス治療が決まった。私は病院の清潔なベッドに寝転び、ただひたすら点滴をしてもらいながら、ぼんやりしていた。病院は新しくてピカピカで、医師、看護師、掃除や配膳の人に至るまでみんな親切で、美味しい食事を三食いただいた。私は暇を持て余し、iPhone片手にネットを渉猟し、熟慮した末5000円ほどのウィッグを買った。
私が大げさに入院すると言いふらしてまわったために、当面は仕事も何もない、ぽっかりと空いた時間ができた。子どもを妊娠して以来、ひたすら脇目もふらずに前へ向かって走ってきたから、こんなに暇なのもう何年ぶりか思い出せない。
病院の窓の向こうの塔には赤い十字があった。そのまわりには木々が茂り、その緑が色濃くなりはじめている。
そうしながらいつしか、私は、広島と長崎のことを考えていた。
というのも、この夏、バスを走らせて東京から広島、長崎へと、〈爆心へ〉というアーティスト・コレクティブとして、旅をするという計画がもちあがっていた。(注:アーティストの新井卓、川久保ジョイ、小林エリカ、竹田信平、三上真理子で立ち上げたアーティスト、キュレーターなどのコレクティブ。記録 Hal Xing) 長年にわたり広島や長崎と関わりのあるものいれば、さらには福島やマーシャル諸島などを訪れてやりとりをつづけているものもいて、そうでないメンバーも集まり、一緒に何かしようという話し合いが続いていた。私もそれを言い出したうちのひとりだったのだが、体調はこんなだしあれこれ任せきりになっていて、なんだか申し訳ない気持ちになっていた。
というか、正直、わからなかった。
私は、広島も長崎も旅行で訪れたことがあるきり。これといった深い知識があるわけでもなし、きれいな街並みや、美味しいご飯とか、そういうのはわかるが、そこで、私ができることなど、あるのだろうか。それになにより、そこはこの世界で、アメリカ、ニューメキシコ州でのトリニティ実験に続く、2つ目と3つ目の原子爆弾が投下された地であり、大量の殺戮の、死の、現場でもあるのだから。
Instagramのメッセージを開くと、あたたかなお見舞いとか、実は自分も同じ症状があったとか、放射線治療をはじめ、なんらかの理由で髪を失くした経験があるという友人や知人たちからの連絡が、幾つも届いていた。
長いこと知っている友人も、ほとんどはじめての人もいた。いずれも、会っていても、Instagramでも、そんなこと、私は微塵もわからなかったが、そこにはその人が抱える、病が、苦しみが、悩みがあった。仕事先には病を隠しているとか、家族の壮絶な経験だとか、それでもなんとか身体と折り合いをつけながらどうにか生きていると教えてくれた人もいた。なんだか、私なんか全然たいしたことないのにと、どこか申し訳なく、うしろめたくさえ感じて、ごめん、と友人にテキストを送ったら、くらべられるようなものじゃない、弱音吐いてもOK牧場、と返信がきた。
私は怖いのかもしれない、とはじめて気がついた。このところ、親しかった友を立て続けに3人亡くしていた。だから、立ちどまることが、振り返ることが、この目に見えているものを、その向こうにあるものを、見る、見ようとすることが、怖い。
広島で、長崎で、原爆の光の下を生き延びた被爆者たちがいまや高齢になり直接話を聞くことができる機会が失われつつある、という言葉があちこちで繰り返されていて、それを聞くたび私の気持ちも焦る。けれど同時に、誰に、何を、いったいどれほど聞けばいいのだろう、と戸惑う自分もいる。
広島の、長崎の、被爆者についての記憶を辿ろうとしたら、私のそれは、加納実紀代さんに行きついた。生前の彼女に、私は一度だけ会ったことがある。(注:シリーズ・ミニコミに学ぶⅠ 『銃後史ノート』編 『こうして戦争は始まる——孫世代が出会う「銃後の女たち」』)確かに、彼女は広島で被爆した被爆者だ。無論その経験が人生にわたり大きなものであるには違いないが、その時、彼女はひとりの女性史研究者としてシンポジウムの席にいた。
彼女は自分の名前が大日本帝国だった日本の紀元二千六百年にちなんで、実紀代なのだ、と話していて、私は不思議とそのことばかり記憶していた。これは果たして、広島の、被爆者の話を聞く、にあたるのだろうか。あるいは、それには、あたらないのか。
