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Cover Illustration: ©Shishi YamazakiCharacter Illustration: ©DAISUKE KONDO

漫画は「生じる」もの
#読み切り#漫画#創作#宮崎駿#大江健三郎
エッセイ2026/09/28

漫画は「生じる」もの

長嶋有

大江健三郎さんと二〇〇七年に対談した際、漫画の話をした。この対談は公開の場で行われたもので、活字にもなっている(『大江健三郎賞8年の軌跡 「文学の言葉」を恢復させる』講談社刊)のでよければ参照してもらいたいが、ここで二人が語っている漫画は『PEANUTS』と『パタリロ!』だ。
谷川俊太郎が邦訳した前者はともかく、いかな大ヒットマンガとはいえ後者の方は、大江さんとの限られた時間の対談で話し合う「漫画作品」としては意外なものに思えるのではないか。手塚治虫やつげ義春といった、より「文学的」にも評価を得た漫画を云々するのがより自然に思えはしないか。
教養差も世代差も大きい、しかも初対面の対談だったから、我々は本番の前に簡単な手紙のやり取りをして、互いの興味を少し知っておくことにした。
僕から「対談の際は漫画やサブカルチャーの話もできたらと思います」と希望を述べたうえで、「たとえば大江さんが宮崎駿をどう思っているかなど、気になります」と書いたのだった(このとき僕が名前を具体的に挙げたのは漫画では『PEANUTS』と『パタリロ!』で、人名では漫画ではないアニメの宮崎監督だけだったと記憶している)。
大江さんからの返信にはまず「ぜひそういった話もしましょう」と賛同が綴られ、宮崎駿については「私は彼を評価しません。彼のしていることは文学の絵解きに思える」と続いていた(大江さんを知る人には分かると思うが、大江さんの「返信」は、こちらの出した手紙のコピーに書き込む形で、なんだか添削したようにもみえる形式で返ってくる。このときは、宮崎駿のところを丸囲みにして欄外に文字が添えられていたと思う)。
反対に、高く評価する名前として赤塚不二夫の名と、「なんと、私も自分の子供に『パタリロ!』を買い与えていました」と記されていた。
宮崎駿作品を「文学の絵解き」とすることに、異論はあるだろう。彼の仕事の一面しかとらえていない、ともいえる。また、仮にアニメ作品のテーマに文学的なものが含まれても(つまり、絵解きでも)その表現が優れてさえいればよいのではないかともいえる(そして大江さんは、表現が優れていることは否定していない)。
とにかく、大江さんには「文学観」「漫画観(アニメ観)」が明確にあったことが窺える。
で、僕には赤塚と『パタリロ!』とスヌーピーの三点だけで彼の「漫画観」がとてもよく分かった。
荒唐無稽、くだらない(笑える)、誇張(と省略)がある。そういった点が漫画の特性で、それが正しく発揮された三作だ。いずれも小説化がとても難しいともいえる。難しいうえ、活字にする甲斐が薄い。

漫画には絵があって、コマがあって動きを表す。必ず絵で描かれるところの人物造形は、その多くが簡略化された上に鼻は省略、目は大きく誇張されることで、現実以上の親しみを抱かせる。
誇張されるのはキャラクターだけではない。バトル漫画で深刻なダメージを負ったようにみえる主人公は、大ピンチでハラハラさせるが「次号」になると案外まだまだ元気で、逆転の一撃を元気いっぱいに放って勝利を収める。そのあとも一か月入院、リハビリに通って後遺症と戦うみたいな段取りは省かれ(というか、なくて)、すぐまた次の冒険や戦いに明け暮れる。
そういう「頑丈さ」を小説でも同じように書けるけど、引っ掛かりを覚える読者は漫画の時より多くなるだろう。明らかに複雑骨折したはずなのに、次の章でなんですぐ回復? え、病院は? とか思ってしまう。
もちろん、超能力的な力で回復したと「書く」こともできるし、説得力のある書き方で書けば、皆が納得するだろう。でも納得しつつ、ちょっと思う。
「漫画だな」と。小説なのに、そこだけ漫画だと思う。

現実でも、都合がよすぎる偶然の出来事や、とんとん拍子に進みすぎることや、ずっこけてしまうような不運が重なったりしたときに「漫画じゃないんだから」と思うことがある。ただ劇的なことなら「ドラマや小説じゃないんだから」ということもあるが、そこに不思議な偶然やおかしさが伴うとき、漫画になるだろう。
漫画というのは絵やコマ割りのことだが、「漫画のよう」と思わせる、つまり「状態」のことでもある。特に荒唐無稽、都合がいい、そういうときに現実さえ「漫画じゃんか」になる(そういう風に思うと、今や政治家や先端企業の社長まで、どこかが誇張され「キャラクター」化しているといえる)。

つまり、漫画は漫画というジャンルを離れて、小説でも現実でもなんでも、とつぜんそこに生じるものとしてあるのだといえる。
大江さんが文学の絵解きと思ったのと似たこととして、僕は漫画における漫画の「領分」のようなことをずっと思っていた。八~九〇年代に漫画表現が高度になり、描かれるドラマも壮大になってきて、漫画評論家がある作品を「これはもう文学を超えた!」と称賛したときに、なんだか鼻白んだのだ。
当時はまだ漫画の「地位」が低かった。美空ひばりは没後すぐに国民栄誉賞を受賞したが、同時期に亡くなった手塚治虫は勲三等だった。「今」なら考えられないだろう。
地位の低い漫画への応援の言葉が熱くなってくるのも自然なことだったのだが、「文学」を「超えた」らダメなんじゃないか、と僕はどこかで思っていた。
いや、「文学」を超えてないとも思ってないし、別に「超えて」もいいのだけど、そういう定規で測るのは、漫画の甲斐をなくしてしまうんじゃないか。くだらなく、都合よく、誇張されていることが本分、というか、漫画とはジャンルでなく、そういう「状態」のことのはずだ。
だから、大江さんではないが僕も、あまりにシリアス一辺倒で、奥深そうなテーマで、上手なだけで抜けがない絵の、高評価のいくつかの漫画作品に対して「ぜんぜん漫画じゃないじゃん」と思ったりする(漫画なのに)。

とにかく、漫画ばかり読んできた(から、大江さんとの対談でも漫画の話くらいしかふる話題のなかったくらいの)僕の小説だが、自分でもかなり「漫画」だなあと思っている。
拙作『夕子ちゃんの近道』(創元文芸文庫刊)では、『美味しんぼ』の主人公の母親や『めぞん一刻』のヒロインの夫のように、首から上が描かれない描かれ方をする人物を、小説で、しかも脇役でなく主役で書いてみようと思って、ああいう主人公になった。それで「あなたの文学は漫画の絵解きだ」とは言われず大江賞をくれたんだから、まあいいんだろう、とも。
くだらなさやおかしみもだが、最近は「いかに、漫画のように都合よく人が『勇気』を発揮できるか」を特に考えている。

(了)

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