私は病院を退院した。自宅へ戻り、宅急便で届いていたウィッグをかぶってみた。ウィッグの人工の髪は、もとの私自身の髪より艶々していて、上等に見える。
私は、街を歩きながら、ウィッグをつけている人が、はっきり見えるようになった。いつも買い物をする薬局のお姉さんが、私と同じメーカーのウィッグを使っているのを、見る。
この夏、世界で初めての原子爆弾の開発と投下から80年。
8月が来て、私は〈爆心へ〉バスに乗りこみ、どうにか、広島へ、長崎へ、その街へ、やってきた。
共にその地へ到着したアーティストやキュレーターたちが、煌めくように立ち振舞い人と交わり作品をわかちあったり語らっている背中を見つめながら、しかしそもそも愚鈍な私は、結局何の準備もできないまま、何ができるかもわからないままだった。
はっきりいえば足手まといでしかなく、広島の原爆ドームの前でも、長崎の爆心地公園の真ん中でも、ただひとりぼんやりしていた。
とにかく酷く暑かった。ウィッグが汗で摺り落ちることばかりが気になった。
原爆投下日の記念式典のために、世界各地から、日本各地から、大勢の人が集まっていた。テントが建てられ、各々の声明を掲げた垂れ幕が吊り下げられ、千羽鶴が飾られ、花が供えられていた。
こんな大事な日に、こんな大事な場所にいる私は、一体全体何をしているのだろう。それでも、〈爆心へ〉バスでやら友やら行く先々で、みんなに気を遣ってもらったり、手取り足取りしてもらったりして、とにかく私は、そこに居座り続けた。
いま、私は、生きて、ここにいる。ただそれだけだった。
私はSNSで友人たちにテキストを送った。
ヒロシマナウ。ナガサキナウ。
幾人かが、時間をつくって私を訪ねてきてくれて、私に話を聞かせてくれた。話を聞いているうちに、たまたま通りがかった人が、一緒に話をしてくれることもあった。
長いこと知っている友人も、ほとんどはじめての人もいた。そこにはその人が抱える、その人が見る、広島の、長崎の、街があり、人生があり、時が、あった。
時々は笑い、時々は泣き、私たちは、生きて、ここにいる。地面の下にはずっと多くの死が、沈黙が、ある。
◯
あなたが見る、あの場所、あの時を、見ようとする。
◯
場所:長崎県長崎市爆心地
時:1994年春

あなたはひとり爆心地にたてられたフェンスをすり抜けかがみ込み、素手で懸命に土を掘っている。
被爆50周年事業だとかいうもののために、爆心地の地面が掘り返されていた。平和記念公園の一部、爆心地公園として整備するのだという。
あなたは、ここに人間の骨が埋まっていることを知っている。
あなたは、原爆落下中心碑の撤去反対集会のあと、バイクに乗って訪れたこの場所で、人間の骨を見つけたことがあったから。
それを知り合いの解剖学の先生に見てもらったら、24、5歳の女の骨だということだった。
土の下には、茶碗、歯ブラシ、おはじき、ガラス瓶⋯⋯原子爆弾が炸裂したあの瞬間まで、ここに生きて暮らしていたものたちが、人間ごと、埋まっていた。
平和記念公園に地下駐車場をつくるための工事した時にも、遺構1だって出たのだ。
「あそこだいじかよね」「あれはのこさんば」。あなたは友人たちと語り合って、のこさんば、とますます思う。
予定では、この爆心地に、彫刻家に多額の金を払ってつくらせる、よりによってドレスを着たオバサンの銅像、母子像を建てる予定だという。そんなものが建てられれば、宗教によっては祈ることさえできなくなるのに。あなたは、憤慨する。あなたは、市役所へ直談判に行く。ここには人間の骨が埋まっているのだから。
市役所の人間は、しかしそれでは工期が間に合わないから、と取り合わない。
公園の予定地の真ん中には、掘り出した土が積み上げられていた。その土やそこにあった物たちは廃棄物として捨てるという。
「遺骨を踏みつけにして何のための平和だ!」あなたが騒ぎ立てたおかげで、市は工事現場にフェンスを立てた。
あなたは、その土の下にあるものをなんとしてでも助けだそうと決めた。ここで出たものは何ひとつ持ち出してはいけないというので、あなたは、姉が縫ってくれたオレンジ色のサロンエプロンをつけて、ひそかにフェンスをすり抜ける。工事現場にかけられているぐらつく梯子を降り、掘られた穴の中へと降りてゆく。
はじめは、ふたりで掘った。しかし一週間したところで、そのひとは仕事があるからといなくなってしまって、結局、あなたはひとりで掘った。
あなたのサロンエプロンには、あなたが花柄の端切れをつかって縫いつけた8つのポケットがついていた。
帰り道はいつも、どうしたわけか、気づけばそのポケットがいっぱいになっている。あら、不思議。
ポケットには、ボタン、本、おはじき、歯ブラシ、蝶番⋯⋯土の下から助け出されたものが詰め込まれているのだから。
けれどあなたは、警察から咎められたりはしない。もしも骨が見つかった時には連絡して欲しい、と言われたきりだった。というのも、あなたのポケットにおさめられていたものは、市が廃棄した「ゴミ」なのだから。市も、文句は言えない。
あなたは、ひとりフェンスをすり抜け、土を掘りつづける。ポケットがいっぱいになりつづける。
丘の上で桜の花が咲いていた。あたりには桜吹雪が舞っていた。
あなたは、素手で土を掘る。爪に土が入る。
土の下から小さな骨が覗いて見えた。頭の骨。小さな歯が4、5本。
すぐそばからは赤、黄色の小さなボタンが出てきていたから、きっと女の子だ。
あなたは、カメラを持っていなかった。だから写真は撮れなかった。けれどそれよりなにより、あなたは、はやくこの子をここから助けてあげたかった。あなたは、土を、夢中で掘る。
骨を先生に見てもらったら、その女の子は、生きていたら4、5歳だったという。
あの時の、あなたと、ちょうど同じ年頃だった。
その女の子は死んでいて、あなたは生きていた。
あなたは女の子の名前がわからなかったから、「さくら子ちゃん」と名づけて呼んだ。
あなたは、あなたがそうして助けだしたものたちを、あなたがかつて通った銭座小学校へ寄贈した。
かつて、あなたが小学生だったとき、北側の校舎へ行くときは「おばけのとおっとぞ」と皆が噂していた。そこには爆風で割れたガラスが階段に突き刺さったままだった。おそらく原爆で人間が死んだ場所だった。
いま、一階の入り口に近い教室に、あなたが土の下から掘り出したものたちが、あなたがバイクで集めてまわったものたちが、展示されている。それらは、ガラスケースに入れられ飾られるのではなく、手で触れることができるようになっている。
ひとりの小学生が、原爆の高熱で泡立った瓦に手を触れ、「あたたかくかんじる」と言った。小学生たちが、その同じ校舎で、授業を受けていて、庭には向日葵の花が咲いていた。
あなたは、3歳で入市被爆している。あなたは井戸水を飲んで育っているし、あなたは川から採れる太ったアサリなんかも食べていた。よく考えたら、その川は、被爆した人がおおぜい飛び込み死体になって沈んだ場所で、ちょっと気持ちが悪かった。
あなたは、身体の具合が良くない。しばしば、入院も、手術もする。
あなたは、甲状腺癌も、肺癌もやった。鼻の先も皮膚癌で切った。あなたは、結婚して半年くらいで卵巣嚢腫で卵巣もふたつとも取ってしまった。あなたと夫は、子どもは大好きだけれど育てきれないから子どもいらんと、もとから話してはいたのだが。
ちなみに、夫は会って4時間で決めた相手。あなたも、あなたの夫もジャズが好きだった。

あなたは、毎月9日になると、ここ平和記念公園へやってきて、座り込みをやる。
あなたは、あの土の下から骨を全部掘り出せなかったことを、いまなお悔やむ。爆心地公園の階段の下から5段目。その右手の石垣の向こうに、骨が半分埋まったままのはずだ。
とはいえ、あなたが、市と交渉したおかげで、「被爆当時の地層」というガラス窓ができて、いま、ガラス越しにその土の下を垣間見ることができる。
あなたが、平和運動をはじめたのは、中学校の先生に誘われて行った沖縄で元ひめゆり学徒隊だった人の話を聞き、ガマを実際訪れたことがきっかけだった。あなたにとっての防空壕はどちらかといえば楽しいものだった。そこでは姉と一緒に遊べたし、早く警報が鳴らないかなと心待ちにしていたくらいだったのに。あなたは、こんなにも違うものなのか、実際に話を聞くと、その場所を見ると、こんなにもわかることがある、と驚いたのだった。
あなたはこれまでも、テレビに向かってあれこれ言ってはいたのだが、それをきちんと外でやることにした。あなたは、「核実験に抗議する長崎市民の会」に入ることにした。アメリカやフランスが毎日のように核実験を繰り返していた。あなたは毎日のように平和記念公園へやってきて座り込みをした。時々は怖いおじさんなんかもいたし、座り込みなんてして何の意味があるのかといわれたこともある。でも、あなたは、ひとの評価なんてどうでもいい。
「やってダメ元」。
あなたは、釜山の在外被爆者の人に会いに行って被爆者手帳を取るための手伝いもした。とはいえ、心が折れそうになるときもある。鬱病になって入院したこともある。
あなたは、平和活動は趣味です、と笑う。気力・体力・お金がかかるから。
あなたが、あの子どもの骨を掘り出してから、30年あまり。
あなたは、当時の地図を復元している人たちから、爆心地に暮らしていたという家族の知らせを聞いた。かつてそこに暮らしていた家族のうちに女の子がいて、その子は「道子」というらしい。
いつか、その子の本当の名前が、わかったらいい。
あなたは、いまも平和記念公園の階段のところで、毎月9の日の座り込みをやっている。今年も退院したばかりの新年9日から、座り込みをした。
あなたは、今年の8月9日も、ここで、座り込みをする予定でいる。
◯
2025年8月8日銭座小学校にて竹田信平氏によるツアー後、2026年1月13日長崎を再訪してお話を聞かせてもらった
引用・参考
「アートバス〈爆心へ〉号:爆心を結ぶ3000キロの旅 - 2025年8月8日 長崎」(竹田信平による竹下芙美さんのお話を伺うアンチ・モニュメント・バスツアー、運転手新井卓)
『赤いボタン』岡本央 写真・文 、大月書店
『忘れないで 長崎原爆とさくらこちゃん』竹下ふみ 著 西山進 絵
「苦しかったね」土の中から子どもの骨、涙ながらに掘り出した 長崎で被爆した竹下芙美さん #1964 」朝日新聞ポッドキャスト
場所:広島県中須のマンションの部屋
時:2012年8月5日

あなたは、音のない静かな肉体、一糸も乱れることなく佇まいを保ったままベッドに横たわり、沈黙し、死にゆく彼女と、大きな窓の向こうに走りすぎる山陽本線を見ていた。彼女の名前は、中村隆子。
部屋に出入りしていた「ネコ」という名のハチワレ猫はエイズに罹り涎を垂らしてどこかへいったままもう帰ってこない。窓の手前には大きなテレビモニタ。
あなたが、亡くなる彼女を看取ったのは8月5日。
あなたの62歳の誕生日の2日後、広島への原爆投下日 67年目の1日前。
枕元には、あなたと、彼女の孫が居た。彼女の娘はここではない別の場所で癌で死につつあった。
あなたは、彼女と10年間、この部屋で一緒に暮らしたのだった。
彼女に出会ったのは、あなたが30歳半ばの頃。彼女は20歳年上の50代。
彼女は中国新聞文化部の記者で詩人だった。
地方では女の記者がまだ珍しかった。地元には彼女ともうひとりしか女の記者はいなかったから、主婦の追っかけやファンがいるような時代だった。
彼女はユーモアがあって、わりと女にモテた。洋服なんかもファンがくれたのを貰っていたという。
彼女のイメージはカッコよかった。実際、格好もカッコよかった。

彼女は一度離婚ってものを体験してみたかった、とかいうような人だったから、20代で結婚して子どもは産んだが、親が育てていた。
あの頃、この広島の街にも、ウーマンリブの風が吹いていた。
あなたは真っ直ぐな剛毛の髪にパーマをあててソバージュヘア。あなたの髪は広がって、後ろから見ると三角形だったから、両手の指先で宙に描く三角形があなたの合図になった。
彼女はとにかくお金に対する執着がない人だった。お金はあった。
タバコは日に3、40本。銘柄はピースではなかったけれど何だったっけ。酒はいつも瓶ビール。冷奴と枝豆しか頼まない人だったから。
親の介護もあったし、彼女が中国新聞をやめたのを機に、あなたは彼女と一緒に「家族社」を設立。雑誌、月刊『家族』を刊行することにした。1
あなたが生まれたのは、広島県安芸郡船越町。そこは日本製鋼所、かつて日本一の武器工場があった場所だった。
あなたの父は、広島に原爆が投下されたその日の朝、あなたがいまこの話をしているこの場所、比治山に薪を取りに来ていたのだが、無傷で生きのびた。
あなたは、あなたの父が50歳、母が42歳の時、生まれた子だった。
あなたは、なんで産んだのかと、あなたの母に尋ねたことがある。
「自分は避妊を知らないからってお答えでしたよ、お気の毒様。」
月刊『家族』では、「ヒロシマ」ではなく、自分たちの「広島」を扱いたかった。戦後の家族の歪の問題を取りあげたかった。300部からはじめた。
彼女が喉頭癌になった。
声を失うというのは、思った以上に関係性にダメージがあった。彼女は喉のところにドイツ製の電動発声機をあてて声のかわりにする。彼女はロボット声で言う。
「わたしが喋ると金がかかるんです」。
彼女はこれまでのような一人暮らしが不安だったし、あなたの子どもはもう大きくなっていたから、ふたりで一緒に暮らすことにした。
それから10年。あなたと彼女は、あの部屋で暮らした。
彼女は全くお金を使わない芸術家。広告の裏紙に、醬油や煮汁があったらそれを使ってずっと何かを書いているような人だった。
けれど半年前くらいから動けなくなって、24時間寝たきりになった。
横たわると電動発声機がうまく使えなかったから、彼女は寡黙になった。
彼女は介護用に前開きの白やベージュのパジャマを着て、ガーゼの白やベージュの薄い布を身体に掛け、ベッドに横たわる。その横になる佇まいがすごく綺麗だった。一糸も乱れない。24時間、それは徹底していた。彼女は生まれが宮島の寺だからかな、あなたは、それがどうしてなのかわからない。
関係性がうまくいかなくなるときもある。
あなたはそれをなんとかしようと、写真を撮り始める。私がいつも見る側で、私は見られていなかったから。あなたは、あなたと彼女との関係性を変えていかなくちゃならない、あなたは、あなたと彼女の間に何かを置く必要があった。そうすることで、介護をつづけることができる。あなたは、彼女がガーグルに吐いた食べたものの色に芸術を見いだして、それに見惚れたこともある。
あなたは彼女が広告の裏紙に書いた最後の言葉を見つける。
「私はベッドの上で人権闘争をしています」。
彼女の点滴を切ったのは、あなたの誕生日の日。
あなたは、死に向かう彼女と、共に時間を過ごす。それは不思議な感覚だった。
あなたは日記に書き記す。
「死という孤独に横たわり、淋しささえも静けさによってかき消されている隆子さんが、もはやコトバによって世界と交信できなくなっている隆子さんが、いったいそばにい続ける人に横たわる身体を通して何を語ろうとしているのか。」
あなたは、彼女と、彼女の生と死と日々に向き合いながら、あなた自身に、あなた自身の言葉に、向き合うことになる。
あなたにとって、彼女は、あなたにとっての言葉というものを、教えてくれた人。
「ひとりの女として、最後まで一緒におれたのは、自分の人生にとって光」。
彼女は、身内とかそういうことでなく、あなたに、ひとりの女の死、をいうものを見せてくれた。
あなたは誕生日を祝福されたい人間でもないから、いつもどおりの日をすごす。
あなたは、彼女の詩集を取り出す。
無花果の木蔭で少年は四角を描き三角を描き
茜に透ける指先で 孤愁のような石を彫り
エレン・フールマンの瞳をそむけた。
『夏に昏れる』中村隆子詩集 「惑い」より
あなたは、彼女の死の後も、日記を記す。
八月十五日(火)
こひしいと呟いてみる掌に あなたが降りてくるよな気配
◯
2025年8月5日の比治山にて
協力
広島市現代美術館、カフェKAZE、アートバス〈爆心へ〉号、加納実紀代資料室サゴリ
引用・参考
『生の作法』詩 中村隆子、写真 高雄きくえ、音楽 いさじ章子、ひろしま女性学研究所刊
『夏に昏れる』中村隆子詩集、地球社
『広島同人誌あいだ3号』
『広島同人誌あいだ7号』
ヒロシマナウ ナガサキナウ